2012年
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
     (2011年の雑記帳はここをクリック)


12月
12月31日 大晦日
今年もついに大晦日、今年もみんなのお陰でまた新しい年を迎える事が出来そうだ。皆様ありがとうございました。
今日は早朝のパソコンの時間は戦後世界史の学習をして、昼は高校生の息子の2学期の期末テスト数学の問題を 考察して、夜は紅白歌合戦を見ながらFacebook観覧とコメントの記入。紅白を見かけたものの昔の様な面白味が僕には 感じられなくて途中で他局の懐メロにチャンネルを変えた。最近の歌は知らないから面白くないのかなと思っていたが 懐メロも何だか別の歌に聞こえ面白くも楽しくもなかった、昔の歌はあんなに好きだったのに何故だろう。
懐メロが終わってからまた紅白にチャンネルを戻してもらって経管栄養を落としながら観覧、なかなか印象に残る歌は なかったがプリンセスプリンセスの『ダイヤモンド』・石川さゆりの『天木越え』・北島三郎の『風雪流れ旅』には 感動した。紅白の勝敗をつける意味も勝敗をつけるその方法論も僕にはよく分からないが結果は白組が勝った。その後 「ゆく年くる年」で除夜を鐘を聞いてから寝た。僕が青年の頃は紅白が終わったらすぐに近くのお寺にって除夜の鐘を ついてたき火を囲んで集まった人たちと談話してから近所の神社にお参りして帰ったものだった。それが出来ない&家族と 連れ添って行けない今の状況は本当に寂しいものだが仕方がない。
今年も1年間何とか生きていけたなあ。

12月30日 今年の晦日の過ごし方は?
今日は晦日で家族は大掃除、僕は午後からYahoo GyaOの動画アニメサイトで今日までの『鋼の錬金術師』No51〜最終話を 見ていた。今日で鋼を見れる日はもう最後だったので最後の14話だけでも今日一気に見らなければならなかった。やはり 午後2時半から9時までの6.5時間一気には疲れた。でもとっても面白かった。鋼の錬金術師は何回見ても面白い、 いっその事DVD-BOXでも買おうかと思っていたくらいだ。どうしようかな。

12月29日 今年最後の訪問ケア
今日は土曜日今年最後の訪問ケアの日、今日のケアは午前中は洗髪・清拭・下洗い、午後は車椅子移乗介助、この年末年始 1週間は車椅子に座る事が出来ないから今日は存分に座っておかねばね。
午前中は訪問看護師さんと色々と語り合いながら看護師さんとヘルパーさんに頭・身体・下を丁寧に洗ってもらった。 久々に楽しかった。午後からは所長とYヘルパーさん、所長とYさんのコンビは初めてだった?かもしれないのであやゆい 場面もあったがまあ楽しく過ごせた。
訪問看護ステーションの皆さん・ヘルパーの皆さんお世話になりました、ありがとうございました。

12月28日 今週3度目のお風呂
今日が今年最後の入浴車、なんと今週3度目のお風呂だ。こんな事はもう11-12年ぶりかな。まあ週に3度目の入浴でも この身体にはいつもと同じくらいの疲れ、ありがたい。2日前の入浴の後は夜ひざが痛くなってとても困ったが今日は それもなし、良かった。本音を言わせてもらえば今年最後の入浴は出来れば明後日が良かったが曜日の関係では贅沢は 言えないな。
入浴車のスタッフの皆さん今年もお世話になりました、ありがとうございました。

12月27日 僕に挨拶がないのが気に入らない
病院でもそうだが家でも看護師さんやヘルパーさんが部屋に入って来た時挨拶もなく声掛けもないのははっきり言って 気に入らない。本日の担当ならば顔を見て挨拶するのが普通の常識人だと思うのだが、病院でも家でもそれが出来ない 看護師がいる。特に家では両親やモモにはにこにこ話しかけるのに僕には話しかけようともしない全く理解出来ない 人物もいる。それに最近はその人物の顔を見るだけでイライラしてしまう。困ったものだ。いっそのこと所長に 「(彼女が)僕の家に来る日を少なくしてくれ」と告げようかなとも思ったが、さすがにそこまでする決心はつかない、 それもまた困ったものだが。

12月26日 我が家の猫、モモ
今度もモモは僕の事を忘れてはいなかった。昨日も退院して家に戻ってから2時間ほどたった時モモが部屋に入ってきた 気配がしたと思ったらベッドに上がり脚の間に来て2.5時間ぐらい寝ていた。そして今日もリハビリが終わった後 入浴車の時間まで脚の間で寝ていたし夜も僕が寝る前に脚の間で朝方まで眠っていてくれた。1月前は週に一度ベッドの 上に来て脚の間で電気が消えるまで寝るくらいだったのに、いくら寒くなったとはいえ今は毎日脚の間に来て 寝てくれる。嬉しいものだ!。せめて寒い間だけでもずっと続いてくれるといいな。

12月11−25日 レスパイト入院
前の入院から2週間経ったので今日(11日)からまた2週間のレスパイト入院、前回入院した時僕の受け持ち看護師である 副看護師長さんに「(オーバーテーブルの天板の下の梁に貼り付ける)ナースコール用スイッチの端を蹴り上げても コールが鳴る様にして欲しい」と要望していたからスイッチも改善されていた。ただスイッチをきっちり押し込まないと ナースコールは鳴らない、何故だろう。退院数日前に分かった事だがスイッチが梁からわずかでも浮いていると (スイッチと梁の間に隙間があると)スイッチをきっちり蹴り上げて押し込まないとナースコールは鳴らない。やっぱり 強力両面テープで張りとスイッチとの間を張り付けないと2週間は持たないだろう。ともかく前の作業療法士のU先生に あの強力両面テープのメーカーと品番をメールで聞いておかねば。
2日目に血液検査と胸のレントゲンと心電図の検査を受けたが多分異常なし、だったはずなのだが6日目の夕方38.2℃の 熱を出しそれから4日連続38℃越え。5日目の土曜日の夜次の日の衆議院選挙で民主党がどのくらいで惨敗するか気に なって一睡も出来なかったからか。結局8日目の夜から抗生剤の点滴を4日間受け何とか熱は治まった。
今回パソコンにはSDカードの中に入院中にやりたい事(小倉百人一首No71-75と戦後世界史)を入れておいたのだか、結局 その気にならず使わなかった。
車椅子には熱発したその日(日曜日)と左足に点滴を打っていた日(2週目の水・木)以外は首と両脚に装具を着け 看護師さんたちに一度立たせてもらってから座らせてもらっていた。おかげで退院した日家では自動車の助手席から 車椅子・車椅子からベッドに移乗する時に膝が崩れる事もなく移れ今回の入院で僕の体力が弱らなかった事が分かった。 看護師の皆さん方、ありがとうございました。
21日は神経難病病棟のクリスマス会、車椅子に移乗させてもらい特別な席から観戦(舞台裏が丸見えの位置)。出し物は まず看護師さん2人によるザ・ピーナッツの『恋のバカンス』のデュオ、年配者の入院患者が多いこの病棟ではナイスな 選択で大うけだった。次は看護師さんたくさんによるハンドベルの演奏、いつもの事ながら手作り感いっぱいの演奏には ほんのりと涙がポロリ。その次は先生方によるマジックショー。楽しいひと時だった。ご苦労様でした。
今回の入院では主治医がリハビリの支持をし忘れたのかリハビリはなかった。まあ前回の入院の時の様なこわごわした リハビリなら関節も硬くなるだろうし脚の筋力も少しずつ弱くなっていく。あれじゃあリハビリした意味がなかったから 今度また理学療法士の先生に同じ様なリハビリをしてもらっても一緒だもんね。
今回の入院はなぜだか時間の経過がやけに長く感じていた。今回の入院は3週間前から決まっていた事だから精神的には 問題なかったはず。なら肉体的問題か、2週間の在宅生活では僕の身体のコンディションを元のリズムに戻す事が 出来なかったのか。難しいところだなあ。
退院の日はいつもより看護の流れが速かった、朝一番にお風呂に入れてもらう事になっていたから。午前9時過ぎお風呂の 迎えが来てベッドのまま浴室へ、朝一番の浴室はまだ部屋が温もっていなくて冷えていた。暖かいシャワーをずっと 掛け続けてもらってはいたが寒さで脚がブルブル震えて仕方がなかった、まあ11時半のお迎えに備えて看護師さんたちが 懸命に時間をやりくりしてくれているのだから全く文句は言えないけどね。身体を洗ってもらって浴槽に浸かって 人心地つき身体も心もゆったり、お風呂からあがってお迎えの時間までベッドの中でゆっくりしていた。そして11時半 嫁さんと訪問看護師さんが来てくれて看護師さんたちに見送られながら家路についた。看護師の皆さん、この2週間 お世話になりました。

12月10日 モモが家に来てからもうすぐ1年
モモが家に来てからたぶんもうすぐ1年(僕は去年のこの時期にはレスパイト入院していたからモモがいつ上の息子に ついて家に来たか僕は知らないのだが)、早いものだ。最近のモモはよく僕の部屋に来て寝ているし僕の脚の間にも来て よく寝てくれる。それにしてもこの2ヶ月でモモはずいぶん重くなった、半年ぐらい前に猫の免疫性の難病で元気が なかったころに比べると驚くほどの成長だ。あの時はモモがこのまま死んでしまうんじゃないかってずい分 心配したが…、もうモモは僕の大切な家族の一員だ。

12月9日 忙しい日曜日
今日で入院まで残り2日、せめてホームページの更新だけはしなければならないと思ってこの1週間の事を懸命に 思い出し出し雑記帳に朝から取り組んでいるがなかなか進まない。もう残り時間がないという気持ちが焦る心を呼び ますます書けなくなる。どうしよう、と迷っていても始まらない。とにかく何か思い出して書くしかないな。
嫁さんは今日は娘が入っている大学のコーラスサークルの発表会を鑑賞に行った。羨ましくもあるが仕方ない。僕は この間に気ままに雑記帳書きにいそしむor苦しむしかないな。

12月6日 焦るばかり
レスパイト入院前にやりたい事はいっぱいあるのだが一向に進まなくて焦りは大きくなるばかり。せめてホームページの 更新準備と中国史の清(乾隆帝)まで済ませて戦後史の資料をSDカードに保存しておかないと入院中に勉強できない、 これじゃあ去年(2011年度)のセンター試験の世界史の二の前だ。その他にもやりたい事がいっぱい。Facebookも未対応。 これじゃあ時間が足りない、どうしよう。焦るなあ!。

12月4日 衆院選公示
今日は衆院選の公示日、だけど今の僕は政治には全く興味をなくしてしまっている。民主党政権3年間のていたらく、僕が 一番腹に据えかねているのはこの3年間民主党政権がほとんど無駄の削減に取り組んでこなかった事。僕は前回の衆院選の 時の民主党の一番の売りは一般会計+特別会計合わせた無駄の削減、民主党なら絶対やってくれると思っていた。それが 民主党政府が提出した2009年度予算案は95兆円超、しょっぱなから裏切られた。だいたい今回の衆院選を前にして 民主党は前回衆院選のマニフェストを検証して公表したのか!。嘘ばっかしだ。
野田総理が何を唱えても民主党は信用できないし自公が政権に付けば景気は少しはよくなるかもしれいけど公共事業の オンパレードで国の赤字は拡大必至、未来の党は小沢氏の影がちらついてて気に入らない(3-4年まで 小沢ファンだったのだが)しみんなの党や維新の会に期待したいが後ろに後ろ暗い影を感じる。 いったいどこに投票すればいいのやら。

12月2日 アタックNo1鑑賞
昨日朝のケア(洗髪・清拭・下洗い)が終わってからすぐにパソコンに向かい筆まめの住所録の続きを入力して、午後9時前 やっと喪中のはがきを出す分だけの住所録の入力が終わった。喪中のはがきの文面は自分では出来そうにないので メールで娘に頼んで作ってもらった。あとははがきを買ってきて印刷するだけ、まだやりたい事はいっぱいあるけど少し 安心して心の中にちょっとだけ余裕が生まれてきた。
夕方そのちょっとした余裕に任せてYahoo GyaOでアニメを見る事にした。けれど今のGyaOには見たいアニメはあまり ない。しいてあげれば「サイボーグ009」「キャプテン翼」「アタックNo1」「アイシールド21」くわいか。そこで アタックNo1を見る事にした。「苦しくたって…」から始まる主題歌もポニーテールの鮎原こずえも本当に懐かしかった。 それにしても昔の少女アニメは意外と足を太く描いてあるなぁ。


[2012年の先頭に戻る]



11月
11月30日 時間がない
12月11日からまた入院なのにやるべき事・やりたい事が少ししか出来ていない。パソコンがWindows7搭載の新しいのに 変わって住所録が『筆まめ』になって一から作らないといけないのに今日までにまだ半分も出来てない。最低でも喪中の はがきだけは出さないといけないのに時間がない、焦〜る!。
やりたい事はたくさんある、@ホームページ更新A清の歴史(教科書程度)を学ぶ事B次の入院までに入院中に勉強する 戦後世界史の資料のコピーをSDカードに保存C日々のFacebook対応D入院する前に百人一首をもう5首覚える事E下の 息子の担任の先生にメールで送ってもらった下期中間テストの問題の見聞、など。どこまで出来るか、 こっちも焦るなあ。

11月28日 入浴日
今回は8日間病院にいただけなのに頭はものすごくかゆいし口の周りには発疹が出来ている様で少し痛い。病院の看護師の ルーティーンでは一人の患者のケアにそんなに時間をかける訳にはいかないから、赤ちゃん皮膚の僕は顔の皮脂を きれいに拭き取ってもらわないとすぐ肌が荒れて赤くなってしまう。昔の真っ黒元気小僧が実に情けない身体に なってしまったものだ。
今日は午後から入浴車の日、嫁さんがやわらかめの頭皮洗浄ブラシを買ってきてくれた。浴槽に入ってから洗髪の時に そのブラシを使ってもらったらとっても気持ちよかったし頭皮の垢もきれいに落ちて痒みも大分治まった。 サンキュー。

11月27日 モモが僕の事を忘れていなかった
家に戻って心配だった事は嫁さんの様子とモモが僕の事を忘れてしまったのではないかという事、現にモモが僕の部屋に 入って来た時僕がベッドに横になっていてもモモは全くの無関心。嫁さんがモモに僕の顔を見せようとしてくれても モモは僕の顔を見てもくれない、やっぱりねと寂しかった。けれど夜突然モモがベッドに飛び上がってきて僕の脚の間に ゴロン、モモは僕の事を忘れていた訳ではなかった。よかった、ひと安心!。下の息子は「モモは顔が悪い。」と いうが僕には可愛い顔に見えるのになあ。モモは可愛いうちの家族だもんな。

