戦記-ニューギニアの思い出-
元大日本帝国海軍兵曹長第九艦隊司令部附

出雲三郎(伊万里市在住)

待望久しかった念願叶ひ戦地勤務の命が下ったのは昭和18年11月5日頃であった。
昭和17年5月佐病普通科練習生の教員を命ぜられ鎮海海軍病院より赴任。三期目の56期練習生の卒業式を目前にしてのことであった。11月1日上曹に進級し二重の喜びであった。上曹進級は高練卆の同年兵一率に轡を並べての進級で大した問題ではなかった。

練習生に対して入団以来8年近く経過しても未だ嘗て戦地を踏んだことがないとは如何にも肩身の狭い思いで恥ずかしい限りであった。
同じ教員仲間の井手福馬さんは私より1年先輩で10年の志願であられたが、私同様一度も戦地の経験はあられなかった。
戦地希望もせずただ黙々と与へられた任務に精進しておられたが、転勤できてよかったねと励ましてくださった。

新兵普通科高等科卒業後は理学的治療所(レントゲン)附きとして勤務され、私も1年後輩として大変お世話になったものである。 17年5月から一緒に教員を仰せ付かり、各期共先任教班長としてお世話になった方である。

転勤前には忙しい日が続いた。
洗濯物は整理し、衣嚢に詰めて転勤に際しては担いでゆく事になっている。
身の回りの品書物等は外泊で下宿に持ってゆく暇はなく、レントゲン暗室の2階の一隅に纏めて置かしてもらう事にした。生きて還ることが出来たら、レントゲン室に呼び戻される可能性があったからである。

戦地は第九艦隊司令部附きであった。ニューギニアらしいとの事である。 司令部附は麾下艦船部隊軍医長より艦隊軍医長宛に提出された患者月報告等の書類を集計整理し、海軍省医務局長に提出するのが任務である。入国以来レントゲン勤務だけの私に読み書き、ソロバンの達者でなくては出来ない仕事が私で出来るかどうか不安である。しかし、賽は投げられたのであった。

11月10日単独陸行佐伯防備隊に仮入隊せよとの事であった。
11月9日卒業直前の56期生全員120名、佐病玄関前道路に整列。見送ってくれる中、衣嚢を担いで挙手の礼にて行進するお別れであった。
途中久留米下車。戦車第49聯隊の舎弟岩雄に別れの挨拶を済まし、翌10日佐伯防備隊仮入隊。
佐世保鎮守府より集まった者55名司令部附全員集合。 私が一番最後であった。

先任伍長は森治上曹で通信科の方であった。外に運航科の上曹もおられた。
愈々駆潜艇白鷺は全員便乗、佐伯の港を後にした。生きて再び内地を踏むこできるだろうか。 唯運を天に任せる外なかった。 駆潜艇と云う心強さはあれど、ああもう何時敵艇の現れるやも知れず薄氷を踏む思いであった。

平穏な海原を南下する事約10日パラオ島到着。
早速第62警備隊に仮入隊。奥の方の一兵舎に佐五特の生き残りの帰還兵と同じ兵舎に入れられる。

南海の地に於いて敵と交戦。幾多の戦友散華される中、幸いに弾丸にも当たらず病気もせず帰還される兵士の生の声を聞き暗然とならざる得なかった。 戦地を熱望物見遊山の気持ちではなかったかと後悔される。 海抜4千メートルのサラケット越の実情を聞かして貰いこの身で果 たせるものだろうか不安でもある。

パラオ仮入隊中悪寒戦慄し四十度近い熱発ありマラリアではないかと心配したが検査の結果 マラリアではなくデング熱らしいとの事であった。爾来、生還できるまで一度もマラリアに罹患する事はなかった。何百人かの中に一人と云ふマラリアに罹らない体質に恵まれて生を受け幸せであったと感謝する。

