第2章



 「夕べは楽しかったか?」
 運転席から長瀬主任が声をかけてくれる。
 「はいっ。」
 と勢いよく答えたあとで、わたしはその答えが意味するところに気づいた。
 「あっ、い、いえ、あの…その…」

 かあっ…一瞬で頬が熱くなる。

 「…そうか。よかったな、マルチ。…大好きな人と……結ばれたか。」
 運転席からチラリとわたしに視線を向けた主任は、何度か首をうなずかせた。
 「……は、はい…。主任、本当にありがとうございました。ロボットのわたしにこんな
にすばらしい思い出を下さって…。何一つお返しできないのが申し訳ないです。」
 「何を言うか。ワシも嬉しいぞ。マルチが立派に育ってくれて。…なにせ恋をすること
までできるようになったんだからな。」
 少し照れたような口調で主任は『恋』という言葉を口にした。
 「…ありがとうございます。」

 運転席の灰皿からは吸い殻があふれている。
 きっと主任はずっとわたしを待っていてくれたんだ…。

 町並みをはずれて丘陵地帯に向かう。開け放たれたバンの窓から春の風が流れ込んでわ
たしの髪や制服のリボンを揺らしてゆく。わたしは目に見えるもの、耳に聞こえるもの、
肌に感じるものを一つ残らず記憶しようとする。もちろんご主人様とのすばらしい一夜の
思い出も。

 それが無駄な行為だとはわかってるけど。

 キイッ… カチャ…

 わたしたちを乗せたバンが研究所に到着した。入り口には白衣姿の開発スタッフがわた
したちを待ちかまえていた。

 ぺこり…
 
 許していただけるものではないだろうが、わたしは深々と頭を下げてみなさんにお詫び
する。
 「みなさん、本当に申し訳ありませんでした。わたしのわがままでみなさんにこんなに
迷惑をかけてしまいました。」
 
 ぽん、ぽん…

 …スタッフの人たちがわたしの肩を軽くたたく

 なでなで…

 …スタッフの人たちがわたしの頭をなでる。

 「よかったねマルチちゃん。」
 「想いがかなったんだね。オレ達も嬉しいよ。」
 
 思いもよらぬ優しい言葉。

 「ううっ、あ、ありがとう、ご、ございますー。」
 涙を袖で拭いながらわたしはかろうじてそれだけを口に出した。 

 「さ、こっちにおいで。」
 スタッフの人たちはわたしを研究所の裏側にある中庭に連れていった。
 わたしのまだ入ったことがない庭だ。

 建物の角を曲がって中庭に足を踏み入れる。ふわっ、わたしの目の前にやさしい色が広
がった。淡いピンク…少し染まった頬のよう…ご主人様と話すときのわたしの頬の色のよ
う。

 …そこにはゆるやかな風に花びらを散らす満開の桜の木があった。

 「ほーら、どう?」
 「うわあ…、きれいですー。」

 やわらかな日差しが差し込む中庭。何枚かのビニールシートが桜の木を囲むように敷か
れていた。淡いピンクの花びらが風の中にひらひらと舞っている。高校の校門にある桜に
勝るとも劣らない風格のある大きな木。

 「マルチちゃんと一緒にお花見をしようと思ってね。みんなで準備してたんだよ。」
 「お、お花見ですか?」
 「そうだよ。桜を見ながらみんなでわいわい騒ぐんだ。さ、主任、どうぞこちらに。」
 手際よく、スタッフのみなさんはジュースやおつまみを運んでくる。
  ひらひら…
 青いシートの上にも桜の花びらが広がり、ピンクの模様を作っている。
 ひらひら…
 スタッフのみなさんの髪にも白衣にも花びらがはりついてゆく。

 「…これで酒がありゃあいいんだけどなあ…」
 「はは、そーゆーわけにもいかんですよ。…はい、マルチちゃん、このジュース、オヤ
ジさんのコップについであげて。お酒だと思ってね。ね、ちょっと耳貸して……いいかい、
ちゃんと言うんだよ。」
 「はいっ」
 わたしはジュース入りのペットボトルをもって主任のところに行く。膝をついてジュー
スを主任の持っているコップに注ぐ。
 「えっと……、まあ源ちゃん。お久しぶりー。今日はゆっくり飲んでいってね。」
  わたしは教えられたとおりに言って、少し膝を崩して主任の顔を上目遣いに見る。

 どっ…
 「ひゅーひゅー。」 
 「よっ、マルチちゃん、色っぽいよー。」
  一斉に楽しそうな笑い声があがる。主任は目を白黒させてわたしを見ている。
 「えへへ… ウケちゃいましたあ…。主任、お注ぎしますね。」  

 とくとくとく…

 「マルチちゃーん、こっちもお願い」
 「はーい」
 わたしはスタッフ全員のコップにジュースを注いで回った。

 「ホレ、マルチも一杯いけ。」
 主任がわたしにもコップを持たせる。
 「え、で、でもわたしは…」
 「大丈夫だって。この程度ならなんの影響もない。」
 「じゃ、じゃあいただきます。」

 とくとくとく…

 「…あ、ありがとうございます。」

 ひら… 花びらが一枚、コップのジュースに浮かぶ。わたしの手の動きがジュースの表
面をそよがせ、それにつれて花びらもゆらゆらと揺れる。

 「いいですかー? それじゃ、マルチちゃんの運用試験が終了したことを祝って、かん
ぱーい。」
 「かんぱーい。」
 …ちく 一緒に声をあげながらもわたしの胸が痛む。そうだ、もう終わりなんだ…。