11月19−27日 入院
朝8時半過ぎ訪問看護ステーションの所長が来てくれて病院からの連絡待ちだと説明してくれた。そして9時過ぎ病院の 地域連携室から嫁さんのところに「ベッドがとれた」と電話が入った。11時過ぎ訪問看護ステーションのデルタ (リフト車)で訪問看護師さん2人だけに付き添ってもらって病院に入った。
病棟はいつもの神経難病病棟、病棟の看護師さんたちもベッドの用意万端僕を温かい笑顔で迎えてくれた。ただ 看護師さんがオーバーテーブルの下に貼り付けてくれたナースコール用スイッチが右足の指&甲で蹴っても 鳴り辛いのだけは参った。夜は無くしたものの大きさで辛くて寂しくて涙が出てなかなか眠れなかった。
次の日(火曜日)朝から血液検査を受け昼前にお風呂に入れてもらって午後3時過ぎいつもの入院の時の様に車椅子に 座らせてもらった。水曜日の午後だったか親父とお袋が洗濯物を取りに顔を見せてくれた。こんな状況だから 仕方がないのだが誰の見舞いもないのはやはり寂しいものだった、病室の周りの患者さんの所には毎日or2-3日に1度 家族が訪ねてきているんだもん。
病室では寝る事しかなく暇な毎日。どうしてパソコンをしないのかって、病院ではインターネットは使えないし 看護師さんたちにセットの仕方を文字盤を使っていちいち説明してまでもどうしてもパソコンでやりたい事はないもの。 それで車椅子に座っている時間と夜の経管栄養が終わってテレビを見ている時以外は毎日寝ているだけ、だって 寝ている事の他にやる事が見つからないんだもん。
木曜日の午後地域連携室の人が来て退院の時期について「出来れば12月11日まで入院しててほしいと奥さんから要望が あった。」と。ガーン、3週間も入院しておけというのか、事情は十分理解しているつもりだが僕の身体はどこまで 弱るかは心配じゃないのか!、とつい思ってしまった。それで「もしかして拒否は出来るのか?」と尋ねるときっぱりと 「ありません。」との答え。その夜は何とも言えない気持ちがしてなかなか眠れなかった。ところが次の日にも地域連携室の人が来て「昨日の話は聞かなかった事にして。奥さんから電話があって27日に退院して予定通り12月11日からレスパイト入院するという事で。」との事でちょっと安心した。
テレビカードは入院初日に訪問看護師さんに頼むのを忘れて初日はテレビを見ずに過ごした。次の日車椅子に座った時に 副看護師長さんがテレビカードがない事に気づいてくれて病棟のテレビカードを貸してくれた。この夜からテレビは 気兼ねなく見れる様になった。翌日親父とお袋が来てくれた時に病棟にテレビカードを返してもらった。ただお袋に 「テレビカードはもう一枚いるか?。」と聞かれた時についNoと答えてしまった。そして予定通り6日目の夜遅い時間に テレビカードの残量は0になりは切れてしまった。まあ翌月曜日嫁さんがようやく来てくれてテレビカードを 買ってきてくれたので最終日もテレビは堪能出来た。
今回の入院の病室は結構難しいところだった。前のベッドの患者さんはおそらく僕とおなし病気の方で本人もご家族も 人工呼吸器装着を希望されている方、隣のベッドの患者さんは何の病気かは分からないが呼吸器装着による延命の拒否を 宣言されている方。話しに聞き耳を立てているつもりは全然ないのだけれと2人の主治医との会話が耳に入って 来てしまった。お互いの話の内容がお互いに聞こえているとは思うのだが…、気まずくはないのかなとつい 思ってしまうような雰囲気だった。
リハビリは僕とは初対面の女性の理学療法士が2度来てくれたのだが、1度目はナースコール用スイッチを看護師さんが 調整してくれている時とぶつかり中止(前任リハビリ担当のU先生なら自分でちょちょいのちょいとスイッチを調整して リハビリに入っていただけたのだが、今回の先生は特殊な形状のスイッチについての知識ついでに関心は全くない様で 手を出そうともしなかった)、2度目はさすったりほんのちょっと関節を曲げるだけで僕にはリハビリと言えるものでは なかった。「ALSの患者にリハビリするのは初めてかもしれないが、顔を見ながら各関節の可動域を確かめて怖がらずに それ+ちょっとαは動かしてくれよ」と言いたかった…。
今回の退院は珍しく午前11時、朝のケア(下洗い)のついでに家のパジャマに着替えさせてもらって用意万端迎えを待つ。 11時過ぎ迎えが顔を見せ車椅子で玄関まで移動しリフト車に乗り込み看護師さんたちに見送られながら 病院を後にした。

11月18日 義母、逝く
昨晩義母が亡くなりました。
今年の1月食べ物が食べづらいという事で検査したところ食道がんだと判り、放射線治療・抗がん剤治療・免疫療法と がんばって戦っていたのですが、とうとう…。
一昨日の午後3時過ぎ義父(嫁さんの父)から「(お母さんの)調子が悪くなった。」と電話があり病院に様子を見に行って 夜遅く戻ってきた嫁さんに義母の具合を聞くと「ご飯が入らなくなった。」と、でも深刻そうな雰囲気はさほど僕は 感じ取れなかった。ところが昨日昼過ぎ下の息子を連れて見舞いに行った後6時過ぎに帰ってきた嫁さんに経管栄養の時に 様子を聞くと「もう長くはない。」と、この1日で義母の身体に何が起こったのか。そしてその後お母さんの所に 訪ねて行った嫁さんから「母が亡くなった」との連絡が入った。その事をお袋から聞いてからずっと鼓動が早くなり 息苦しかった。落ち込んだ、身体しんどくて仕方がなかった。
義母には何も親孝行できず僕の病気の事で心配ばかりさせていたのが心残りです。
僕は主治医に急きょ「夜分遅く申し訳ありません。先ほど妻の母が亡くなりました。初七日が過ぎるまでどこかの病棟に 入院できないでしょうか。明日の朝訪問看護Sの所長に神経難病病棟に電話を入れてもらいます。」と依頼のメールを 入れましたが、ベッドが空いているかどうかはまだわかりません。

11月16日 通院日
通常は2週間に一度の通院なのだけど、かかりつけの先生が目の病気で3度目の手術をし入院されている事と来週の金曜日 23日が勤労感謝の日の祝日でカニューレ交換が出来ないので、今日も通院日になった。
いつもの県境の峠の向こうの拡幅工事現場は側溝が峠の上から新しく造られた坂道を経て下の拡幅された道の側溝まで 繋がっていた。あとは歩道を作って舗装をすれば拡幅工事は完成する様なのだが…、 いったい何時までかかる事やら。
病院に着くと今日は主治医の担当の患者さんが多いらしく少し待ち時間があった。診察と処置を終え「次のカニューレ交換はレスパイト入院の日。」との話を聞いてから家路についた。

11月14日 W杯サッカーオマーン戦and野田総理「16日(衆議院)解散」を明言す
午後3時半の株式ニュースで野田総理が今日の党首会談で「16日解散する。」と口にしたと耳にしたが、口にした場面しか その時のテレビでは流れなかったので党首会談の流れの中で合意できない条件を付けて解散引き伸ばし作戦に出たのかと 高をくくっていた。
午後8時過ぎテレビを点けパソコンも消してブラジルワールドカップアジア地区最終予選日本vsオマーンの試合に 集中した。間もなく試合開始、ホームのオマーンは世界ランク86位とは思えないほど強かったし会場を埋め尽くした 赤一色のサポーターの応援もすごかった。試合は全体的にオマーンがボールを六割方支配している様に見えオマーンが ペースを握っているかに思えた。だが20分過ぎ日本が良い形を作って反撃、左サイドを永友が上がってゴールライン 沿いにえぐりこんでコール前にパスを出し清武がそれに合わせてGOAL、先取点を奪った。けれど後半30分過ぎオマーンに 同点に追いつかれ試合はそのまま終わるかに思えた。しかし終了間際DF酒井が左サイドを駆け上がりクロスを上げる、 そのボールを遠藤がヒールでちょこんとコースを変え岡崎が押し込んだ。これで勝ち点3を獲得、 だけどハラハラドキドキの試合だった。
テレビはそのまま報道ステーシーンに流れ込みそのトップが「16日解散」、その時初めて野田総理と安倍総裁の 党首討論の全景を見たが次期通常国会での議員定数の削減それまでの議員歳費の2割カットを条件に「16日解散」を 明言していた。驚いた、それとともに初めて野田総理が少し男に見えた。だけど16日解散なんてやけくそなのだろうか。 野田さんは解散後何人衆議院に残れると思っているのか、僕は50−100議席と思うけど。それに若手には代議士で い続けていて欲しいけど、実行が伴わないで責任回避の発言をしている口先だけの大物議員は落ちて欲しいな。

11月12日 数学の問題
夜上の息子が高校に入って初めて僕を頼ってきた、数学の三角関数の問題で。息子に問題を何回か読んでもらって息子が 解けたという(1)と(2)は何となく理解出来たが僕を頼ってくれた(3)の問題が全く概要も様子もつかめなかった。そこで しかたがないので問題用紙をスキャンしてもらった。そして問題をよくよく眺めてみたがどこから手を付けたらいいのか 予想もつかなかった。こんな時は問題に基づき出来るだけ正確に図を描いて分かっている事を総て図に記入し 眺めていればとく糸口も浮かんでくるものなのだが、頭の中に図を描こうとしてもなかなか描けなくてバラバラな アドバイスしか出来なかった。「明日まで待って」と言うのがやっとだった。情けない!。
夜の経管栄養を入れながらテレビも消して頭の中に問題の図と分かっている事を何度も何度も描いてみた。すると 少しずつ頭の中の図形がはっきりしてきた。そこで色々なやり方で色々な解き方をあれこれ考えてみた。けれども なかなか適当な解き方が浮かんでこなかった。それでどこの辺の長さ・角度・関係が分かっていれば答が出る可能性が あるか考え方を変えてみた。するとある考えが浮かんだ。その考えを突き詰めていくと答えが出そうな気がしてきた。 何回かこの考え方を頭の中で繰り返してから息子呼んでもらい息子にそのアイデアを伝えた。あとは実際にノートに 書いてやってみて解けるかどうか試してみてもらうしかない、頭の中ではそこまでは出来ないから。でも多分解ける、 そんな気がした。

11月10日 Facebookで怪しい友達リクエストがたて続けに
今週Facebookで怪しい友達リクエストがたて続けに3通来た。いずれも居住地が同郷で伊藤理沙/大島麻衣/加藤愛という 名の20代前半(理沙は生年月日が非公開なので写真から推定)の可愛い女の子。
理沙には「若い子が病気のおじさん相手にFacebookの上といえども友達になっていいの?。」とメッセージを送ったら リクエストが取り消された。麻衣のタイムラインにはメッセージboxはなかったが生年月日やプロフィールが 記してあったので、時には娘ぐらいの若い娘さんとFacebookででも話してみたいと思ってリクエストにこたえ理沙にと 同じ様なメッセージを送ったら…いつの間にか友達ではなくなっていた。そこで伊藤理沙と大島麻衣で検索してみたら… 同じ名前/同じ写真/違う住所の人間が複数個出てきた。だまされた。今日大島麻衣と同じ様な形で加藤愛という娘から 友達リクエストが送られてきたからブロックした。
よくよく考えてみるとFacebookはメールアドレスさえ持っていれば他人に成りすます事は可能だ。それももし複数個の メールアドレスを持っていたとしたら今回の様に悪意に満ちて同一人物で(写真は変えず居住地だけ変えて)複数登録する 事も出来なくもない。許し難い事だけど…。

11月9日 通院日
今日は通院日、(社協の)リフト車の車窓からかいま見えたコスモスも他の花々ももう散り街路樹の銀杏もだんだん黄色く 色付いてきていて山々の木々も少しずつ色付いてきた。 そろそろ訪問看護ステーションの所長さんに「町内の紅葉の 名所めぐりに連れて行って」とお願いしてみようかな。本当は神埼市の九年庵に一度行ってみたいけど…遠くて時間が かかるから無理だろうな。
県境の峠の向こうの拡幅工事現場も今通っているこの道の拡幅はもう終わっていて側溝も六割がた出来ていた。新しく 造られたショートカットの坂道はここ数ヶ月ずっと進展が見られなかったのだがなんと一次舗装が終わっていた。 この拡幅工事も進んではいるんだな。
病院に着きストレッチャーに移って救急処置室に入りバイタルを計り終えると主治医を待つ間に地域連携室の相談員の 方と12月のレスパイト入院の打ち合わせ。前回のレスパイトの時に12月の入院は神経難病病棟のクリスマス会を挟んでと お願いしておいたから入院は12月の中旬からと決まった。そのあと主治医が来て診察とカニューレ交換・胃ろう洗浄の 処置を受け帰途についた。
帰りの車窓からは田んぼの様子を眺めていた。もうどの田んぼも稲刈りが終わっていてがらんと寂しかった。 もう晩秋。
11月8日 気まぐれモモ
モモは相変わらず気まぐれ、前のモモはたまに僕の部屋のトイレに水を飲みに来るだけだったのに週に一度僕の脚の間で 寝るようになり、寒くなった最近はほぼ一日おきに僕の脚の間に寝に来るようになった。まあ寝る時電気を消すと ほとんど部屋から出て行ってしまうけど。モモが僕の事を人間と見なしてくれる様になった訳ではないようだ。嫁さんが モモに僕の顔を見せてもモモは何の反応を見せやしない、モモにとってやはりまだ僕は少し暖かい置物に過ぎない様だ。 まあ僕はモモにとってはエサもあげない・抱っこもしない・「モモ」と声もかけない動かないただの置物だから。

11月6日 訪問歯科
今日午後から久しぶりの訪問歯科の日(連絡がうまくついていなかったからかひと月以上のご無沙汰)、今日は先生が 診てくださると聞いたので楽しみにしていたが前回まで診てくださっていたN先生は訪問歯科医院を辞めて故郷の熊本に 帰られたそうで今日は初めての女性の歯科医だった。N先生はよく口の中の様子を尋ねてくださっていたし自分からも 色々な話をしながら声掛けしてくださる優しい先生だった。今度の先生は口の中を診るには診てくださったが、僕に 歯茎の状態を尋ねる事もなく歯科衛生士さんに「今までと同じ様に(処置して)。」と指示してすぐに帰って行った。
嫁さんからは「N先生の様なタイプはまれ。」と言われたが今度の先生にN先生の様な対応を期待しては いけないのだろうか。N先生なら「月に一度診にきて欲しい」とお願いするつもりだったが…止めにした。

11月5日 体調不良?かな
朝から少し身体が重くて熱っぽさを感じる、先週の金曜日にインフルエンザの予防接種を受けたからかな。でも午前中の ケアのバイタルには異常なし、ただの思い過ごしか昨晩眠りが浅かったからその影響かな。昼テレビを見ていた時もつい 眠ってしまっていたし午後3時半から車椅子に座らせてもらった時も少し疲れと息苦しさを感じてしまった。最近は 気温とか天候とか少しの変化で体に不具合を感じてしまうなあ。がんばれ、僕の身体よ。

11月3日 文化の日
今日は文化の日、祝日だから訪問看護はない。でもその代りヘルパーさんが二人来てくれて土曜のスケジュール洗髪・ 清拭・下洗いをしてくれた。不安だったか?って、Kさんがいてくれたから全然大丈夫?だった。

11月1日 もう駄目だな
僕の介護に何もかかわっていない親父に対し「動けない僕に外の風景の写真を捕ってきて見せてくれてもいいだろう」 という口実で、親父が少しでも歩き回ってくれればと思ってデジカメを買ったのだが…。一昨日下の息子に親父の所に デジカメを持って行ってもらったのだがお袋に「後でいい。」と門前払い、今日お袋から「使い方は息子たちに教えて もらいたい。」と言われた時に入院中に親父がよく本を読んでいたと聞いていたから「(取扱)説明書を読めば解るから」 と答えたらずいぶん不満げな顔をしたからこれはもう言うだけ無駄と諦めた。
充電の仕方・デジカメ本体の電源の入れ方・シャッターの切り方(・ついでにズームの仕方)さえ覚えれば撮るだけなら 今のデジカメは昔のバカチョンカメラより簡単なのに。たとえ解らないところが出てきてもその時点で息子たちに 聞けばいいと思うのだが。それを触りもしない内から出来ないと言うなんてやらせる気が全くない。何事にもこんな 感じだから…もう駄目だな。親父には大好きな百姓を目いっぱいやって欲しいのに、収穫できなくてもいいのにさ。


[2012年の先頭に戻る]



