第3章
開発室は重苦しい雰囲気に包まれていた。
誰もが聞いた。
マルチの最後の言葉を。
かすれたような声を。
ほんの少しの空気の振動を。
愛する娘の悲痛な声を。
愛する娘が、生きたい、と叫んだ声を。
愛する娘が、愛する人を呼んだ声を。
それに答えられない自分を責める自分自身のこころの声を。
「……主任。」
絞り出すような声で若いスタッフの一人が声をかける。
「……」
長瀬は答えない。
「主任。HM-12の仕様変更、もう決定済みなんじゃないんですか?」
「……」
やはり長瀬は答えない。
「主任!」「オヤジさん!」「どうなんですか!」
何人ものスタッフが詰め寄る。
長瀬がようやく口を開く。
「…そうだ。HM-12の量産型にはHMX-12のデータは利用されない。」
一斉にスタッフが激昂する。
「ばかなっ!じゃ、じゃあマルチちゃんはいったい何のためにっ!」
「そんなことオレ達は許せませんよ。」
「…何が一粒の麦です。えっ? それこそマルチちゃんは無駄死にじゃないですか…」
「マルチちゃんはオレ達の娘でしょう? 主任はそれで平気なんですか?」
しばらく暴言を聞き流していた長瀬は顔を上げてスタッフの顔を見渡すとにやり、と笑
った。おもむろに口を開く。
「…さて、ところで、君たちにちょっとお願いがある。」
荒い息をついていたスタッフたちは、顔を見合わせて長瀬の次の言葉を待った。
「…実はちょっと犯罪に手を貸して欲しいんだが、どうかな? まあ、器物損壊、窃盗、
放火、偽証、有印私文書偽造、業務上横領という程度だけどね。それでも立派な犯罪者だ。」
………しばらくの沈黙。
にやり… スタッフ全員が不敵な笑みを浮かべる。
「へへ… そうこなくちゃ。それでこそオヤジさんっすよ。」
「娘のためでしょ。それこそたとえ火の中、水の中。」
「そうっすよ。」
「たまには犯罪もやらねーとな。健康に悪いっすからね。」
「へへー、学生時代に鍛えた悪事の腕前、今こそ本領発揮できますよ。」
長瀬は一つ頷くと、一気に指示を飛ばす。
「よし、製造過程ではねられた量産用のボディがあったろう。あれを一体分こっちへ回
せ。管理用コンピュータにハッキングしてデータを改竄しろ。その一体は最初から無かっ
たことにするんだ。そのボディからマルチの偽物を作る。
…本物のマルチのボディは記憶を戻した上で完全保存。ウィルス汚染の可能性あり、と
でもしておけ。コード、そうだなhiroyuki-loveで封印しろ。
…出荷検査をパスできるようにダミーのプログラムを組み込む準備をしておけ。ダミー
プログラム解除用の起動ディスクの作成もな。販売管理用のコンピュータにも侵入して、
藤田浩之の名前とデータを組み込め。その名前で注文が来たらすぐにこちらで確認できる
ようにな。
…いいか、明朝4時をもってこの研究室は換気用ファンの過熱が原因で全焼する。保管
中の試作機HMX-12は搬出に失敗して全損。破棄処分となる。初期消火に有効だったは
ずのスプリンクラーは万一の漏水を恐れた長瀬の命令で作動が止めてあった。いいな。
…換気用ファンの発火改造はまかせる。マイクロ波を使って一気に高圧電流を流せ。あ、
それからファンは来栖川のものを使え。自社製品からの出火となればそう表沙汰にはでき
んし、原因の究明にも及び腰になるだろう。
…わかったな。作業開始!」
「おうっ!」
スタッフが一斉に動き始めた。
全員の顔に微笑みが浮かんでいる。
その様子を見やった長瀬は、にやりと微笑むと、
「さて、あとはその藤田くんとやらだな…。一度お会いせねばならんが…」
と誰に聞かせるでもなく口に出した。
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