兵舎の軒端にパパイヤの実が成っていた。この事を葉書に書いて故郷へ出したら両親いつまでも覚えていたとの事であった。

62警備隊仮入隊約半月ばかり佐五特の勇士と別れ、小さな汽帆船にて一路ニューギニアに向かう。約十日余りで辿り着いたのがホーランジャであった。此の地が最後まで印象深い地であろうとは知るよしもなかった。

船は停泊し小舟で陸地に渡った。小さな川があった。幅3メートル位深さ膝迄位 、きれいな水が流れて小魚が泳いでいる故郷の家より約500メートル県境の橋の下に泳ぐ鮒、赤ハエの小魚を想い浮かべしばし郷愁を覚えるのであった。

ホーランシャより約一週間後カイリル島を通り、中将旗飜えるウエワク半島司令部に到着した。司令部附55名全員整列。第9艦隊参謀長緒方正紀少将より訓示があった「お前達の来るのを一日千秋の思いで待っていた」との御言葉を賜り、有難さで涙が流れ、後は何とお話されたか覚えていない。
普通科練習生に直属上官の氏名を覚えさせるのに佐鎮参謀長海軍少将緒方正紀と覚えさせた其の方であった。 よい上司に恵まれた喜びはこの方の為には命も惜しくない感慨を覚えたのであった。

司令部の下に兵舎があった其の下の断崖の中腹に防空壕があった。司令部附全員此の兵舎で起居寝食を共にした。

朝は何時頃であったかまだ薄暗い内に起床。洗面後南十字星を背に全員集合遥か北方を拝し、森先生伍長の指揮の下、海行かば斉唱。
終わって海軍体操元教員であったとの事で其の指導を命ぜられた。終わって朝食、それぞれの任務に着いた。

軍医長は長置軍医大佐で、元佐病泌尿器科長であった方で、直接上司としてお世話になった事はなかった。それから樺島軍医大尉何処の御出身であられたかお尋ねした事と思ふが覚えていない。
司令部より少し離れた処に東屋があった。広さ4メートル角位のアタップ屋根である。 此処が軍医長事務室である断崖の上にあり、眼下には大平洋の波打寄せ、怒涛岩を噛み咆哮終日吼えていた。

軍医長の命により海軍省医務長宛「九艦隊5千人一ヶ年分の治療品送られたし」の打電請求をした。これが九艦隊司令部附としての最初の仕事であった。

3月のはじめ頃、司令長官の命によりホーランジャ地区に野戦病院敷地好適地を選ぶ様命ぜられ、樺島医大尉に同行出張する事になった。樺島医大尉とウエワク桟橋より汽帆船に乗船出港した。途中アイタベ沖に差しかかった頃敵の空挺出現。双方より機銃照射、洩光弾交錯反対側に身を寄せ幸いに被害はなかった。

明けてホーランジャ東方の湾に入港(地名不詳)此処は奥のセンタニ湖に海軍の大発を浮かべる為大発2隻を陸軍の協力で押し上げた処で大発峠と名付けられているそうである。
大発峠を登り陸軍のトラックに乗せて貰いセンタニ湖畔の派遣隊に着いた。大発に乗せて貰いセンタニ湖を廻った。琵琶湖より広いというが実際には判らない。広い平原に陸軍の飛行場が三つあるそうである。
北の方に高い山が聳え、終日雲がかかり、頂上を見た事がない。誰が名付けたか鷲霊山と呼ぶそうである。中腹に滝があり水量 豊富らしく、終日光っている。勝鬨の滝と呼ぶそうである。

派遣隊に滞在する事一週間ばかり、司令部より帰還せよとの命令あり。急遽、樺島大尉と司令部に帰投した。思いがけない事に驚愕した。

数日前の大空襲により司令部防空壕に直撃弾被弾。司令部附全員壮烈な戦死を遂げられたとの事である。同じ兵舎で毎朝、海行かばを斉唱した盟友今は一人もおられないのである。私も公務出張していなかったら恐らく運命を共にしたであろうと痛感。亡き戦友の冥福を祈るのみである。