10月
10月31日 リハビリがあまり楽しくなくなった
最近リハビリするのがあまり楽しみではなくなった。なんでだろう。自発呼吸が前よりだいぶ弱くなってきたと自覚して 苦しさに我慢してまで立つ必要はないと気弱になったからか、それとも生き続けたいという気力が弱くなってきた からか。自分ながら情けないと思うがリハビリを楽しもうとの気力が湧いてこない。
今日も心の色々の葛藤の中立つのを拒絶した。このままではその内立てなくなる身体が弱ってきてしまうと頭の中では 十分解っているのに…。気力が湧いてこないとは…実に情けない!!。

10月29日 荷物着く
今日は親父の83回目の誕生日、ちょうど今日ネットで注文していた荷物が着いた。その中に親父に使わせようと思って 買った昔のカメラに外観が似たデジカメもある。偶然だが親父の誕生日プレゼントみたいになった。ただ夜もう親父も 寝ていたしそれに今日親父のもとに届けてくれる時間的余裕のある者もいなかった(親父があれこれ聞くかも しれないし)、少し残念!。まあいいか。
何とか親父がデジカメを使う気になってくれればいいが。

10月28日 娘帰る
昨日の夜帰ってきた娘が今日午後3時過ぎ大学のある街に戻っていった、なんでも冬の服を取りに戻って来たらしい。 こんな時さほど遠くない大学に行った事を娘は喜んでいるだろう。僕なんか片道12時間かかって鈍行列車で行ったり 戻ったりしていたから大学が長期休みの時しか家には戻れなかった。まあ家に戻る所持金も普段はなかったから家に 戻る前は必ずアルバイトしなければならなかったけど…。
家に戻ってきた娘と少しの間だがゆっくり話す事が出来た。家族もみんなそれぞれ忙しい様で僕とゆっくり話す機会は なかなか作ってはくれない。まあ嫁さん言わせれば「自分が中高生の時親と話した?。」という事になるが。確かに僕も あの頃親とよく話をしたとは言えないし、その上僕の話を聞くには文字盤を使わねばならぬ、時間もかかるし 立ちっぱなしだから疲れもするだろう。僕が家族の立場でもなかなか話はしないかもしれないな。

10月26日 通院日
今日は退院してから2週間後の通院日。リフト車の車窓から最初に見えたコスモスはもう散っていたのでコスモスの時期は 終わったなと思っていたが、実は今が花盛り、コスモスの傍には行けなかったが秋の風情・香りは楽しめた。いつもの 県境を超えると(そこからが一車線)もう山の側面が削られて二車線(片側一車線)になるよう広げられほとんど側溝まで 付いていた。ただ新しく造られた二車線の坂道にはほとんど変化もなく下の方でシャベルカーが動いているだけだった。 この県道の拡幅工事、まだまだ長くかかりそうだ。
病院に着き車椅子からストレッチャーに移るといつもより広くて楽、実はストレッチャーを新しくしたそうだ。主治医を 待つ間に、先週この病院で行われた九州地区の国立病院機構の難病エキスパート研修会に参加した看護師さん達に宛てた メッセージ(退院する前病棟の副看護師長さんから依頼を受けた)の感想を嫁さんが受け取っていた。上の息子に スキャンしてもらってゆっくり見よう。まもなく主治医が来ていつも通りの診察と処置、そのあとリフト車に乗り込み 外来の看護師さん達に見送られながら家路についた。
帰りの車窓から田んぼの景色を見ていたが大部分の田んぼで稲刈りが終わっていた。自分ちの田んぼで稲刈りを しないのはやはり寂しいな。

10月26日 親父退院す
今日通院に出る前に親父が帰ってきて「今退院してきた。」と僕の部屋まで顔を見せに来てくれた。ひと月以上の入院、 まだ十分動ける身体なのに入院させてしまったのは申し訳なく思うが、酒に依存していて栄養失調の親父の身体を 少しでも改善させるにはそれしかないと思って賛同した。
これから親父には好きな百姓仕事をして欲しい。お袋に言わせれば親父のまめにフォローしないあのやり方では野菜は うまく育たないというがそれならそれでいいではないか。たとえ種代や肥料代がかかってもせれで親父の健康を買うと 思えば安いものではないか。
もう一つ親父にやって欲しい事がある。親父用のデジカメを予約した。11月初めには来ると思うから風景を自由に 見る事が出来ない僕の代わりに親父の見る景色をカメラに収めてきて欲しいのだ。そのくらいはやってくれても いいだろう。

10月24日 入浴日
今日は午後から入浴車が来る日、先週の土曜日(ケア:洗髪・清拭)でシャンプーがなくなっていたので嫁さんが頭皮に 良いとのCMが流れているシャンプーらしき物を買ってきてくれた。入浴車のスタッフからも「今日から新しい シャンプーですね。」とか「うちの主人もそれ使ってます。」とか声がかかった。
入浴車の準備が出来て浴槽に入りいざ洗髪、ところがシャンプーをしてる時もその後しばらくも頭部が冷えて寒かった。 気温がもっと下がってきたらこのシャンプーでは風邪ひくなと思った。せっかく買ってきてくれた嫁さんには 申し訳ないが嫁さんに相談してみようかな。

10月23日 実習生
今日から金曜日まで訪問看護ステーションに看護学校から実習生が来ていて僕の所にも挨拶に来た。そしてバイタルを 取り手足のマッサージをしてくれた。看護学校の実習生が来るのは今年二度目、いつもより若干時間がかかるから 面倒くさいと感じる事があるが、これから看護師になる人たちに訪問看護の何たるかを知ってもらうにはいい機会だから 少々面倒でもまあ我慢…かな。看護学校の学生さんたちがこの実習で何かをつかんでくれれば僕としても 嬉しいのだが。

10月21日 暇な日曜日
日曜日、暇な一日、昼からパソコン三昧。ホークスの今年の野球も終わって見るテレビもないし他にやる事もないから、 暇つぶしのパソコンやり放題。それもまた虚しいものだが…。
暇な日曜の一日も夜良い事があった、モモが脚の間で寝てくれたのだ。開けっ放しの障子から僕の部屋に入って来て どこかでごそごそしているなと思っていたら、モモが突然ベッドに上がってきて脚の間で寝た。しかも1時間ほど寝た後 部屋のトイレに水でも飲みに行ったのか一度ベッドから下りてからもう一度僕の脚の間に入り込んで眠った。こんな事は 初めてだったから嬉しかった。嫁さんは「夕方暴れ回っていたから疲れたのよ。」と言った。まあそれでもいいや。

10月19日 負けた負けた
プロ野球パリーグクライマックスシリーズファイナルステージは日ハムが三連勝して日本シリーズ進出を決めた。 ホークスは完敗、懸念していた通り打てなかった。クライマックス6試合で得点はわずか9(失点21)、この打力では 勝ち抜けるはずがなかった。小久保の引退を受け「何としても小久保選手に白のユニフォームを着せる」を合言葉に 試合を勧めたが結果から見ると打線の奮起がなかった。
去年の勝ちパターン、早い回に1・2番が出塁してチャンスを作り内川が返す、それで流れを引き寄せ追加点にダメ押し、 投手陣も先発・中継ぎ・押さえがきっちりとそれぞれの役割を果たした。今年はどうか?。投手陣は先発3人の移籍・ 開幕前からの馬原の故障・ファルケンボークの離脱という逆境の中で摂津・大隣・森福・岡島を中心によく投げた、 中堅も復活生きの良い新人も出てきてチーム防御率2.56は大したものだ。それに対し打撃陣はチャンスに打てなかった 印象が強い。来年こそは・・・。

10月17日 クライマックスシリーズ日ハム戦、負けた
今日のパリーグクライマックスシリーズファイナルステージ日ハム戦、僕の予想に反して先発は楊投手だったけど楊は よく投げた(6回まで日ハム打線を1安打無失点)。敗因は結果から見れば秋山監督の継投の遅れ、2安打目を打たれ 送りバンドでランナーが2塁に進んだ時点で森福または岩崎に替えるべきだった。なぜって@楊投手はランナーが出ると 球威が落ち制球が乱れる、現に送りバンドをした杉谷への1-2球目のボールは上ずっていたしホームランを打った糸井への 投球も全体的に高かった。2ホークスが入れた2点は運が良かっただけ、相変わらず打線は低調で追加点は望めない、この 2点を守り抜くべきだった。でも楊の将来のために秋山監督は続投させた。1stステージ3戦目西武渡辺監督の勝つための 非情さを見習うべきではないか。
まあ負けた事をぐだぐだいっても始まらない。今日から頑張ってもらおう。

10月15日 ホークス、クライマックスシリーズファイナルステージへ
いやー良かった!。テレビの中継が3−1ホークスリード9回裏西武の攻撃のところで終わってしまった、「福岡の テレビ局なら何とかしろよ!」と言いたかった(ちなみにうちはケーブルテレビでNHKとフジ系以外は福岡)。 いらっとしながらインターネットの速報を見ると岡島がオーディスにホームランを打たれて3−2の1点差、これはやばいと 思いながらもここで僕は夜の経管栄養タイム、パソコンはおしまい。報道ステーションに冒頭から孫正義さんがゲスト 出演していて古館キャスターの「おめでとうございます。」でソフトバンクホークスの勝ちを知った。やれやれ。
水曜から日ハムとのファイナルステージがもう始まるとの事。問題は先発ピッチャーのやりくりか?。初戦は山田しか いないだろう。そこで勝てば2戦目は武田で冒険、負ければ摂津で背水の陣。ともかく調子の良いピッチャーを早めに つぎ込んで日ハム打線を最少得点に抑え込むしかない、ホークスが取れるのはせいぜい2−3点だろうから。

10月14日 モモが…
パリーグクライマックスシリーズ1stステージ、今日でホークスに決めて欲しかったがぼろ負け。ホークス打線は 相変わらず打てない。少しイラつきながら夜を迎えた。ところがモモが僕のイラつきを収めてくれた。
モモは僕の入院中から僕の部屋に来て窓の桟の所でよく昼寝をしていたらしいが僕が退院してからも遊びに来てくれる。 その上今夜は10時くらいになって僕の脚の間に入ってきて寝てくれた、久しぶりで嬉しかった。これでホークスが明日 勝ってくれればひとまず万歳なのだが。

10月5日〜12日 レスパイト入院
8月の下痢入院から年末のレスパイト入院まで間が空き過ぎるし主治医はじめ皆から「2ヶ月に1度レスパイトしたら。」と 言われていた事もあり今日(5日)から1週間の予定でレスパイト入院。病院に着くといつもの神経難病病棟の顔見知りの 看護師さんたちが出迎えてくれてアンビューバッグで押してもらいながらストレッチャーでいつもの病室へ移動、ただし ベッドは今回は窓際で昼間は暑そうだ。
看護師さんに右足の甲で押すナースコール用のスイッチをオーバーテーブルの下の梁の部分に張り付けてもらい入院の 準備は全て完了。ただスイッチを足の甲で強く押さえつけないとナースコールが鳴りにくいのがかなり気になるが頼める 人を知らないから仕方がない。なぜってスイッチを微調整出来る作業療法士のU先生はもうこの病院にはいないから。
ノートパソコンは今回も持ってきた、どうしても住所録のリストをPDFでSDカードに保存したかったから。だから K看護師が夜勤で僕の部屋を受け持ってくれた時に1度だけ使った、K看護師なら「パソコンをしたい」と言っただけで パソコンも右足の親指と人差し指の間に挟んで使うピルケーススイッチをどういう風にセットすればいいか何も 言わなくても上手くセットしてくれると分かっていたから。
火曜日(9日)血液検査・胸と左の股関節のレントゲン・心電図の検査を受けた。そのあと主治医からは何の連絡も処方も なかったから僕の体調に追加治療が必要なほどの変化はなかったと理解した。左の股関節のレントゲンは時々左脚の 付け根が痛むから主治医にお願いして整形外科の先生に診察をしてもらうためのものだった。午後から整形外科の先生が 来てくれたが「レントゲンではとりわけ異常は見られない。様子を見ましょう。」との事だった。股関節の痛みは 入院して脚を動かさないと痛みが出ないから困る。
車椅子には看護師さんたちに毎日迷惑をかけながらも座らせてもらった、それも首と脚に装具を着けて立たせてもらって 移乗して。またリハビリの先生も火・水・木と毎日来てくれた。ただ関節の可動域を広げる訓練と肺のリハビリ、でも 人工呼吸器を置いている方の腕は呼吸器を外せないという事で左腕は万歳をしてもらえなかったし脚の筋肉運動は なかったから物足りなかったかな…。
退院の日僕は朝から「帰る途中に波佐見の棚田の案山子を見に連れて行って」と頼もうと思ってた。午後2時過ぎ嫁さんと 訪問看護師さんが到着、着替えや移動準備は病棟の看護師さんたちに任せて2人とも黙々と荷物の整理やら退院作業。 迎えに来た2人にはとても話しかけられる雰囲気じゃなかった。病棟の看護師さんたちにベッドから自動車の助手席に 移乗させてもらいたくさんの看護師さんに見送られながら病院を出て家路についた。帰りの自動車の中はひと言の会話も なくもの静か、ただラジオからの声が流れているだけ。仕方がないので外を眺めていると所々に咲いているコスモスが 満開でもう見頃、もうそんな季節になったのかと思う。
家に着いてもモモは迎えにも来ない、僕はモモにも歓迎されていない様だ。訪問看護師さんたちにベッドに 移乗してもらった時は身体がぬくぬくしていた。けれど2時間経ち3時間経つと身体が寒くなってきた。1週間も 経っていないのにこんなに部屋が寒くなっているなんて、びっくり!。

10月4日 レスハイト入院前日
明日から1週間の予定でレスパイト入院、いつもの入院前の日課どうしても必要なメールの発信とバックアップ作業と 僕のホームページの更新。でもメールの発信だけで朝と昼のパソコンの時間(合計4時間半)を費やしても結局は 終わらなかった。残りのメールは明日の朝やる事にしよう。夜のパソコンの時間はホームページの更新とSDカードへの バックアップ、しかしどこまで出来る事やら。

10月2日 中学校の応援歌、たぶん完成
中学校の応援歌の事で僕が校長先生に「応援歌の楽譜を探して」と暗に頼み込んだ(メールで)から、数日前音楽の 先生が応援歌をご存じの先生の歌う応援歌を聞いて譜面にしてメールしてくださった。ところが僕は音楽の才能は 少しもなかったから楽譜は音階ぐらいしか分からないし楽譜のメロディーや曲調なんかちっとも想像がつかなかった。 仕方がないので以前フリーソフトでダウンロードしておいた作曲ソフトを起動させ楽譜を見ながら音符を 入力していった(2日かかった)。曲を再生してみると所々僕の記憶の中の応援歌と違う。そこで記憶と違うと感じた 個所の楽譜と作曲ソフトで入力した音符を見比べるてみると音階のミスが数多く見つかった(音符間違いが一個所)。 そこを楽譜通りにやり直してもう一度再生してみると中学生の頃聞いた応援歌の懐かしのメロディーが聞こえてきた、 ただ4小節ほど僕の記憶と違う個所があった。そこの部分を僕のつたない記憶と照らし合わせながら試行錯誤して 少しずつ音階修正と再生を繰り返して僕の記憶の中の応援歌と合わせていきついに完成(たぶん)。
後はわが母校の中学校にどうやって残し続けてもらうかが問題となる。やはり校長先生に何とか応援歌を歌い継いで もらえるようお願いするしかないな。

10月1日 風邪ひきさんがいっぱい
9月の下旬に入ってから急に朝晩が冷えてきた。そのためなのかただの油断なのかは分からないが下の息子が珍しく 風邪を引いた。下の息子の場合飯もいっぱい食うし基礎体力もあるからすぐ治るだろうと高をくくっていたが意外と 長引いている。その下の息子の風邪が嫁さんにうつり上の息子にもうつった。今回のみんなの風邪は高い熱は 出ない様だし何日か寝込むほどの事はない様だが深い咳が出て身体がしんどそうだ(嫁さんの場合身体が 辛くなってくると眉間のしわが深くなるからすぐ分かる)。嫁さんも上の息子も喘息持ちだし下の息子でもなかなか 治せない様な頑固な風邪だからちょっと心配。


