自分を貫いて生きる

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 前編の「T子への求婚状」の中で、これをHome Page上で紹介するに当たり、『それから27年、 私の人生は、それ以上でも以下でもなく、いまもってこの便りの範疇にある。 従って、これからの余生もそうであろうし、たぶん、この便りに託したものが私の人生そのも のとなろう。』と記した。そしてそれから更に2年、58才の誕生日を過ぎた。独身史「生きる」を 書いたのが29才、それからの29年である。

 その思いの中で、最近の新聞で「岡本太郎ブーム」と題する、養女敏子さんへのインタビュー記事に 強く惹かれた。抜粋が少し長くなるけど紹介しよう。

 1970年、大阪で開催された日本万国博覧会の岡本作「太陽の塔」は、芸術音痴の私でさえ奇異に 思ったものだが、敏子さんは、「万博への協力は体制に身を売ることだと、岡本びいきの人まで そっぽを向いた。祭り好きのご本人は、全民衆が参加する祭りだと気にも掛けなかった。… テーマが『人類の進歩と調和』、それをテーマプロジューサー岡本が講演でもどこでも、おれはテーマに 反対だ。人類は進歩なんかしていない、人の足を引っ張り合いして何が調和だって(笑い)」
 「岡本は、ぶつかり合って、ただし、両方がフェアにぶつかって、すっくと立っている。それが調和と 言っていた。『太陽の塔』はそういう哲学によって作っているんですよ。…その後たくさんの博覧会が ありましたが、記憶に残ったのは『太陽の塔』だけでしょ。あれこそアンチ万博だったんですよ。 体制に協力しただなんて、ご当人はフフンと笑っていましたよ」
 「岡本は、社会に対してノンを貫くことが芸術家の存在価値であり、芸術とは生き方そのものだと 言い続けた。」…

 岡本敏子さんは、84才で太郎が死去した1996年に、財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団を設立して 理事長の職にあるが、「岡本太郎記念館(東京・南青山)は若い入場者が多いんですよ。手をつな いで来た

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頭が金髪の男の子と厚底ブーツの女の子が『すげぇー』。初めて見る岡本太郎の作品を前に硬直 している(笑い)。
 こういう若い人に、岡本太郎にぶつかって、それぞれの形で岡本太郎になってほしい。社会と対立 しなさい。自分を貫いて生きなさいと言いたいですね。」

 …敏子さんの言葉を裏返せば、芸術家は存分に自己主張を貫き存在価値を示すことができる、 そしてそれがたまたま彫刻であったり絵であったり小説であるとすれば納得がゆく。しかし、芸術家で ないものの人生は何であろうか。考えてみれば、私のこれまでの人生は、どう社会に迎合するのか、 周りの人とどう調和するのかに尽きていたような気がする。
それは決して反省ではなく、むしろ誇りに感ずる部分が多い。
 しかし、それが果たして自分を貫いて生きてきたといえるのだろうか。尤も、名利を求めず、 人生を終えるまで淡々と日々の暮らしを重ねていくことにも、凡人として「生きる」という意味がある ことも判らないではない。当然に、良きにつけ悪しきにつけ社会活動に参加し、家族の一員としての努め を果たすことにはなるのだから…

 それにしても私の人生は、子を残すという最小限の努めを果たしただけで、好きなことだけに時間を 潰し言いたいことを周囲に吐き乱してきただけのような気がしてならない。
 今になっては遅きに失するが、もっと自分を問い直し評価を気にせず、周囲から煙たがられる存在を 探るべきだったと自責の念が湧いてくる。

 自分の心の中だけの宗教家だった母は、自分の死期を知りながら自分の人生を何も語らず何も遺さずに目を 瞑じて逝った。
 今のところ、私がこのままあちらの世に行ったとしても、初対面の祖父や父に「やぁ初めまして…」と言う 言葉だけしか持ち合わせがない。

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