麾下艦船部隊、軍医長よりの月例報告、書類一切到着せず、何もなす事なき日々が続いた。
司令長官駆逐船不知火に乗艦して、ホーランジャ方面に巡航される事があった。 中将旗不知火艦上高く飜えり。軍医長は随行。
上艦した出港直前、南方山上より突如敵機双発双胴ロッキード一機出現。我方待ってましたとばかり対空砲一斉砲火を浴びせ、敵機間もなく退散した。 ホーランジャ方面巡航終え無事元司令部に復帰した。 

ウエワクに勤務された日赤看護婦内地送還に、患者護送を兼ねてマノクワリに出張を命ぜられた。永い事御苦労様でした。戦地で一番恐ろしかった事は、尋ねたら、一斉に艦砲射撃と答えられた。麾の海を一路西へ三百里、無事マノクワリに辿り着いた。永年の御労苦に深謝すると共に多幸を祈って止まない。

マノクワリにては18警備隊に仮入隊する事になった。マノクワリは横須賀所属で、軍医長以下看護長先任までしつかりした態勢が整っていた。佐鎮所属の私は本所より遠く離れたジャングルの仮病舎に勤務する事になり、軍医官一名と下士官23名交互に派遣され、私だけは常駐する事になった。
マノクワリ湾口のヌンホル島に敵上陸する事になり、戦給品は分配される事になった。 暴飲暴食の祟りか腹痛を覚えた診断の結果、急性盲腸炎との事で急遽担架で本所に運ばれた。軍医長は東大出の外科の権威者との事である。無事順調に手術済み病室に休まされた。
翌日は空襲である。皆防空壕に入り私一人病室に残された。翌日の空襲は終日担架の上で防空壕の中であった。
盲腸炎は順調に快復し元のマンガッピの森に復帰した。

19年5月はじめ、8警備隊に仮入隊中の第9艦隊増勢隊は、大発に分乗してホーランジャに向け出港する事になり、さきに請求せし5千人一ヶ年分の治療品マノクワリに到着し、私も治療品の一部を積み参加する事にした。

大発は10隻前後に13ミリメートル機銃2基を備え、約10名位宛分乗した。操縦席の上に鼠がいた。この舟は絶対に大丈夫だと勇気付けられたりした。
5月10日頃ヤーペン島セルイに到着した時、九艦隊増勢隊任務変更の連絡あり。「ビアツク島『ボスニック』に到り揚搭作業に従事せよ」との事である。
やむなくホーランジャ行きは断念。ボスニックに向かった。

ボスニックは木陰一つない照りつける真夏の島であった。
住む兵舎もなく大木の下にやぐらを組む事にした。細い丸太を揃えかずらで組み、寝る処を作った。建築資材特に板の有難さを痛感した。背が痛くて眠れないのである。
ヤーペン島上空よりB29編隊で来襲した。防空壕もなく逃げ惑う中、一斉機銃照射あり。戦傷者続出忽ち阿鼻叫喚修羅の巷と化した。
桟橋に横付けしている弾丸あとに木栓をした。鉄船槍丸に患者護送を頼み、承諾を得たので陸海軍傷病者約30名応急処置をして乗船させ、護送して再びマノクワリ18警に着いた。

軍医長以下快く応対して下さって無事任務を果たす事が出来た。
ビアク島脱出は衛生兵なればこそ出来た事であり、ビアク島玉砕の勇士には誠に申し訳なきことであった。

元のマンガッピ病舎に戻り、安穏な日々が続き、終戦の日を迎え玉音放送を聞いた。

9月1日終戦兵曹長となりマノクワリ本所へ帰る事になった。 准士官室に入る事になる。今までの兵曹長は全員特務少尉に進級され第二官次室に入られるのである。准士官室は新任の兵曹長ばかりである。 昼食の為はじめて准士官に入った。テーブルに白布をかけ大皿に芋を5ヶ位づつ盛りならべてあり席に名札を置いてある。  看護科であるので主計科と共に一番最後の筈である席に着いてみて驚いた。最右翼に私の名前がある。18年11月に上曹に進級した者は私の外におられなかったらしいのである。

