生きる-まとめ

いかがでしたでしょうか? 29才当時のankouを紹介したいと、駄文 をも顧みず
現在の心境を各々にコメントしながら、いくつかのテーマを比較してみました。
純真な青年時代の小生と、それから更に27年の駄齢を加えた現在のこの姿に
何かを感じて貰えれば、それが「生きる」と題した一青年のテーマだったのでしょう…
私の青春総括譜 「生きる」は、次のような装丁でした。

B5判、70ページのガリ版刷り

 50部を当時ご指導いただいている 方々や友人に配布した。

 今は手元に1部もなく、弟あてのものをコピー して保存しているだけである。

 表紙は、当時写真(勿論、白黒時代) に凝っていたので、1枚1枚 六ツ切の印画紙に焼き付けて作製した。
 従って、中身はともかく表紙はよくできていたと思うが、手元のコピーが薄く、ここまでしか スキャンできなかった。

 表紙写真は、24才の時に訪問したインドのタージマハールの光景である。

 ご存知の方もあろうが、ガリ版をきるということは大変時間がかかるもので、確か三ヶ月ほど夜の作業を 続けて、やっとのことで2月の誕生日に間に合わせた記憶がある。

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巻頭言  生きる  後輩に遺す
生意気なようだけど

 織田信長は、謡曲”人生50年 化転のうちにくらぶれば 夢まぼろしの如くなり”を愛唱していた と言われる。そうすれば、自分などは既に人生後半の途にさしかかったと言えるかもしれないし、 平均寿命70年の現代でも、戦争・公害・交通事故がいつ我が身に迫るやもしれず、時としては、 がんじがらめの機構の中で独りあがいているような無力感を覚え、三島先輩への追い腹を詰める ことを夢想することすらあり、これらからの潜在的な逃避として、こんなことを思い立ったのかもしれない。
 ともあれ、20年代最後の年29才の誕生日を迎えて、とりたてて言うべくもない29年の平凡な歩みなのだが、 20年代の若さからも独り身の自由からも縁遠くなりそうで、何かをまとめ残していたい寂しさにかられて、 生意気なようだけど、ささやかな足跡をとどめ、反省の一節として今後の精進を期したい思います。
 後席の級友から背中をつつかれて続きを催促されながら駄文をひねくっていた頃から書き散らし、法螺を 吹いてきたものをまとめていると、当時の暮らしと考えがよみがえってホノボノとした気分を味わえたことが 収穫のようです。およそ文章とはいえない文を乱筆でつづり読みづらいことでしょうが、先輩への感謝と 後輩への激励の敬意を受け取っていただき、笑い話のタネにでもなれたらさいわいです。

昭和46年 2月24日 署 名
 掲載内容は、この文集発行のために書いた「29才の断想」として、三島事件、宗教、 ノーキョー論、青年団、リーダー論をトップにしている。

 続いて、本人に渡す前にこの文集に掲載して、破談の因となった「T子への求婚状」までが、いわゆる 書き下ろし作品である。

 以下、いろいろな機会にあちこちの機関誌などに投稿したものや詩、歌詞などを紹介している。
 論文としては、23才の時に全国青年祭 意見発表の部に出場した際の原稿「明るい地域づくりに 果たす青年の役割」と、総理府が募集した全国青年海外派遣事業に応募した際(24才)の「海外派遣に寄せる 期待」が含まれている。

 若い時のものとしては、17才の高校生の時に書いていた「村政」があり、これは「生きる」発行後 十数年後、後輩たちが、青年演劇としてやりたいからシナリオと演出をしてくれと言ってきたが、照れくさく てお断りした。
 また、20才の時の「千羽の折鶴」は、勤労青少年の金の卵時代に全国で読まれていた「若い広場」で 特選に選ばれた作品で、唯一の原稿料を稼いだ傑作である。…が、ここでの紹介は、余りにも若すぎて 紹介する勇気がなかった。

 カットの似顔絵は、後輩の米倉幸久君に描いて貰ったが、ガリ版として コピーしたので、原画の良さを表現し得ていない。

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