[2012年の先頭に戻る]



9月
9月30日 モモが…
最近モモ(我が家の猫)の行動が少し変わってきた。僕の部屋のトイレに水飲みに来る(モモはトイレの引き戸を自分で 開けるらしい)以外にも時々遊びに来る(残念ながら僕とは遊んでくれないが)し、1週間ほど前は久しぶりに自分から 僕のベッドに上がってきて1時間ほど脚の間で寝てくれた。それを見た嫁さんは「寒くなってきたからよ。」と 言ったが…。
今日の夜、またモモが僕の脚の間に潜り込んできた。この時のモモは何か落ち着かない様子で下の息子が僕の部屋から 出て行くとすぐにベッドから下りた。けれどしばらくするとまたモモが僕の脚の間に潜り込んできて今度は 寝てしまった。この時も嫁さんが夜の最後の吸引等を終えて電気を消して出て行くとモモも部屋から出て行った。 ところが夜中目が覚めるとモモが僕の脚の間で眠っているではないか、一度出て行ったモモが部屋に戻ってくる事さえ 珍しいのに戻ってきて脚の間で眠っているなんて初めて、驚いた。
いったいモモにどんな心境の変化があったのかな、僕はモモと一緒に寝れてとっても嬉しいけど…。

9月29日 中学校の応援歌
僕らが中学生の頃(40年前)のわが母校には校歌に並んで応援歌もきちんと存在しててちゃんと学校で練習していた。 5-6年前娘が中学生の時、なんとなく中学校の応援歌が気になって娘に「応援歌は知っているか?」って聞いてみた。 すると娘は「これでしょ。」と言って「清らなる・・・」と歌ってくれた。ところが娘が歌ってくれた応援歌の メロディーが僕の記憶の中のそれと微妙に違っていた。その微妙な違いが気になって娘に「学校で応援歌の練習は ないのか?」と聞くと「そんなのないよ。これは体育祭の時に先輩に教えられただけだよ。」との返事。それから僕は ずっと応援歌の楽譜の事が気になっていた。
去年下の息子が中学校に入学した。担任は音楽の先生、絶対音階の持ち主だと聞いた。そこでメールアドレスを 知っているだけの同級生に「応援歌を覚えていたら歌って録音して送って欲しい」とうる覚えの歌詞と伴に メールした。しかし誰からも色よい返事は来なかった。
そのしばらく後中学校にいっこ上の先輩が先生としている事を知った。そしてこの9月息子の前期期末考査の 主要5教科の問題をデータ化して送ってもらえるよう依頼した時ついでに「(先輩の)U先生に応援歌の楽譜を ご存じないか聞いていただけませんか」と校長先生にメールした。その話が去年の息子の音楽の先生に回り先生が U先生の歌う応援歌を聞けて楽譜にしてメールしてくれた。ただ音楽センスがなく音階ぐらいしか読めない僕が応援歌を 聞くためにはフリーソフトでダウンロードした作曲ソフトにいただいた楽譜を入力して聞いてみないとよくは 分からないかな。

9月27日 Facebookって不思議!
Facebookって不思議だ。一人の[友達リクエスト]から友達(僕の場合は以前勤めていた会社の知り合いや職場の同僚)の 輪が変な言い方だが芋づる式に広がっていく。そしてしばらく輪の広がりが止まっていたとしても[知り合いかも?]の 中に聞いた事のある名前(かな?)を見つけメッセージを送り友達に成れるとそこからまた友達の輪が広がってゆく。 不思議だけど面白い。
最近のメールはもっぱらFacebookからのものばかり、WebもよくFacebookが開いている。日々ほとんど同じ事の 繰り返しだから近況も自分のホームページにも書き込む事がなかなかないなあ。

9月24日 ソフトバンク、対楽天戦
ソフトバンク打線は心配していた通り相変わらず打てない。最近の大事な試合折角ピッチャー人が最少得点で 抑えているというのに打線が打てない&何回かはチャンスを作ったとしてもタイムリーが出ない、その内に ピッチャーが1点取られて負け試合。
この前の9連戦は最低6勝3敗でいかなければならなかったのに勝てる試合で打てなくて首位を走る日ハムとの直接対決で 連敗、続く2位西武との3連戦 何とか2連勝して踏ん張っものの3試合目勝てばゲーム差なしにする絶好の機会だったのに また打てなくて敗戦、なんとか5勝4敗で踏み止まり最悪の事態は免れたがペナントレース制覇にはもうギリギリの 状態だ。まったく大事な試合ペナントレースを左右する試合でピッチャーは好投しているのに打てない、優勝する 気があるのか!。
そして優勝するにはもう負けられない楽天との3連戦、何とか1勝1分で迎えた今日(昨日の雨で今日に順延)の楽天の ピッチャーはマー君(田中将大)、難しい相手だが2回に何とか1点を取った。しかし後は打てなくていつもの0行進、 摂津が5回に1点を取られ試合は延長へ、10回裏岡島がホームランを打たれ楽天に逆転負け。でもピッチャーを 責められる?。
優勝するには残り9試合を全部勝って日ハム・西武が負ける事を祈るしかないが打線がこの調子じゃ無理だろうな。 それどころかクライマックスシリーズを勝ち抜くのだって難しい。打線に軸が欲しい。もうすぐ怪我から復帰する 松田が打線の救世主・起爆剤になってくれればいいのだが。

9月21日 通院日
今日は通院日、リフト車の車窓から田んぼの畔を見ると所々に真っ赤な彼岸花が咲いていた。朝晩は冷える様に なってきたしいつの間にかもう秋が来ていたんだな。
県境の峠を越え拡幅工事現場に近付くと今通っているこの道も山や雑草ぼうぼうの原っぱが拡幅されて新道路との 結合地点の拡幅部分には側溝まで出来上がっていた。新しい坂道と今通っているこの道の拡幅部分にアスファルトを 塗ればすくでも通れそうなのに。きっと峠までの拡幅工事が完成しないと新しい道は開通させないのだろうな。 何年先?。
病院へ着くと今日はスムーズな回転。ストレッチャーに移りバイタルを計り終えると間もなく主治医が登場、 いつもの様に診察とカニューレ交換と胃ろう洗浄の処置をしてもらいいつもの薬に風邪薬を追加して処方してもらい いつもより1時間近く早く病院を後にした。
病院でリフト車から降りる時太陽の日差しを浴びて久し振りに太陽のぬくもりの心地よさを感じたので、帰りの リフト車の中で嫁さんに「帰ったら日向ぼっこをしたい」と告げた。家に着くと嫁さんが訪問看護師さんたちに僕の 頼みを話し、近くまで散歩に連れて行ってもらった。日差しと風が心地よかった。保育園の駐車場の自動車の下に モモがいた、草むらの中にコオロギが見えた。ここでも秋の訪れを感じる事が出来た。

9月21日 入浴日
昨日久し振りに熱が出て解熱剤まで服用したので明日の入浴車はちょっと危ういかなと思っていたが、今朝は体調が 幾分戻っていたので入浴を中止にする必要はないと思って嫁さんには何も告げないでおいた。幸い訪問リハビリでは いつもよりもかえって調子がよくこれならお風呂も大丈夫と安心した。
午後1時過ぎ入浴車が到着、一瞬冷房を入れようかなとも思ったが朝晩は幾分冷えてきたし(僕はもう肺が寒々しいが) 昼もそれほど熱い訳ではないのでやめにした。今日は浴槽に長く浸かっていても息苦しくはならなかったので冷房を 入れなくて正解だった。入浴後しばらくは身体がほてっていて暖かかったのだが時間が経つにつれて身体が冷えてきて 掛け物を増やしても一度冷えた身体はなかなか暖かくはならなかった。この身体はやはり少し汗ばむくらい掛け物を かけておかなければダメな様だ。

9月18日 熱発
昨日の夕方から寒気はしていた、掛け物をいくら増やしても少しも汗は出てこなかった。早朝も体調はもう一つ、 けれどパソコンは2時間した。10時からの朝の訪問看護師さんによるケアが終わり11時半車椅子に移乗させてもらった。 しばらくして12時過ぎ身体に疲れを感じ始めた。12時半過ぎベッドに戻してもらった時にはもう身体がだるかったし 背中が少し痛かった。
嫁さんに昼の水分と一緒にロキソニンを入れてもらったら体調も気分も少し楽になり2時から訪問歯科に歯のケアを してもらってからひと眠りし4時前からまたパソコンを始めた。ところがパソコンをしているうちに少し息苦しさを 感じ始めた。息苦しくなるのはいつも熱発の時、急いで嫁さんを呼び体温を測ってもらうと37.5℃。僕の感覚では もう少し熱がありそうなのだが…、これから上がるのか?。夜の経管栄養の時に解熱剤を入れてもらってひと休み。 おかしい!、いつもなら解熱剤を服用すると汗をドバっとかいて気分もすっきりしていたのに今日は身体は 暖かくなったものの汗はちっともかかなかった。この解熱剤は効いていないのかなあ。
昼夜の寒暖差が影響したのだと思うがそれにしてもやわな身体だなあ。

9月17日 敬老の日
今日は敬老の日、でも全くそんな気がしなかった。だけど嫁さんに「ヘルパーさんが10時半に来るわよ。」と言われ 今日が祝日と気付いた(訪問看護は祝日はお休み)。
午後からは暇な一日。しかし今日は珍しくモモ(我が家の猫)が僕の部屋にいた。下の息子がモモを僕の部屋に 連れてきて竹籠(僕がネット通販で買ったモモ専用の竹籠 33cm×28cm×H20cm?)に入れたらその中で寝たとの事。モモは 夕方まで竹籠の中に眠っていた様だ。最近のモモは僕のベッドに上がってくる事も僕の脚の間で眠る事もしない。 だけどまた僕の部屋のトイレに水飲みに来る様にはなった。その上今日は僕の買った竹籠で寝てくれた。僕が少しでも モモの役に立った、とそう思っただけで(僕の一人よがりと分かってる)嬉しい。

9月15日 facebook
先週facebookに登録した。いつも世話になっている病院の作業療法士U先生の「お知らせメールにチェックを入れて 友達を検索をクリックしたら全く知らない人何人もから友達お誘いのメールが来るからfacebookに慣れるまでは当面 チェックを外した方がいい」というアドバイスに応じてfacebookを始めたが、会社時代の同期だった2人を 「知り合いかも?」の中に見つけ友達になったがそれ以降は一向に友達が増えなかった。
数日前「知り合いかも?」の中に会社時代の後輩のTを見つけメッセージを送り友達になって、今日「友達が増えない」 と泣き言のメッセージを送ったら後輩を4人紹介してくれた。そして友達になったり「友達になっていいか?」との メッセージを送ったら「知り合いかも?」の一覧の中に本当に知り合いの名前が増えていて驚いた。今日だけでTの おかげであっという間にfacebook上の友達が十数人に増えた。たとえ知り合いじゃなくても楽にメッセージを送れるし ちょっとしたきっかけで芋づる式にfacebook上の友達もどんどん増えるし…、facebookって本当に面白いなあ!。

9月11日 ドライブ
今日は福岡へドライブの日、3週間ほど前訪問看護ステーションの所長が「9月16日のコミケンフォーラムには 同行出来ないから代わりにどこかへドライブに行きましょう。」と言ってくれていた。目的地は五ヶ山ダム(福岡県 那珂川町と佐賀県吉野ヶ里町との県境)、高速長崎道を東背振ICで下りて東脊振トンネルを通って五ヶ山ダムの 工事現場を見て近年開通した福岡都市高速外環状道路[5号線]に野多目ICからのり唐津経由で帰ってくるルート。
いつもより早めの時間に経管栄養を落とし訪問看護師さんを待つ。10時訪問看護師さん2人が来て外出準備と着替えを 済ませ自動車に乗り込み10時45分いざ出発。12時過ぎ東脊振トンネルを超えた所で不覚にも眠気?に襲われたのか一時 記憶が喪失、覚醒したのは南畑ダムの上流まで下って来た時、一番見たかった五ヶ山ダム工事現場付近の風景は 見逃した、何とも情けない話だ。山を下って那珂川の町並みを通って福岡市南区に入る。この道は昔何度も通ったが 風景が一変していて寂しい事だが懐かしさは感じなかった。近くのコンビニでしばし昼食休憩、そして野多目ICから 福岡都市高速に入り西九州道→今宿バイパス→二丈浜玉有料道路を経て一路唐津へ向かった。唐津に入るすぐ手前で 同行してくれている訪問看護ステーションの所長から「海を見に行きませんか?。」と提案があり浜崎海岸へ。 こうして海へ来 海の雰囲気を感じたのは何年ぶりだろう。海の中では4-5人の若者?がウインドサーフィンをして風や 波と戯れ遊んでいた。昔会社の仲間とよく海へ来て一緒に泳いだり仲間がウインドサーフィンをしているのを 見ていた事を思い出した。しばらく海を眺め海の思い出に浸った後家路に着く。午後4時前家に到着、膝と腰が 痛かった事もあり急いでベッドに移乗させてもらい着替えをしてもらった。訪問看護師さんたちが帰ってから ひと眠り、今日はすごく疲れた、けどすごく楽しかった。 訪問看護師さんそれに嫁さん、いつもありがとうございます。
それにしても数年通らないだけで道は変われば変わるもんだ、全く驚いてしまった。
(詳しい内容は「福岡へのドライブ」をクリック)

9月10日 モモは僕の部屋が嫌い?
最近のモモ(我が家の猫)はめったに僕の部屋に入ってこなくなった、以前は僕の部屋のトイレに水ぐらいは飲みに 来ていたのに(トイレにモモ専用の水飲み用気が置いてある)。嫁さんや下の息子が僕の部屋にせっかくモモを 連れてきてくれても二人が出て行くとすぐにモモは出て行ってしまう。嫁さんがモモを僕にじゃれさせてくれても モモは僕を人間と思っていないのか少しも反応してもくれないし僕の部屋にも病人の臭いが染みついているのかな。 モモはきっと僕も僕の部屋も嫌いなのだろう、寂しいけど。

9月9日 福岡ソフトバンク
6月末のレスパイト入院続く腹痛・下痢での入院(長崎県の放送局ではめったにプロ野球放送はやらない)で退院後 すっかり興味を失っていたプロ野球だが、先週火曜の夜嫁さんが西武Lions vs 福岡ソフトバンクの放送を点けた事で ソフトバンクの戦績が再び気になりだした。結局西武との3連戦2敗1分で首位西武と6のゲーム差、もうこれで パリーグでの優勝はおろかクライマックスシリーズへの進出も危ういと思ったほどだ。
ところが続く千葉ロッテに3連勝して首位西武が楽天イーグルスに3連敗して3ゲーム差になり様相が一気に変わった。 これで火曜日からの9連戦を6勝3敗で乗り切れば優勝の芽が出てくる。しかし打線は得点能力が低く相変わらず タイムリーが出ない。投手陣は皆頑張ってはいるが柱は摂津だけだしストッパー不在。今年好調の大隣が弱気の虫を 出さずに投げ切って山田と陽が踏ん張って新垣にまぐれの快投を期待したい。でもなんだかんだ言っても打線の 奮起だな、優勝への道は!。