20年12月某日、蘭印軍使役部隊陸軍馬場大佐の派遣隊が編成される事になった。行く先はホーランジャである。海軍でも一ヶ中隊編成される事になった。私は九艦隊終焉の地であるので希望して参加さして貰うことにした。 使役部隊の人選については後まで問題であったらしいが、希望した者は恐らく私一人であったと思われる。

ホーランジャにては有刺鉄線が張り巡らされ、四隅には櫓を建て、上に兵士が銃を持って見張っていた。 私の仕事はマラリアコントロール(防虐)班長で、マラリア蚊のボーフラ発生の水溜まりに油を撒いて廻る仕事である。編成は私の外に陸軍海軍衛生兵78名と陸軍のトラックの運転士であった。思わぬ事に誤解を受け弁解しても通ぜぬ悔しい事もあった。戦い終わり一途に郷愁に暮れる日々であった。

蘭軍将校が日本軍将校に語った話を後日聞いた。
「日本人は世界一の優秀民族である。粗食に耐え勤勉である。日本はあと10年もしたら完全に立ち直るであろう。次の世界を支配するのは日本人だろう。其の頃蘭印はどうなっているだろうか。」と、悲痛な顔をしたとの事である。

21年6月20日和歌山県田辺港に上陸。
全員消毒を済まし軍事輸送列車で京都に着いた。 全員西本願寺に参り京都より軍事列車で故郷へ向かった。西本願寺参りは竒縁であった。馬場大佐の志であったと思われる。 一番列車には佐賀熊本の乗車であった。

伊万里で波多津の方と理髪をすましてから別 れ、帽は麦わら帽に変えて故里へ急いだ。         

                 -終-


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この戦記について次のようなお手紙を頂きました。

戦記ニューギニアの思い出 出雲三郎氏についてご照会

はじめまして 表記件名の貴ホームページの記事大変興味深く読ませていただきました。  つきましては、出雲三郎氏についてお聞きしたいことがありますので、メールいたします。 まず、自己紹介いたします。
名前  長置 彬 (ながおきあきら) 生年  1930年(昭和5年) 亡父  長置 盛保(文中 海軍軍医大佐) 住所  〒852−8127 長崎市大手2−2−10      電話・FAX 095−846−1672
mail addess aknagaoki@mtc.biglobe.ne.jp

記事に興味を持った理由  
私は、記事3ページ6行目に書いてある軍医長長置大佐の次男です。 父は、東京築地の海軍軍医学校を卒業後外科医として海軍に奉職しました。 (記事に元佐病泌尿器科長とあるのは、ただしくは、第九艦隊軍医長任命の前は第四火薬廠軍医長 外科医) 父は、1943年(昭和18年)11月横須賀から一式大 艇に搭乗し南洋諸島・ラバウル経由ウエワクに着任したことまでは、便りによってわかっています。 その後、音信不通のまま経過しましたが、昭和20年5月になり突然海軍省人事局長より、前年(昭和19年)5月3日ニューギニア方面 において戦死の公報がありました。母はじめ、遺族はその間の状況を知りたく、いろいろ調べましたが不明のままです。母は、4年前96歳でなくなりました。

☆ お知らせをお願いしたいこと。
(できれば) 出雲三郎氏のご消息氏への連絡先・方法   まことに、ぶしつけなお願いですがよろしくお願い申し上げます。 父戦死の状況がすこしでも分かれば、戦後は終わったと思えますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます。                                            草々                       長置 彬 拝

お返事

謹啓

メール拝見しました。今日そのままプリントして出雲三郎さまに送付 しますので、後日ご連絡があるかと存じます。ご連絡がない場合は再度メール くださいませ。 私どものホームページがお役に立てば幸いに存じます。

敬具 泌尿器科いまりクリニック 院長 小嶺信一郎