T子への求婚状ーつづき
産まれ落ちた時から29年間、本当に思うままに生きてきて、尊い体験をさせてもらってきました。
これからの僕は、これにいくらかの恩返しをしたい。少なくとも僕だけはこの地にとどまって、
時に叱り、時にからかいながら育ててくれた村の爺ちゃんに、これが僕の嫁さんだと安心させて
やりたいのです。
いつも世話してくれる人が、「お前はもう少し条件を落とさんと、今どきの娘にそんな者はいない。
あとは何とかなるから、二、三年家を出ないか…」そう言われたこともあります。
今、たかが一人の女性(失敬)を得るために村を出るのなら、大学に行きたかった時に、ある
代議士が職を農林省に決めてくれた時に(勿論、国公農林技官の資格はあります)、もうとっくに
出ていることでしょう。
しかし、今の僕はしあわせなのです。ひっこみ思案の運動嫌いの僕を、この程度にも引っ張ってきて
くれた仲間と青年団を知ることができたのですから…。当時のまま、厳しい都会に出ていたら、
今頃僕は、生きていてもスクラップでしょう。
時計の針が午前二時を廻りました。今、窓を開けて夜の冷気を吸っていたら、風のない夜の中に
僕の好きな山がどっしり腰を据えてかすみ、家々の屋根がひっそりと息づいているようでした。
僕は、この村が好きなのです。
村の中を流れている松浦川は昔はきれいで、幼い頃は背丈ほどの糸に通して引きずって帰るほど
川エビが釣れました。雪の日は、先輩に連れられてメジロ獲りに行きました。
チューと鳴くのはメスで、チューリッと鳴くのがオスで値打ちがあるのです。かじかんだ掌に息を
吹きかけながら一日随いて歩いても、ミソッちょにはメスの、しかも獲りもちがくっ付き過ぎて
どうにもならないやつしか分けて貰えないのです。それでも嬉しくて、一ヶ月も血豆をつくりながら
こさえたメジロ篭に入れてやる時の喜びは素晴らしいものでした。その篭は、角を押すとグニャッと
潰れそうになる代物ですが、それでも自慢で翌朝は早起きしてイモとホーレン草を擦って餌をつくって
やるのです。
ところが空っぽの篭に、「逃げたッ」と思ってよく見ると、もう昨日のメジロは冷たくなって篭の底に
横たわっているのでした。ペチャやビー玉も、いつも負けてばかりいたけど、九つも歳の違う弟を
ミソッちょに入れて貰う頃になっても夢中でやりました。
とにかく田舎には、想い出が一杯詰まっているものなのです。
コンクリートの中で育ち、コンクリートの中でしか遊べない子どもが増えている現在、その子らの
心も豊かさが失われていく。田舎でも、このような傾向が見られるようになりました。これは、
あなたの方が専門だから、素人の僕が言うまでもないことですが、こうして育ってきた少年達の
思春期に僕は何かをしてあげたい。
もう五年ほど前、毎週土曜日には英語教室を二年半続けてみましたが、多いときは中学生が
十数人狭い僕の部屋に来ておりました。その子らが高校生になって、煙草を吸ったりバイクを飛ばしたり
して停学処分を受け、村の噂の中でよけいに反発していましたが、僕にだけはとても明るく素直に
接してくれました。学業の足しにはならなかったにせよ、教科書から脱線ばかりしていた僕に何らかの
親しみを感じてくれていたのでしょう。親と教師との中間にある指導者があの年代には必要だと思う
のです。
結婚して、もう一つやってみたいこと、それは今まで先輩の祝儀のつどお願いしてきましたが、
「若亭主と若妻の会」をつくることです。
あまり大きなことはできませんが、部落の催しや婦人会の
旅行ですらも姑に譲らねばならない農村の若妻に、月に一度はのろけ話をし、姑の悪口を言い、
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堂々と旦那さんと踊れる楽しみをつくってあげたいのです。その翌朝だけでも、心から爽やかな挨拶
ができるとしたら、いかに頑固なお姑さんもいくらかは和らぐことでしょう。
農村に生きるがために、僕自身の花嫁捜しも大きな制約を受けました。せめて後輩には、
威張って嫁を迎えさせたいと思うのです。そしてこの会が、結婚したとたん引っ込んでしまう若い人の
エネルギーを引き出し、まとめる契機となり、また村のすべてを支配する長老と青年をつなぐパイプ役
を果たせるとしたら、農村の封建制はいくらか薄らぐことでしょう。
… いろんな自分だけの夢を追っているのですが、あなたにこの手伝いをお願いしたいのです。
教師として不自由のない生活ができるあなたにひきあう話でないことは判っています。
しかし、誰かがこれをしなければなりません。
防波堤がなければ、湾内の小舟に安らぎはないのです。僕は夫として零点に近いことでしょう。
ただあなたが、あなたが生まれた村にもある問題と、この佐里で力を合わせて取り組んでみようという
郷土愛に期待するのみです。
確かに課題の多い田舎ですが、一方、少しの努力が大きな成果を生む可能性を秘めていることも
事実なのです。
あなたには、先ず周囲の人に笑顔を分かっていただきたい。僕の友人を歓待していただきたい。
最後に家族の者をいたわっていただきたい。この三つをお願いしたいのですが、なお余裕があれば、
僕の傍にそおっと座っていて欲しい…そんなことを考えています。
最初から妥協しては、これからの長いつきあいに飽きることでしょうから、思い切って書いて
みました。
これまでお逢いしたのが五回ほどでしょうか。
まだまだ飾らない自分をお見せすることもできませんから、最初にして結婚を申し込む手紙
としては全く失礼なことばかりですが、僕のすべてを知って貰うつもりで記してきたのです。
僕が初めて口にした「あきらめて…」いただくことの参考にして下さい。
僕はあなたとならやってゆけるし、あなたならできることだと思うのです。
もう朝がそこまでやって来たようです。おやすみなさい。
安 幸 T 子 様
【T子への求婚状】後日談
私は、この手紙とこの文章を掲載した「生きる」を彼女に手渡した。それから数日して、
先方の父親が婚約破棄の申し入れに来られた。
結婚に対する僕の思い入れが相手の気に染まなかったのか、
手紙を渡す前にこの文集に掲載したことが彼女の自尊心を傷つけたのか、見合いで始まった彼女との
縁談はそれっきりになった。
私は、T子との破談を淡々と受け止めた。そして、結婚に対する私の思いが
変わることもなかった。
私は、この文集を当時仕事のうえで知っていた今のつれあいにも1部を
手渡した。彼女は当時、九州でも著名な文学同人の仲間うちで「三K子」とか、もてはやされて
いたので、文学上の批評でも聞きたいと思ったのであった。
それが縁で、我々が結婚することになったのも皮肉なものである。
それから27年、私の人生は、それ以上でも以下でもなく、いまもってこの便りの範疇にある。
従って、これからの余生もそうであろうし、たぶん、この便りに託したものが私の人生そのものとなろう。
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