9月7日 通院日
今日は2週間振りの通院日、車椅子に移乗させてもらって外に出ると…、リフト車に乗り込むまでにほんの十数秒の 事なのに暑くて息苦しい。実にやわな身体だ、情けない。
病院に向かう道すがら車窓から見える街路樹を見ると草ぼうぼう、街路樹のつつじの中に雑草が生えているのか 雑草の中につつじが生えているのか?分からない場所まである。もし元気だったら僕が身近な街路樹から雑草を むしって歩くのに、とこの辺りを通り街路樹の中にぼさぼさ生えている雑草を見る度にいつも思うのだが…。
県境の峠を越えると道路の左側の草ぼうぼうの空き地に杭打ちのロープが見えた、この道もここまで 拡幅されるのか。進捗状況をいつも楽しみにしている拡幅工事現場に近づくと2週間前見たコンクリートの縁石と 今通っているこの道との土壌がしっかりと固められていた。ここや新しく造った坂道にアスファルトを張って この道のガードレールを外せばもう通れそうなのに、そういう訳にはいかないかなあ。
今日はリフト車の運転手さんが[おそらく]初めての方だったので珍しく波佐見温泉沿いのバス通り(旧道)を経由して 病院に着いた(久しぶりにこの道を通って心ワクワク)。リフト車を降りていつもの救急処置室に入り車椅子から ストレッチャーに移してもらうと身体かきついと感じた。そのためかどうかは分からないが普段から少し高めの 血圧が今日は更に高かった(160-110mmHg)、まあそれ以外はいつもと変わりなし。しばらく待つと主治医が来て いつもと同じ動きで診察と処置、少し変わった事と言えば蜘蛛がいたのぐらいか。そして看護師さんたちに 見送られながら家路についた。病院の玄関前の池が久し振りに見えたが亀が三段重ねになって 甲羅干ししてた。
帰り道車窓からは稲穂が見えた。少し頭を垂れている稲穂もあった。これがもう少し黄色く色付けばもう稲刈りの 季節、我が家には関係ないのがちと寂しいが。帰りはポーセリングパーク沿いの峠道を通る様同行してくれている 社協の看護師さんが指示、この道が遠回りだけど広いしきれい(段差が少ない)だから速いと言う。僕は時には違う 道を行くのもいいと了解した。この道はずっとまっすぐでその分スピードを上げているから確かに速いかも しれない。久方振りにこの道を通って僕が驚いたのは、以前は緩やかなカーブだった道が広い十字交差点に なっていた事(左は新しい道が建造中)、しかもキャノンの工場へがメイン通り。まさにキャノン様様だな。
家に着くと家の中が妙に静か、リフト車から降り部屋に入る途中玄関の金魚の水槽を見ると金魚が見えないくらい 水が汚れていた。下の息子に水替えしてと頼まなければいけないな。部屋に入ると訪問看護師さんが「もう一人の 看護師がまだ…。」と説明、時計を見るとまだ2時過ぎ、いつもより30分ぐらい早かった。そこで訪問看護師さんと 社協のヘルパーさんにベッドに移乗させてもらった(昨日の流れからいけばこれが自然だろう、結果うまく 移乗してもらった)。ベッドに横になった時もう一人の看護師さんが到着、ちょっと驚いた顔をしてた。それから 着替えをしてもらい看護師さんが帰った後一眠り。今日はなんだか疲れたなあ。

9月6日 変化
先日訪問看護ステーションの所長さんから「木曜日の移乗の時(車椅子⇔ベッド)ヘルパーさんと2人でやる様に したい。」と提案があった。ヘルパーさんにも将来吸引してもらうために僕の介護に慣れてもらわなければ いけないしまた訪問看護ステーションの経営的な意味合いもあるのだろう(なんせ週に3日2人の訪問看護師を 3時以降僕が独占しているようなもだもん)、それに土曜日はもうすでに訪問看護師さんとヘルパーさんの2人で やってもらっているからと了承した。
そして今日がその初日、2人の訪問看護師さんと一緒に社協で一番顔見知りのFさんが来た。そこでFさんから 「(車椅子への移乗には)5人で交代交代で来ますから。」と介護を受ける方からしては納得がいかない言葉を 聞いた。その時点では何も言わなかったが4時半過ぎ車椅子からベッドへの移乗が終わった後で発せられた心のない あるひと言にプチンと切れた(言っている事に間違いはないのだがもっと介護を受ける側の気持ちに配慮した 言い方をしろよ)。そして僕は心の中にあった不満をみんな(看護師さん2人と見学に来ていたヘルパーさん3人)に ぶつけた、「5人交代で来るというのはあまりにも多過ぎる」「看護師さん3人も移乗のやり方はそれぞれに 少しずつ違うから組み合わせは15組もある」(「それなの個々のヘルパーさんは移乗の段取りを覚えきれるの、僕は 不安」)と。それに対し社協のヘルパーさんは「土日にも出勤するから木曜に休みの事もある。また他の方の支援も あるし5人じゃないと回らない。それに若いヘルパーも入れていかないと将来にわたって続いてゆかない。」と もっともでどうにも譲れないという風な返事。それに対して僕が「木曜の午後移乗に来る看護師を2人に 限定したら、それなら組み合わせは10組になる」と提案、訪問看護師さんからは「私たちも木曜に休みを取る事も あるし…、ともかく所長に相談してみます。」との返事があった。
みんなが帰った後も僕は怒りがこみあげてきて…、一時は嫁さんに「木曜の車椅子への移乗はもうやめる、家では もうずっと車椅子に座らなくてもいい」と言おうと思ったが思いとどまった、なんせ5-6年二択を迫られて週に数回 食事をする事よりも車椅子へ座る事を選んだ僕だから。

9月4日 娘、帰る
今日娘が通っている大学のある街に帰って行った。本当は娘は昨日帰る予定だったのだが義母が入院している病院で 義弟夫婦や従妹に会って今義父が一人でいる嫁さんの実家に一緒に遊びに行って1日延期したらしい。娘が一人家に 戻って来ただけで家の中が賑やかになり帰った途端静まり返る。この違いはどうだ!。その上最近は息子たちも あまり僕の相手をしてくれなくなったし、本当に寂しいなあ。

9月1日文化祭・2日体育祭
1日/2日は上の息子の通っている高校(僕や嫁さん・娘の母校)の文化祭&体育祭。娘はこれらにスケジュールを 合わせ1週間前に帰ってきた、よほど思い入れや楽しみがあるのだろう。僕も高校の時体育祭と文化祭は3度ずつ 経験している訳だが、記憶の末端にほんのちょっと残っているだけだ。僕にとって体育祭や文化祭・高校生活は いったい何だったのだろう。ただの通過点?、僕の高校時代の記憶は1年の時のほのかな思い出が半分、後の半分は 2-3年の時は仲のいい友人数人で徒党を組んで学校で遊びまわっていたって事かな。
今の普通高の目的はクラブ活動では(それなりに)熱心なものの国公立大と有名私立大にどれだたくさんの生徒を 入学させるかと明白、そのため平日に宿題として課題はいっぱい出るし朝特課・土曜特課・(長期)休暇特課は 当たり前で(大学受験)勉強漬けの毎日。その息抜きとして高校側も生徒に力を入れさせて団結力を磨かせて いるのではないかと思える。僕らの頃とは勉強も体育祭も文化祭もその意味合いが違う様だ。
夜遅く戻ってきた上の息子に「どうだった?」と聞くと「面白かった。」と言いながら色々話してくれた。行進 (競技の対象)・応援合戦・騎馬戦・棒倒し・綱引き・分団対抗リレーなど団体で競い合う競技が増えた様だ。 まあ僕にとっては息子が面白かったと言ったからそれでいい。


[2012年の先頭に戻る]



8月
8月31日 一番弱っていたのは体幹だった
脚と首に装具を着けて訪問看護師さんたちにベッドから車椅子に移乗させてもらう時、まずベッドの縁に腰かけて そして一人が脇に手を添えてもう一人がお尻に手を添えて(またはパジャマの腰のゴムをつかんで)上に引き上げて 立たせてもらってそれから腰を伸ばしてもらう。次に少し前かがみになり左足に体重をかけ気味にして右足を2歩 動かしてもらい身体を90°回してもらって車椅子に座る。
今回腹痛や下痢で入院した後、訪問看護師さんたちや訪問リハビリの先生に3週間立たせてもらって膝の ぶるぶるはかなりおさまってきたが、車椅子に移乗する時訪問看護師さんたちに立たせてもらった後前かがみに なろうとすると腰が折れて前に倒れそうになる。またリハビリで立たせてもらった時腰が痛んでふらふらする。 今回の入院で一番弱っていたのは腰の力体幹だったのか。この回復は厳しいなあ。

8月30日 父ちゃん、入院す
僕が田舎に帰ってきてもう13年目に入っているというのに未だに僕の病気(ALS)を受け入れられずに 落ち込みっぱなしで苦悩する親父、80歳を超えてからお袋と話し合って生きがいだった百姓も止めてしまって 酒だけが楽しみと酒に逃げている親父、自分が何のために生きているのかその目的もなくし新たな生きがいも趣味も 見つけられないまま酒を飲みゴロゴロする毎日の親父。めったに僕のところには顔を見せないが親父の言動を 見聞きするだけで親父が惨めに見え自分も惨めになる、不可抗力といえども原因を作ったのは僕だから。 しっかりしろよ、あの強かった昔の親父はどこに行った!。
親父のアルコール依存症による愚行は一向に収まらない。特にひどいのは早朝(と言っても3-4時)煙草を一服の後 ついでに酒、それなのに8時頃軽トラで出て行く、4-5時間前でおそらく1杯ぐらいだと思われるから本人に酒飲み 運転の自覚がない。更に飲み過ぎによるおもらしもあるし最も問題なのは酒を飲んだ後の記憶が一切失せている事。 もう一つの問題は昼と夜も酒を飲み食べるのはつまみだけ、食事を摂らないから栄養失調で痩せこけていて 今37sらしい。僕が嚥下障害が進み食事が満足に摂れない様になった時期並みだ (2002年 体重34s 9月胃ろう/10月気管切開創設)。
ついにお袋が親父を病院へ入れる決心をした。親父が入院する病院のホームページを嫁さんに検索してもらい開いて 見せてもらうと、TOPの院長挨拶のところに高校時代同級生だった懐かしい名前の文字列が目に飛び込んできた。 この病院には精神科(アルコール依存症の人の回復プログラムもあるとの事)・神経科・心療内科がある様で リハビリもしてくれる様だ。アルコールに依存した親父の体質と心根をこの病院で何とか改善させてくれる事を 大いに期待したい。よろしくお願いします。

8月29日 入浴日
今日は入浴車の日。前回の入浴車の日がエアコンを28℃の冷房にしていて浴槽につかってる時や浴槽からベッドに あがってしばらく少し息苦しさを感じたので、今日はあらかじめ嫁さんにエアコンの温度を下げてもらっていた。 去年の夏はエアコンが28℃でも息苦しいと感じた事などなかったから1年間でさらにやわな身体になったもんだが、 おかげで快適な入浴を味わう事が出来た。
入浴車のスタッフが浴槽を僕の部屋に持ち込んだら、最近は僕の部屋に水飲みにも来ないモモが浴槽にお湯が 溜るまで浴槽の周りをウロウロしていたらしい。水の流れる音が好きなモモがそんな行動をとるのは分かる様な気が するが今日突然なぜ?。体調が少し良くなったのかな。

8月24日 通院日
通院日、車椅子に移乗させてもらって外に出ると…とても暑くてしかも息苦しさを感じた。僕の身体はいつの間に更に こんなに弱くなったのか。外に出るのが怖いと(初めて)感じるとは、情けない。
病院へ向かう道はいつもの道、県境を超え少し行くと拡幅工事現場の全景が見渡せた。今通っているこの道の幅2m先に コンクリートの仕切りが見えたし道側の田んぼの中にもコンクリートの仕切りかあった。このコンクリートの部分までが 道や歩道になるのだろう。次に新しく作られている坂道に目を移すと歩道の概形も見当たらないし2ヶ月前からほとんど 進展していない様に見えた。この拡幅工事の進展はここを通る時の楽しみでもあるのだが、この工事いったいいつまで かかるのだろうか。
病院に着く。今日は救急患者が入っているという事で玄関でリフト車から降りて救急処置室Uに入った。それから ストレッチャーに移り外来の看護師さんがバイタルを計り終えた後世間話をしながらしばし主治医を待つ。主治医を待つ 間に地域連携室の方に嫁さん経由で「10月の体育の日を挟んで1週間レスバイト入院したい」と依頼、元々腹痛入院さえ なければ9月の連休に入院し病棟スタッフの力を借りてコミケンフォーラムに参加したいとの計画を自分の中では 立てていたのだが…、仕方ない。
主治医が来て診察・処置を終えたところで、入院中にカサカサが現れかゆみが増していた左足の甲を見てもらい処方箋を 出してもらった。また最近たまに人工呼吸器から送られてくる空気が吸いづらい吸うのに力を要すると感じる事が あったので主治医にトリガーを調整していただき吸い込み(吸気)を楽にしてもらった。主治医が「(呼吸器の調子は) どう?。」と聞いて「すぐには分からないか。」と打ち消した。家に帰ってからの結論を言うと、肺の中にちょっと 空気が入り過ぎ(1回換気量が少し多過ぎ?)かなと感じている。このまま慣れるのを待つか、トリガーを元に 戻してもらうか、それとも吸気圧を1下げてもらうか、ともかく一度主治医に相談してみよう。
外来の看護師さんたちに見送られながら病院を出て家路につく。田んぼは一面緑一色だ。

8月22日 え、モモが病気!?
モモの調子が相変わらず良くない。みんなの勧めもあって今日の夕方嫁さんがモモを下の息子と一緒に(自動車の中で モモが暴れない様に抱っこしている係り)動物病院に連れて行った。
夜の経管栄養の時に嫁さんがようやく話してくれた。嫁さんによるとモモは先天性の免疫疾患で今外観的にはビッコを 引いてる足の指の間が化膿している、今日は指の間を消毒して抗生物質を注射してもらってそれから薬は抗生剤を もらってきたと。嫁さんが言うには「モモの病気は人間でいうと特定疾患の様なものだから。しかも今回は治っても また再発する可能性があるのよね。」「三毛猫は突然変異の様なものだからあまり長生きはしないのよ、特に雄はね。 聞いた事ない?。」「モモの病気には紫外線がよくないから出来るだけ外に出さないようにしないとね。」と。
モモに対して僕に何が出来る、抱いてやる事も出来ないしモモが外に出て行こうとするのを止める事も出来ない。僕に 出来るとすれば僕の部屋の中にモモが長居をしようと思う様な居心地のいい空間を作ってやる事かなあ。ともかく、 モモよ、お願いだから元気で長生きしてくれよ!。

8月21日 スイッチが壊れた?
今日オペナビ含む新しいノートパソコンの調整のために業者の方が久しぶりに(僕のレスバイト・腹痛・下痢入院ため) 訪ねて来られて、「なんでもIRセンター」関連を中心に調整してくれた。作業の終わりに最近調子のおかしくなっていた ピルケーススイッチを見てもらうと「スイッチは二つとも壊れていますね。一方は全く反応しませんしもう一方も 点いたり点かなかったりする。この二つのスイッチは使わないでください。会社に1つだけ(ピルケース)スイッチの在庫が ありますが有償になりますけど送りますか?。その間はパソコンするのを我慢してもらう事になりますけど。」と 告げた。僕は嫁さんに「買い置きが4つあるはずだから」と引き出し等を探してもらったが見つからなかったので嫁さんは 送ってもらう事を了承し僕は「ついでに5個注文」と付け加えた。
けれと夕方になってあまりの暇さに僕がパソコンするのを我慢出来るはずもなく、嫁さんを呼んでミニジャック(オス)の ピンがグラグラする(断線障害を起こしつつある?)方のスイッチをつないパソコンをセットしてもらった。ところが 今度スイッチをつないたコードレスのボックスが反応しない(去年かおとどし下の息子が佐世保高専に行って作った 正常と判っているスイッチをつないでも同じ)。嫁さんは「電池切れかも。」と言って代わりの乾電池を買ってきて くれたが、ボックスのスイッチを押すとボックスの赤いLEDは点くもののオペナビは反応しない。1週間ほど前から オペナビのスイッチ反応が時々おかしくなると思っていたが、やはりコードレスのボックスがおかしかったか!。
こうなったら直付けしかないと判断して、下の息子を呼んで切替機を何度も見てもらったのだが切替機に入力部は 見当たらないと言う。仕方がないので高校の課題に取り組んでいて大変忙しそうな上の息子呼んでもらって「スイッチを オペナビボックスの2に直接つないで」と頼んだ。これでようやくまたパソコンが使える様になった。息子たちに感謝。 さて業者の方にコードレスのボックスに不具合が起こっている事をどうやって連絡したらいいのだろう、相手は僕が パソコンは使えないと思っているのだからメールするのも変だし。まあ(業者が送ってくれる)新しいスイッチが届いたら 連絡する事にしようか。

8月20日 モモ、元気なし 心配
この二日ほどモモの元気がない。嫁さんや下の息子によるとぴっこを引いているし食欲もないと。この2ヵ月すきさえ あれば外に出てよく他の猫に喧嘩を吹っ掛けといるとの事だし、他の猫に足を噛まれたのかそれとも遊びすぎて脚に ヒビでも入ったのか。ともかく心配!!