 スタッフのみなさんはジュースを飲み、桜を眺めつついろいろとわたしに話しかけてく
れる。話題はわたしとご主人様のことに集中した。

 「マルチちゃんはさあ、その藤田くんのどこに惚れたわけ?」
 全てです…
 「へー、マルチちゃんの代わりにパンをねえ…。いいヤツじゃん。」
 悪いところなんて一つもない方でした…
 「なにー、充電中にいきなり胸触った〜。オレその話聞いてないよ〜」
 ちょっと恥ずかしかったです…(ぽっ)
 「ゲーセンかあ、そういや長いこと行ってないなあ…」
 けっこういい勝負ができたんです〜
 「そっかー、それでマルチちゃんは急にお掃除が上手になったんだねー。」
 えへっ。手伝ってもらうとすごく楽しかったです〜
  「で、そのスパゲティ、全部食べてくれたワケ?」
 嬉しかったです…
 「…へー、いいコト言うじゃん、『マルチはマルチだからな』かよ。なかなか言えねー
ぜ。そりゃあ…。いいヤツを好きになったなあ。」
  ……はい。わたしの妹を必ず買って下さるそうです。

 楽しい時間はあっという間に過ぎる。わたしの内蔵バッテリーの残量が乏しくなってき
た。最終警告システムが作動する。そのことを主任に告げる。

 「…そうか。じゃ、みんな、そろそろ作業にかかるぞ。」
 「……はい。」
 花びらを払ってスタッフ全員が立ち上がる。名残惜しそうに桜の木を見上げ、そしてわ
たしを見る。

 その時、わたしはふと思いついた。思い切って口を開く。
 「あ、あの…」
 「ん、どうしたマルチ?」
 「みなさんに、ちょっと聞いて欲しいんです…。」
 スタッフのみなさんがわたしに注目する。
 「…あの、わたし、みなさんに育ててもらって、本当に嬉しかったです。それに最後に
こんなにすばらしい思い出までいただいてしまって… なんてお礼を言ったらいいのかわ
からないくらいです。…あの、ご主人様に教えていただいたんです、聞いて下さい。」

 うまく歌えるかどうかわからなかったが、わたしは精一杯気持ちを込めて歌った。

 桜はひらひらと花びらを散らせている。
 昨日下校するときのように。
 ご主人様にこの歌を歌っていただいたときのように。

「あ〜お〜げ〜ば、と〜お〜と〜し、わ〜が〜し〜の〜お〜ん、お〜し〜えの〜 に〜わ
〜にも〜 は〜や〜い〜く〜と〜せ〜
  ………
   い〜ま〜こ〜そ〜 わ〜か〜れ〜め〜 いざ〜 さ〜ら〜ば〜」

 しーん、と静まり返っていたスタッフのみなさんの間から鼻水をすすり上げる音が聞こ
える。一呼吸おいて、

 ぱちぱちぱちぱち…… 
 みなさんがあたたかい拍手を下さった。
  
 「…いやー、マルチちゃん、じょうずだったよ。」
 「へへ… じーんときちまったよ。」
 「あ、ありがとうございます〜」


 「…さ、はじめるか。」
 長瀬主任の声を合図にわたしたちは研究室に向かった。

 煩雑なチェックを経て、わたしの体は作業用のベッドに横たえられる。
 長瀬主任がわたしの顔をのぞきこむ。
 「…マルチ。お疲れさま。これでお別れだ。」
 「はい。わたしの妹たち、よろしくお願いします。みんな、きっといい子になると思い
ます。」
 「そうだな…。……マルチ、一粒の麦のたとえを知っているか?」
 「むぎ… ですか?」
 「ああ、むかーしの本に書いてあるんだ。一粒の麦はそのままではいつまでたっても一
粒の麦だが、自分が土に蒔かれるとたくさんの実りをもたらすって話だ。」
 「……わたしもその一粒の麦になれるのですね。嬉しいです。妹たちのためになれるの
ですね…。わたし、しあわせです…。主任、スタッフのみなさん、本当にありがとうございました…」
  主任は小さく微笑んだ。
 「…そう、だな…」
 いつの間にかスタッフのみなさんもわたしの周りに集まっている。
 誰もがきゅっと口をかたく締めている。

 わたしにはその表情がわかる。
 涙をこらえていらっしゃるのだ。
 わたしは微笑みを浮かべる。
 わたしはここで笑わなくてはならない。
 ご主人様にも、この方達にも決して心の痛みを残してはいけない。
 「さようなら。」
 …泣かずに言えた。笑って言えた。
 
 「…データ送信準備よし。」
 わたしのデータは大型コンピュータにバックアップされる。そしてそのままおそらく二
度と目覚めることはない。

 一粒の麦… わたしは消えてしまうけど、それが妹たちを生み出すのだ…
 それがわたしにはじめから決められていたこと。
 しあわせだ。きっと。きっと。
  きっと。

 カチ

 わたしのこころに何かが接続された。

 さああ……
 
 砂時計の砂が落ちるようにわたしの中からわたしが無くなっていく。

 スタッフのみなさんと過ごした楽しい日々。
 短いけど有意義だった高校生活。
 最後のお花見。ジュースに浮かぶ桜の花びら。

 わたしを抱きとめて下さったご主人様の温かい手。
 わたしの名前を呼ぶご主人様の優しい声。
 ご主人様を想うわたしの気持ち…
 大事な一夜の思い出…

 …その瞬間、わたしは思わず大声で叫んでいた。

「やめてえええええええええええええええええええええええ!」

 しかし、その声はかすれたような小さな声にしかならなかった。

「ごしゅじんさまああああああ……たすけてくださいいいいい……」

 …わたしの記憶はそこでとぎれた。




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