8月19日 娘、帰る
娘が夏休みという事で11日に来て今日帰って行った。なんだかんだと強がっていても一人減るとやはり寂しいものだ。 娘から聞いた事によると今の大学は7月半ばから前期試験が行われ8月中旬から9月いっぱいが夏休みという。いつの間に 変わったのと驚いたがその方が自然だし世界の潮流である大学10月入学も進めやすいだろう。ただ学部によっては9月に 行事を入れているところもあり娘も実習が入るという事で僕らの大学時代の様に4-50日丸々休みという事では ないらしい。今日日の大学生も大変そうだ。
今回の娘の帰郷では前半は家にいて僕の世話や手伝いもよくしてくれたが後半は友達と夜遅くまで遊びまわっていた。 でもまあそんなものだろう、僕も大学時代の長期休みは暇さえあれば友達と遊びまわるか家のトラックを借りて ドライブしていたし家に帰ってくるだけましだろう。
娘には後々社会人になって後悔する事のない夏休みを過ごしてもらいたい、社会人になればこんな長期休暇はもう ないのだから今しか出来ない事に挑戦して欲しい。ともかく娘の大学生活は今のところ充実している様だし「すっごく 楽しい。」という事だ。

8月18日 十八夜
十八夜、地区(部落)の夏祭り。昔ながらの浮立が地区内をねり歩き、花火が上がって、お寺の境内にはたくさんの夜店が 出てお寺で行われる仕掛花火(ジャーモン/ナイアガラの宿若)に圧倒され感激したものだった。家ではたくさんのご馳走が 用意されていてお客さんがたくさん来た(子供の頃家でご馳走が出るのは正月・十八夜・くんちの3回、普段でご馳走と 言えるのはカレーライスと混ぜご飯ぐらいかな)。十八夜には特別にお小遣いをもらいお寺の境内でヨーヨーや焼きイカや くじを買うのが楽しみだった。僕は子供の頃からずっと(打ち上げ花火の音を聞くだけの今でも)十八夜が大好きだ。
お祭り好きの僕は見知らぬ街でも祭りや盆踊りの音が聞こえると身体がうずいてきてすぐに飛び込んでいた。それに対し 僕の子供たちはそれほど祭り・十八夜は好きではない様だ。娘は友達とのドライブを優先していたし上の息子は事前の 十八夜会の練習に嫌々参加している風に見えた(まあ1年目はそんなもんだけど)。下の息子に至っては家にいて 出かけようともしない。不思議に感じて息子を呼んで「お寺には行かないのか?」と尋ねると「暑いから嫌だ。それに 僕は群れるのは好きじゃないから。」と悲しい返事。
(祭りが好きではないのは)何故だろう。思い当たる理由が二つはある。ひとつは、子供たちは昔でいうご馳走を日頃から 食べているから。レストランにもよく行っている様だし嫁さんが作る夕食も僕の子供の頃はご馳走だ(まあ子供たちは全然 そうは思っていないが)。それに家族旅行は僕の病気のせいで行けていないが嫁さんが子供たちを時々映画に連れて行って くれている。どちらも子供たちは全然恵まれていると感じてはいないが僕らの頃に比べれば贅沢三昧だと思う。
ふたつ目は、僕が子供たちを祭りに連れて行って祭りの楽しさを教えてないから。娘は福岡にいる頃二度ほど地区の 祭りに連れて行ったが小学校に上がる前だから覚えていないだろう。息子たちが物心付く頃はもう動けなかった。病気の 発症がせめてあと5年遅かったら子供たちに祭りの楽しさを教えてあげられたのに。それどころかあと5年あったら山や 海へ行き家族みんなで山歩きや海水浴・キャンプを楽しめて子供たちに色々な事を教えてあげられたのに。悔しいし 残念!。でも誰を怨めばいいの?。

8月17日 デスクトップパソコンをWindos7に
町に意思伝達装置の申請をしデスクトップパソコンを買って今年で10年になる。当時としてはCPUにPentium4を搭載し HDD容量も最大クラス/グラフィック機能も追加した最新最高機種だったのだが、今では下の息子曰く「起動させるには 何回も再起動させねばならない」「(運よく起動しても)起動するまでに10分以上かかる」「ネットサーフィンが異常に 遅い」「もう買い換えようよ」と言われるまで成り下がった(なかなか起動しないから)よく点けっぱなしにされている パソコンだ。こんな調子じゃ町に寄贈するわけにもいかないしかといって捨てるのはもったいない。そこでOSを Windows7にしてはどうかと考え調べてみた。するとスピードの改善はあまり期待できないが誤動作は少なりそうと、 それにシステムを初期化していい場合グレードアップ作業はさほど難しそうではない事が分かった。それでWinXPをWin7に グレードアップするソフトを早速買った。
グレードアップ作業は下の息子に任せた。まず取扱説明書を読んでもらいDVDドライブにふつうにグレードアップソフトを 入れてマイコンピューターからDVDドライブアイコンをダブルクリックする事でグレードアップ作業が始まる事を 確認し、息子に「説明書の内容は分かるか?、(グレードアップは)出来そうか?」と聞くと「説明書を見たらいいから (もちろん)出来るよ。」と頼もしい返事が返ってきた。そこで早速デスクトップパソコンのグレードアップ開始、息子は グレードアップ作業に入り僕は息子の作業の手順をテレビで見てた(以前からデスクトップパソコンの画面がテレビにも 映せる様な機器を取り付けている)。息子が時々「どうすればいいの?。」と聞いてくるから僕は息子に画面の内容を 読んでもらい「説明書にはなんて書いてあるか?」と再度尋ねると、息子からは「なんにも書いてない。ただ指示に従い 選択してクリックしなさいと書いてあるだけ。」との返事。かなり大まかな取扱説明書らしい。僕は無難な方を選び クリックさせ適宜諸々の支持を与えた。
Windows 7へのグレードアップは2時間以上に及んだ。その後ウイルスバスターをインターネットからダウンロードして インストールしWindows Updateをして作業は終了した。気が短いかと心配していた下の息子がこの地道な作業を何も 言わずにしてくれた事に安心したし嬉しかった。その息子によるとデスクトップパソコンの起動もネットサーフィンも 前よりはかなり早くなったという事だ。

8月16日 ホームページを更新する方法が見つかった
新しいノートパソコンにInternet Explore 9が搭載されていて僕のホームページを更新できていないから何とかして 早めにインターネットをInternet Explore 7にダウングレードする方法を教えてもらおうと身内ではパソコンに詳しい 友人・Microsoft・今パソコンの設定をしてもらっている業者に「教えて」とメールした、どうしようもない場合には 前のノートパソコンにホームページデータと更新データを移して編集しアップロードしなければならないなと 覚悟しながらも。
一番早く返事がきたのは友人、色々探し回ってダウンロード先のURLを教えてくれたが残念ながらInternet Explore 8の ダウンロードページに代わってしまっていてInternet Explore 7のダウンロードは見つけきれなかった。次に数日後 Microsoftから残念なメールが入った。今のパソコンに搭載されているWindows 7ではInternet Explore 7をダウンロード 出来ないと。世の中にはWindows 7搭載のパソコンでInternet Explore 7の機種がたくさんあるのにそんなのあるか!、 と思いながらも絶望感に打ちひしがれた。
ところが今日業者から朗報が入った。業者の担当の方がメーカー(NEC)に確認してくれた様で、Internet Explore 7には ダウン出来ない事がまず記してありその代りInternet Explore 9で対処する方法が書いてあった。それはInternet Explore 9を起動させ「ツール」−「インターネットオプション」−「プログラム」−「HTMLエディタ」を「メモ帳」に 変更されるとWordで編集しなくてもよいのではないでしょうか?、と。早速試してみるとソースがメモ帳で編集出来、 ホームページの内容も変更された。
すぐに大まかな内容で僕のホームページを更新、見てくれている人も更新さえしておけば少しは安心してくれるのでは ないかと思って、後はちょこちょこ追加していけば良いと思って。

8月13日 モモ、どうしたの?
我が家の猫モモ、レスバイト入院の後も今回の入院の後もモモが僕の部屋に入ってくるのはトイレの中にあるモモ用の 水を飲みに来る時と窓の酸に腰かけて外を眺めに来る時だけ、僕が寝ているベッドの傍を通っても僕の存在は眼中に ないという風でいつも素通りして行った。モモは僕の事を人間とみているのか?…と僕はいつも感じているのだ。
ところが今日の夜はモモが僕の部屋のトイレへ水を飲みに来た後すぐに出て行かないで珍しくへ屋根の中でなんとなく ゴロゴロしている気配がしていた。そしてしばらくするとモモがベッドに上ってきて脚の間で眠りだした。夜の 経管栄養を持ってきた嫁さんもその様子を見て「珍しいわね。」と言いながらモモをなでなでした。それにしても今日の モモはいったいどうしたの?、僕はとっても嬉しいけれど。これからも時々僕の脚の間に来て眠ってほしいな。

8月12日 ホームページを更新する方法が・・・ない
今度意思伝達装置として費用の大部分を町(県?)から助成してもらって買った僕の新しいパソコン(NEC OS:Windows 7)には インターネット/ホームページソフトとしてInternet Explore 9が入っているのだが、Internet Explore 9のメニューバー 表示(V)からソース(C)を開いてみると見知らぬプログラムで入力も貼り付けもできない文章が出てきた(文のコピーは 出来る様だった)。僕は自分のホームページを今までソース(メモ帳)を表示してそれにメモ帳で作った新しい文章を 貼り付けて変更・保存しそれらのファイルをアップデイトする事により自分のホームページを更新していた。でも Internet Explore 9ではそれが出来ない事になった。
Internet Explore 9のメニューバーの中を色々探してみてファイル(F)の中に「Wordで編集」があったのだが、罫線枠が 入り組んでいて僕では編集出来そうになかった。これならもうInternet Explore 7をダウンロードしてインストール するしかないと思ったのだがInternet Explore 7のダウンロード元のURLが分からない。どうしよう!。

8月10日 やっぱり立てないかなあ
この4週間ずっと病院のベッドに寝たきり状態だったので(首と両脚に装具を着けて看護師さんたちに支えられて)立つ事が 出来るのか入院中ずっと不安に感じていたが、昨日退院して家に着き訪問看護師さん2人に自動車の助手席から車椅子へ 車椅子からベッドへ移乗させてもらった時には膝に全然力が入らなくて膝くだけ状態、立ち上がったとはとても言えず 車椅子やベッドにやっとなだれ込んで座ったという風だった。夜嫁さんに「立てない」と泣き言を言うと、嫁さんからは 「ひと月近く寝たままだったから最初はしょうがないわよ、その内たてるようになる。」とお気楽な返事。本当に そうかなあ!。
今日は車椅子への移乗(1時間は座る)の時と訪問リハビリの時と合計5回訪問看護師さんたちや理学療法士の先生に 立たせてもらった。いずれもたととしても膝ががくがくして膝に力が入らない。膝が伸びきるまで持ち上げてもらって 踏ん張ってやっと立てた。このままでは訪問看護師さんの負担大で腰を悪くしてしまう。1時間の車椅子へ座る習慣を 崩してしまうと一年中いやこの先ずっとベッドに寝たきり。立てないと車椅子への移乗には看護師さんを含め介護者が 3人いる事になるから我が家の経済を圧迫してしまう。そんなの嫌!、何とか立って車椅子に移乗したい。 でも…大いに不安!。


[2012年の先頭に戻る]



7月
7月12日−8月9日 再び入院
12日の木曜日病院に行くと消化器科の先生がまず見てくれて胃の痛みどめの筋肉注射をうってくれた(僕の肩には筋肉が 見当たらないから実際に注射をうってくれた外来の看護師長さんが「どこに筋肉があるのかしらね。」と呟いていた)。 その後血液検査と出来れば便の検査をと指示して消化器科の先生は救急処置室を出て行った。それと入れ替わりの様に 僕の主治医が入ってきて診察した後「入院しますか?。」と聞いてきたのでOKの合図を送った。病室は下痢してるから 個室・7,000円加算の特別室になるという。そして看護師さんから右足に点滴を打ってもらってその病棟へと向かった。 救急処置室を出る時便検査は陽性だった(悪性の病原菌は検出されなかった)との連絡が入った。僕は呼吸器科の病棟の 特別室に入院した。特別室には初めて入ったが思ったより狭かった。特別室には応接セットと浴室・トイレが 付いていた、テレビはSONYで見放題らしい。この時点で僕は入院は週明け・おそくとも来週末には終わると 思っていた、甘かった。
この呼吸器科病棟に入院するのは2年ぶり?、以前からこの病棟にいた看護師さんたちは「いらっしゃい。」 「お久しぶり。」と声をかけてくれるのだが看護師長さんも交代していたし病棟の看護師さんも多数が入れ替わって いたのでコミュニケーションはとれるのかなと不安になった。そして僕の入った特別室を担当するパートの看護師さんは 文字盤は使えるけれども他のパートの看護師さんのほとんどが文字盤が使えなくて夜中などに困る事があった。
最近の病院では点滴の注射は結構頻繁に刺し替える様になったのか入院4日目にはもう注射の刺し替え、ただ僕の腕は とても腫れ上がっていて血管なんか見つからない、足の血管もかなり細くなっている様でこれまでの入院でも採血の時 看護師さんがずいぶん苦労していた。この時の点滴の注射の刺し替えでも中堅の看護師さんだと思うがずいぶん 苦労しながら左足の甲に(ようやくかな?)刺した。しかしナースコールの時僕は右足の指の付け根や甲で オーバーテーブルの下の梁に貼り付けられた(ナースコールにつながれたスイッチを叩くので、ナースコールをしようと 右脚を上げるとついでに時々左足の甲も無意識に上がり針が梁に当たって痛かった。でもまあ数日すればまた注射針の 刺し替えだと思って我慢する事にした。
翌日主治医が僕の病室に来て傍にいた看護師に状態を尋ねた、下痢はまだ続いていた。「点滴はどうか?。」と主治医が 聞くと「(刺すのは)難しいですね。」との看護師の返事、「IVH(中心静脈栄養法)がいいか。」「そうですね。」これで 水曜日(入院7日目)のIVHが決まった。水曜日の朝この看護師さんが採血し「結構簡単に採れるじゃない。」とつぶやく、 全般的に看護師の技量が落ちたのかなと思う僕。その午後主治医が病室に来てIVHを施術、IVHは10年前気管切開し 人工呼吸器の施術を受けて以来2回目、今回は胸からのIVHはもし何かあって合併症でも起こしたら呼吸器を着けている 肺に影響するリスクが大きいからと脚の付け根からのIVHの施術になった。前回は麻酔をかけたままのIVHの施術で何も 分からなかったが、IVHって血管の中にあんなに長くカテーテルが入るのか(僕の場合は35p)と驚いた。入院が長引くと 分かった時主治医はIVHを入れたから腰を据えて僕の腹痛及び下痢を治そうと思ったのかなと勘繰ったほどだ。
下痢がが治まったのは腹痛を起こしてから13日目(入院して9日目)の事、そして翌週の火曜日(入院13日目、特別室の 追加料金は91,000円か!)いつもレスバイト入院している神経内科病棟に移った。今回は2人部屋、この病室の 受け持ち看護師のパートには顔見知りの看護師がいっぱい移っていてそれだけでも気持ちが楽だった。この時点の僕の 栄養摂取量は経管栄養200Kcalと点滴(IVH)1100ml、下痢止めの薬が終わり経管栄養が1000-1200KcalになりIVHが 外れないと帰れない。でもIVHを脚の付け根からしているからリハビリも受けれないし車椅子にも座らせてもらえない。 僕はこのまま完全に寝たきりになるのではとだんだん焦りを感じ始めていた。しかし僕の焦る気持ちとは裏腹に主治医の 処方は極めて慎重でゆっくり、下痢止めの薬をやめては2-3日様子を見経管栄養も少しずつ増やしては2-3日様子を見た。 結局退院許可がおりIVHが外れたのは入院してから4週間後、その間2度入浴した以外はほぼ紐なしでベッドに 縛り付けられているに等しい(不動)状態だった。
9日看護師さんたちに見送られながら退院、家に着き自動車の助手席から車椅子に移乗する時も部屋に入り車椅子から ベッドに移乗する時も膝に力が入らす膝崩れ、訪問看護師さんたちに迷惑をかけた。このまま車椅子に座れなくなったら どうしよう、大大不安!!。

7月8日−11日 激しい腹痛
8日の日曜日昼過ぎからパソコンをしていた。すると5時頃から突然お腹が痛くなり5時半頃にはもう耐えられない痛みに なった。もし僕が動けたなら七転八倒してダンゴ虫になっていただろう、それほど今までに経験した事がない激しい 痛みだった。それで傍にいた下の息子に「お母さんにお腹がひどく痛いからロキソニンを入れて」と言った。そして 嫁さんに薬を胃ろうから入れてもらってから「(ダンゴ虫の様に)丸くなりたいから膝を曲げて」と頼んだ。すると 嫁さんや息子たちが変わりばんこに僕の膝を持ち上げ丸くしてくれた。そうしたら少し痛みが治まってきたので睡眠剤を 入れてもらって眠りについた。
翌月曜日、昨日ほどではないがまだお腹の痛みが続いていたので病院に行くことにした。病院に着くと主治医が来て 診察をしてくれて「そう悪いところはないようだけど泊まっていきますか?。」と尋ねてきたが、僕はまだ家の新しい ノートパソコンにアドレス帳を移し今年も例年通りまたサクランボを送ってくれた(会社時代の)後輩にどうしてもお礼の メールを送りたかったので嫁さんに「いやだ」と告げて病院を後にした。
火曜日水曜日とかなり苦労してアドレス帳を新しいノートパソコンに移しようやくお礼のメールを送った。お腹の痛みは まだ続いていて便もかなり緩くなっていた。明日また病院へ行く。おそらく今度こそ入院になるだろう。相変わらずの 事だけど何も出来ないこのひ弱な身体が恨めしい。


[2012年の先頭に戻る]



6月
6月22日−7月6日 レスバイト入院
今回の入院した病棟では春の人事異動で看護師さん3人が代っていたし看護師さんが3人も病院を辞めていたのでまた 顔見知りが少なくなっていて寂しく感じた。その上新人の看護師も7月から病室を担当するようになっていたし僕のいつも 入る病室を担当する看護師のパートにも変更があって看護師さんたちの半数が代っていてお馴染みが少なくなってしまい たまにコミュニケーションに困る事もありイライラしてしまう事さえあった。今回の入院はさみしくもありみじめさを 感じる時でもあった、僕ってこの世の中が必要とされているのかと。
今回の入院中には昼食経管栄養はラコール400ml(400Kcal)の代わりに流動食200-300Kcalをシリンダー(注射器)で胃ろうに 入れてもらった。今回流動食をシリンダーで入れる事がこんなに簡単でこんなに短時間(15-20分)に終わるのかと僕は 初めて知った。家でもラコールにとろみ剤を混ぜてシリンダーで胃ろうから入れてもらおうかなと思ったくらいだ、 経管栄養は流し込むのに2時間もかかるに30分以内で終わるなんて時間の節約になるのだもの、その時間で暇つぶしに パソコンが出来るのだもの。
今回も入院中にはパソコンには一切触れなかった。なぜってパソコンをするにはその日の病室の受け持ち看護師 ひとりひとりにそれぞれ僕がどういう風にしてパソコンを操作するのかを(右足の親指と人差し指の間にピルケース スイッチをほどよく挟んで指を閉じる事でスイッチ操作する事を、足の指の間にスイッチをどう挟ませるかその挟ませ 具合がかなり難しい事を)説明しなければならないから。そんな面倒な事をするくらいならパソコンなんてしなくて いいと、ついそんな事を考えてしまう。寂しい入院期間だったかな。
6月22日:検査 胸部レントゲン・心電図・血液検査。その後主治医からは何にも言ってはこないからきっと重大な異常は なかったのだろう。
7月5日:病棟の七夕会 年に2回この病棟では入院患者さんたちを慰労するため7月に七夕会・12月にクリスマス会を 開催している。今回初めて七夕会に参加した。病棟の看護師さんたちのつたない劇や歌・演奏だけど今回も感激して 涙がこぼれた。楽しかった&嬉しかった。病棟の看護師さんたちに感謝!。

6月21日 レスパイト入院前日
明日からしばらくレスパイト入院するっていうのに何も出来ていない、ホームページの更新もメールも文書の整理も。 あせる〜る!!。ただデータのバックアップだけは新しいノートパソコンにデータを移すために整理もしないままSDカードに 入れ込んだ。あ〜あ、時間よ止まれ!。

6月20日 新しい意思伝達装置のパソコンは?
今日の昼ごろ業者の方が意志伝達装置として申請していたNECの新しいノートパソコンを納品に来てくれて色々を調整をして くだった。その後1時間ほど使ってみたのだが、@(病棟でみんながよく使っている)ベッドの上でパソコンを操作するために ノートパソコンを取り付ける台は思っていたほどには画面は見やすくない、A Windows7の使い方がよく分からない(特に エクスプローラー・スタートメニューがXPと違い過ぎて、それにスタートメニューの中のすべてのプログラム・XPみたいに 一覧表は出ないの)、BオペレートナビITのスクリーンキーボードが僕が日頃使い慣れているスクリーンキーボード (僕のオリジナルキー配列)ではないのでキーを目で捜してしまう。これまでのパソコンのオペレートナビのスクリーン キーボードをオペレートナビITに変換・インポートして使えるようにする方法はあるのだが、業者にはそこまでの力は ないのかな?。
全ては退院開けだな。

6月19日 我が家の猫モモ
モモは果たして僕の事を人間と思っているのだろうか?。ベッドに上がってきて僕の脚の間で眠る事はあっても僕の手や 足にじゃれて遊ぶ事はない。車椅子に座っている時に僕の部屋にたまに入ってきても僕と目を合わせる事もなくただ 素通りして行くだけ。でもまあしょうがないか、僕はモモを抱っこする事もなでなでしてやる事も出来ないし「モモ」って 呼んでやる事さえ出来ないもんな。
モモは僕の事を一体どう思っているのかなあ。

6月17日 YouTube
最近YouTubeのアニメにはまっている。ただ基本のYouTubeではアニメはほとんどないから上の息子に「Webでアニメは どうやって見るのか?」と聞いたところ気ままにYouTube を出してくれた。そこにはアニメがいっぱい、でも僕が 子供の頃に見たテレビ漫画はさすがに入ってなかった。
今僕がはまっているのは「Monster」、これは成人番組だそうだ。確かに残酷な内容で少しはエロい場面も出てくるがこれは 日テレ系で夕方やっていた番組らしいのである。それなのに成人番組?。

6月15日 嫁さん体調悪し
嫁さんが昼過ぎから変だ。突然フラフラしだしたしついに嘔吐までしだした、2時からのT先生の往診にも対応する事が 出来ないなんてこんな事は初めてだ。嫁さんの身体は一体どうしたのだろう。でも僕なんかがどんなに心配してもなんにも 出来ないし・・・。あ〜あ、訪問看護ステーションの所長のメールアドレスを教えてもらっておくべきだった。
後で何とか動ける様になった嫁さんに「どうしたの?」と聞くと「ひどい頭痛だった。痛み止めを飲んでも全然治らなかった。 頭痛がひど過ぎて全く動けなかった。」と文字盤を使うのもだるそうにして答えが返ってきた。僕は今までほとんど激しい 頭痛なんか経験した事がないから分からないが(僕のきつい頭痛は二日酔いだけかも?)、大変なんだろうな。 変な言い方だけど、お大事に。

6月14日 連絡が来た
この前も書いたが今2回目の意志伝達装置の申請をしている。そして先月の下旬県の調査員が来た。多分僕の申請は県の 審査をパスしたと思っていたのだが、なかなか審査を通ったとの連絡が来なかったので少しイライラしていた。けれど今日 嫁さんから「意志伝達装置の申請が通ったとの連絡が入った。」と聞かされた。安心した。
さあそろそろこのノートパソコンから意思伝達装置の新しいノートパソコン(Windows7)にデータやアプリケーションソフト・ オプション(今のバクのパソコンはみんなWindowsXPだから使えないものが結構あるらしいが)を移す準備をしようかな。 でもどのアプリ・どのオプションが使えるのかいちいち調べなければいけないな。

6月13日 床屋さん
22日にレスパイト入院する前に散髪したいと思い訪問看護ステーションの所長に「床屋さんを頼んで」と告げた。そして今日 リハビリの後入浴車の前に訪問理容リリアンさんに来てもらった。
まず「前の方は余り切らないようにしましょうね」と言ってからリリアンさんは髪を切り始めた、いつもの事ながら自分では どういう風に切ってもらっているかはちっとも分からないしそれにまあ自分でどうなっているかもうみたいと思う気すら おきないのだけれど。でも入浴車のスタッフからは「すっきりしましたね。」と言われるくらいだから夏風の 髪形になったのだろう。
リリアンのKさん、いつもありがとうございます。

6月12日 W杯サッカー最終予選、vsオーストラリア戦
今日はワールドカップサッカーブラジル大会アジア地区最終予選対オーストラリア戦(アウエー)の日、今日の夕方の放送が 楽しみだ。
夜7時テレビでオーストラリア戦が始まった。この試合前のカタール戦・ヨルダン戦の2試合とは全く様相が違っていた。 試合が始まって十数分日本がちっとも攻めきらないでいるのだ、やはりオーストラリアは全く格が違っていた。 オーストラリアに攻められっぱなしでテレビを見ていてもいつ点を入れられるのかとハラハラドキドキのしっぱなし。前半 20分を過ぎた頃から日本もようやく攻める事が出来始めていたがゴール前からの縦パスのカウンターで一気に形勢逆転、 また日本のピンチでドキドキ。前半を終わって0-0、上出来だった。それにしてもこの試合主審がイエローカードをたくさん 出し過ぎる様な気がする。
後半もハラハラの試合が続いた。でも日本チームの動きは前半より良くなって攻撃の形も出来る様になってきたと見えた。 そして20分過ぎショートコーナーからのパスを受け戻した本田がディフェンスを一人かわしゴールラインギリギリから 折り返しのパス、それをフリーの栗原が丁寧に蹴りこみ日本が1点を先取、その後すぐにオーストラリアの選手が今日 2枚目のイエローカードを受けて退場、これで勝てるかなと思ったのだが。しかしその5分後オーストラリアが攻め上がり 何とかコーナーキックに逃れたのだが…、そのコーナーキックが日本のゴール前に上がりそして主審の不可解な判定が…、 内田がゴール前の攻防でオーストリアの選手を手で捕まえたとしてイエローカードを出したのだ。そしてPKを決められ1-1、 悪夢だった。日本の選手もオーストラリアの選手も何が起こったか分からないって顔をしていたし解説の松木さんもどう 解説していいか??戸惑っていた。その後もせめて攻められてせめぎ合いが続きイエローカードもいっぱい出て…、試合は 1-1のドローで終わった。
日本が勝てそうな試合の様だったがグループ一の強豪オーストラリアとアウエーで引き分けに終わり勝ち点1をもぎ取った。 結果から見れば日本チームにとっては上々の出来だった。それにしても主審の両チームへの判定、不可思議だった。栗原に 対してのファールも厳しかったけど内田に対してのファールは特に厳しかった、もしかしてオーストラリアの選手を 退場させた事を重荷に感じていたのかもしれない、それで・・・。
まあ何にしても負けなくて良かった。

6月8日 通院日
今日は二週間に一度の通院日。残念ながら外は小雨模様、もう九州北部も梅雨に入るのかもしれない。
車窓から見える田んぼはもう半分近くが田植えの準備に入っていた、水を張ってある田んぼ・水を張りつつある田んぼ・ 田植え機用の苗を育てている田んぼ、こんな田んぼを見ているといつも寂しくなってくるし親父に申し訳なく思えて胸が 締め付けられる。何故僕がこんな病気に選ばれなくてはならなかったのか・・・、悔しくてたまらない。
健在の向こうの拡幅工事現場も少しずつではあるが進んでいる。今日は今通っているこの道の拡幅される部分の道の路肩の (コンクリートを流し込むための)仕切りが拡幅された新しい坂道に繋がっていて道の概要(形)が出来上がっていた。 でも新しい坂道の路肩の補強も舗装もまだだしいつまでかかる事やら。
今度この道を通るのは2週間後のレスパイト入院する時、果たしてどこまで進んでいる事やら。

6月6日 入浴日
今日は朝から体調がもうひとつ、気温の変化・暑さに身体がついていかない感じだ。僕は身体が熱くなると息苦しさを 感じる様になるから気温の上昇とともに掛け物をだんだん減らしていったのだがそれでもだんだん息苦しくなってきた。 やはり僕の身体は熱にたいしてかなり弱くなってしまった様だ。
午後1時過ぎ入浴車のスタッフが来て準備、前回僕がお湯に入った時ちょっと熱そうな顔をしていたのを覚えていた様で 今日は43℃設定で(冬は湯船が冷えているから45℃以上の設定)入れてくれているらしい。浴槽に入る前にタッヒングを してもらって吸引もして準備万端で入ったのだがそれでもちょっと熱く感じて少し息苦しい。それで足を湯船から 出してもらった。入浴車のスタッフのみんなはいつもと同じ動きをしてくれていて入浴所要時間もいつもより 早かった様なのだがそれでもいつもより疲れを感じた。
身体が熱いと感じていたためかどうかは分からないがお風呂の後脈がかなり速かった様で入浴車の看護師さんが 心配していた。次の入浴車の日には冷房を入れる様にしようかな。

6月5日 またモモが・・・
我が家の子猫モモがまた昼前外に出て行ってまた帰ってこない。どうやらモモはこの前の家出で外で自由に遊び回る味を 覚えてしまったのだろう。でもまあこの前はまる一日外にいながらもモモは誰かについて行くって事はなかったしまた どこにいるのかは分からないが家の周りで気ままに遊びまわっているのだろうから心配してもしょうがないのだろう。
でも朝・昼・晩とモモが廊下を走り回って暴れている音が聞こえないのは寂しいな。モモは今回も僕の心配をよそに何も気に しないで「ただいまだニャ」と帰ってくるかな?、帰って来ると信じてはいるけどやっぱり心配・・・。

6月3日 娘、来て帰る
昨日の午後何かの書類に親の署名が必要だと娘が帰ってきた。そこで娘が「ただいま。」と挨拶にきた時早速「後で脇机の 整理を手伝って」と頼み事をした。そして訪問看護師さんとヘルパーさんに車椅子に座らせてもらい1時間後ベッドに 戻ってから娘を呼んで「脇机の中の(パソコンの)オプションに付箋紙を貼り付けて整理をして欲しい」と告げた。なぜなら 脇机の中に何が入っているか僕は知りたかったしそれに付箋紙を付けておけば僕が脇机から何かを出して欲しいと頼んだ時 誰デモが僕の欲しいものを取り出してくれるだろう。娘よ、ありがとうな。
ところが後から今使っているノートパソコンを置いているサイドテーブルの下にもパソコンの部材がある事を思い出した。 そこで今日昼過ぎ嫁さんとのお出かけから帰って来た娘に「時間はあるか?」と聞くと「もうすぐ帰るけどな〜に?。」との 返事、「ノートパソコン(サイドテーブル)の下の部品を(昨日と同じ様に)整理してくれないか?」と頼むと「そこまでの時間は ない。」と寂しい返事が返ってきた。仕方がないので「何があるか見せて」と言って見せてもらうだけはしてもらった。あとは 息子たちに頼むしかないが下の息子はこういう整理は苦手そうなので(僕がそう思っているだけかもね)娘が「また来るね。」 と帰った後上の息子を呼んで「ノートパソコンの下の部材を付箋紙を貼って脇机の中に入れてくれないか?」と頼んだ。 すると次の土曜日模試があるから今勉強中。」と。そう言われるとどうしようもない。そこで「模試が終わったら頼むな」と 答えて息子を帰した。それにしても上の息子は「勉強している。」と言うと僕が安心すると思っているのかも。
今回は娘が帰っていっても寂しかったけど泣きはしなかった。こうやって慣れていくのかな。

6月1日 モモが見つかった!
昼前になってもモモは戻ってこなかった。朝のケアの最後に僕は訪問看護ステーションの所長(午前のケア担当)に「明日の 昼からの担当は誰?」と聞くと「出かけたいのですか?。それなら(今日の)昼から出かけましょうか?。」と言ってくれた、 僕がモモを探しに行きたいという気持ちを察してくれたのだろう。
午後3時前訪問看護師さんたちが来て外出の準備をしながら「何所に行きたいのですか?、一応(リフト)車も用意して きましたが。」と聞いてくれたので僕は「神社の横(の前に猫が数匹たむろしていた家)に行きたい」と答えた。そして 車椅子に移乗してもらって外に出た、人口呼吸器は持っていかずにアンビューバッグで押してもらいながら。家を出て 少し上り坂の道を押してもらって50m位進み田んぼの中の道を通り神社へ、嫁さんのツバ広帽子をかぶらせてもらっているが 眩しいし日差しも結構強く感じた。神社の木陰に入ると気持ち良かった。さあいよいよ猫がたむろしていた家へ近寄る、 残念ながら猫は1匹もいなかった。猫を飼っていて猫に詳しい看護師さんが「猫は夜行性だしこんなに暑いから猫も外には 出ないよね。」と言った、僕がモモを探しに着ているのは承知しているのだからもう少し違う言い方があっただろうに。 僕は意気消沈、家に戻る事にした。
4時前部屋に戻ると所長が「もうしばらく座っときます?。」と聞いてくれたので甘える事にした。そして今シーズン初めて 窓を開けて車椅子に座っているとどこか遠くの方からモモの泣き声が聞こえた様な気がした。縁側で待機していた 訪問看護師さんたちにもモモもの声が聞こえた様で声のした方へ見に行ってくれた。しばらく看護師さんのモモを呼ぶ声と モモの泣き声が聞こえていたが・・・、やがて見つかった様だった。看護師さんによるとモモは2件隣の家の屋根の上にいて 降りれないでいると。それでも僕はモモが生きていた・(遠くに)出て行ってはいなかったと嬉しかった。そして嫁さんが 迎えに行って窓から捕まえてもらって・・・、モモは帰ってきた。
みんなモモが帰ってきて嬉しそうだったしモモも家の中をそこいらじゅう走り回ったり僕の部屋のトイレの中に置いてある モモ用の水を何度も飲みに来た。モモも嬉しかったに違いない。
所長・訪問看護師さん、ありがとうございました。


[2012年の先頭に戻る]



5月
5月31日 モモがいなくなった!
今日は朝からモモがチラッともしない。今朝5時過ぎにモモの鳴き声がしてお袋が「誰か餌をあげて。」と叫んでいる声が 聞こえたのに。モモに餌を上げるのはうちでは嫁さんか息子たちと決まっている様だ。
モモは相変わらずのいたずらっ子で僕の部屋の障子も所々モモがびりびりに破っているし先日も仏壇に入り込んで何か 落としていたもんな。昨晩もお袋とモモの間で何かいざこざがあったらしい。だからかどうかは分からないが夕方 嫁さんから「モモが帰って来ない。」と聞かされた。昨日の夜寝る時に嫁さんに僕のベッドにモモを連れてきてもらえば よかったなあ、そうしたらもし昨晩のお袋との諍いが原因でモモの気持ちが少々荒れていたとしても少しは 落ち着かせる事が出来たかもしれないのに。
それにしてもモモは朝餌は食ったそうだし午前中嫁さんが出かけた時は前の畑を飛び回っていたという。だとしたら昨晩の 事でモモが出て行ったとしたら辻褄が合わない。ただ正午前嫁さんの両親が訪ねてきた時モモは外を走り回っていてその時 お袋がたぼ網で捕まえようとしたという話もあったからきになったが。
モモがいなくなったと聞いて何もする気がなくなった。ただとっても寂しかった。このままモモが帰ってこなかったら・ もしモモが自動車にひかれでもしていたらどうしよう。みんな探してくれていたのにモモは見つからなかった、 どうしよう。明日の朝餌を催促してモモの泣く声が聞こえなかったらどうしよう。

5月30日 入浴車・井戸端会議
今日は午後から入浴車の日。最近韓流ドラマ「チャンドンの誓い」にはまっていて(眼鏡をかけてないから)ぼやっと見ながら or聞きながら湯船に入った。
今日僕の入っている浴槽の周りで展開された井戸端会議の話題は歌番組の話、そこからなぜかラン・スー・ミキを 知っているかという事に話しが飛んだ。すると30前の看護師さんがキャンディーズを知らないという、ピンクレディの歌は お母さんが歌っていたから聞いた事はあるという。驚いた、干支が2世代違うとこんなものなのかと。でも高校3年の2月 大学受験の追い込み勉強をしていた時昔隣にあった保育園から「男は狼なのよ・・・」とSOSを歌う園児の歌声が聞こえて いたもんな。そしてその時はこの看護師さんは生まれていなかった訳だもんな。

5月27日 日曜日は何をする?
日曜日はいつものごとく暇だ。今日は昼からインターネットで野球(ソフトバンクVSドラゴンズ)を見て(静止画・自動更新、 今日もソフトバンクが負けた)、その後暇潰しにテレビで「西村京太郎シリーズ・十津川警部」を見て、それからパソコンで GyaOのアニメをみて、僕は相変わらず暇潰しが下手だ。でも暇な時僕に出来る事は何がある・僕に何が出来るというんだ。 全然分からないな!。

5月25日 県境の拡幅工事は?
今日は通院日、車窓から見える田んぼの風景は黄金色に実った麦畑(麦田?)や早くも田植えに向けて水を張った田んぼが ちらほらと。我が家の田んぼは親父がもう稲作する元気もなくて人に貸している状態、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 跡を継げなくて・田畑を守れなくてすまない!。
通院途中に僕がいつも気にしている県境の拡幅工事現場も少しずつではあるが進んではいる様だ。県境を越え下り坂の カーブから拡幅工事中の現場の坂道の手前の田んぼを見ると2mほどの幅で土が削り取られていた。この削り取られた部分が 新しく作られている幅広の坂道と元の道を繋いでいずれ片方の車線になるのだろう。拡幅工事の全形が始めて見えた。 この拡幅工事がいつ終わるかは分からないが完成が楽しみだ。

5月23日 意思伝達装置の本人訪問判定に県の担当者来る
今2度目の意志伝達装置の申請をしている。前回の申請は多分2003年6月、デルのデスクトップパソコンとオペレートナビEX(ver2.00)を申請した。今回はWindows7対応のノートパソコンとオペレートナビIT(Ver3.0)一式とベッドに寝たままで ノートパソコンを操作出来る台を申請している。数年前から意思伝達装置も穂装具の分類に変わったらしく申請してからの 手続きがめんどくさそうだ。
昨日県の担当者が意思伝達装置の本人判定のために訪ねて来られた。その方は難病や制度には詳しいのだろうが(嫁さんに 介護保険の使用状況や家族の介護負担の状況を尋ねてアドバイスをくださった様だがヘルパーによる痰の吸引を認める 介護事業所がこの地区で現れない限り家族の負担が軽減される事はない)、パソコンはあまり得意じゃない方の様に 見受けられた。その割には自分はよく承知しているというような風で・・・不可思議な確認・質問の仕方をしているのに その自覚はなさそう、納入業者の方が対応に困惑していた。佐賀県の体制はこんなもんかと思わず立腹(嫁さんが口を 出さない方がいいとなだめてくれた)そして失望。
後で納入業者の方に聞いたのだが東京と福岡は意思伝達装置としてオペレートナビは通らないと、前は佐賀県も東京が 駄目だから佐賀も駄目と言われたと。こんな風に東京都の状況は他の県に影響を与えるのだからテクノツールにはもう一度 東京にトライして欲しいものだ。オペナビを長年使ってなじんでいる僕は今回の意志伝達装置の申請も多分通ると思うが、 意思伝達を補装具として申請する様に変わった事といい県の体制といい意思伝達装置は結構敷居の 高いものになっている様だ。
これも納入業者の方に聞いたのだがオペレートナビEXの中に入っているセット変換ではオペナビデータはVer3.0には 移せないと。納入業者の方が帰った後でオペレートナビITのホームページを開いてびっくり、Ver2.1?→Ver3.0への オペナビデータの移行、結構大変な作業の様だ。製造元がNECからテクノツールに移ったためなのかWindows7対応にするには 仕方のない変更だったのかは分かりかねるが。まあある程度のオペナビデータの移行は納入業者が最低限は やってくれるだろう。

5月22日 訪問歯科
火曜日午後2時からは訪問歯科の時間、いつもの様に若い先生と歯科衛生師さんが来て僕の歯を見てくださった。まず 歯間ブラシを使って歯全体の歯間の掃除、次に今日は電動機器を使っての歯石の除去。その時先生が「少し口が開く様に なりましたね。」と、その言葉に本当に嬉しくなった。このまま口を開く訓練を続けていれば口がもっと開く様に なるのかな。
病院の複数看護師さんに言われたし今日も訪問歯科の先生に言われた事なのだが「(僕の)口の中はよく掃除されていますね、 奥様のおかけですね。」と。僕は食べ物はもう一切口にしないし飲み物もたまに水か塩水を飲ませてもらうだけ、それでも 口の中って汚れるのかな。でもいつの間にか歯石が出来ているし先生も「口臭がある。」って言っていたもんな。やはり 何も口にしなくても歯磨きはしないといけないという事か。でも歯磨きすると痰が増えるしたまの歯磨きは歯茎が 痛いもんな。

5月19-20日 娘来る・帰る
昨日の夜嫁さんから「娘が奨学金申請のための保護者の署名をもらいに朝の便で帰ってくる。」と告げられた。僕は大学生活のどんな様子を話してくれるかまた頼み事もあったし、明日が来るのを楽しみにしてた。
ところが娘が来たのは3時半前丁度僕が訪問看護師さんとヘルパーさんに車椅子に座らせてもらった時だった。僕は正直 待ちくたびれていた、きっと娘は高速バスのバス停まで迎えに行った嫁さんとどこかに寄ってきたのだろう、羨ましいな。 帰ってきてから娘はすぐに僕のところに来て右手を両手でさすりながら笑顔で「ただいま。」と言ってくれた。まずは それだけで嬉しかった。ところがその後はちっとも顔を出さない。その上嫁さんから「(娘は)明日朝8時前に帰る。」と 聞かされた。慌てて娘を呼んでもらって「忙しそうだが学生生活はどうだ」と聞くと色々と話を聞かせてくれた。僕らが 大学生の頃と違って今は土曜日が休みになって講義ないからかもしれないが娘の1年目の学生生活はかなり忙しそうだ。明日 朝帰ると聞いたらもう頼み事も出来なかった。
日曜の朝8時過ぎ娘は「またね。」と言って帰っていった。個人的には今日は下の息子が通う中学校の体育祭だったから 娘には午後3時過ぎまで傍にいて欲しかったのだが。

5月15日 以前買ったUPSは不良だったの?
この前の日曜日下の息子にUPSの充電バッテリーを交換してもらったら停電対応(バックアップ)のコンセントの方も 使えるようになった。そしたら何故今まで停電対応のコンセントがつかえなかったのか?またバッテリー交換したら 何故使える様になったのか理由を知りたくなった。それでメーカーにメールする事にした。
WEB検索でメーカーを検索して何とかメールで問い合わせコーナーを見つけた。そこで自分がALSで10年程前に人工呼吸器を 着けてからほぼ寝たきりである事、このUPSを買ったのが2008年2月で今更なのですがとまず断ってUPSのバックアップの方の コンセントが買った時から使えなかった事、バッテリーは最初はUPS本体に付いていなくて買わないとバックアップの コンセントは使えないものだと思い込んでいて(インターネットですごく安く買ったものだから)2011年5月にバッテリーを 買ったものの先週までバッテリー交換はせずに落雷対応のコンセントの方ばかり使っていた事、この日曜日息子にようやく バッテリー交換してもらってバックアップのコンセントも使える様になった事および息子に@バッテリーは入っていた? (yes)Aコネクターは+-とも?がっていた?(yes)B電源スイッチはONになっていた?(yes)を確認した事を報告して、 @月日が経ちバッテリーが劣化してバックアップ充電が効かなくなっても落雷対応コンセントとしては使えるのか? Aバックアップのコンセントの方が使えなかった原因は何が考えられるか?との質問のメール(Webで)を月曜日 送信した。
すると火曜日の夕方突然UPSの部署から電話があり「バッテリーが劣化してしまったらバックアップのコンセントは 通電しない」「原因は分からない」と返事があった。僕は納得がいかなかったので、「僕が言いたいのはサービス部門として 次の点が気にはならないのか」と再度質問(諫言)のメール(Web)を送った。@バッテリー交換したら正常に動いた→本体に 内蔵されていたバッテリーが不良だった可能性が高い。このバッテリーを調べてみたいとは思わないのか?A商品の新旧は 別にして工場における最終検査工程は今も以前も同じはず通電しない商品がどうして出荷されたのか、気になりませんか? メールでの返事お待ちしています と。
するすると今日の夕方メーカーからメールがあった。内容は次の様なもの、まず当社UPSでご迷惑をおかけし申し訳 ございませんと謝りの言葉、次に考えられる原因としては@本体異常−バッテリー交換をしたら正常に動作したとの 事だから可能性はきわめて低いAバッテリー異常−状態郭にする場合は修理依頼表を添付して修理センターまで送って 欲しいB(我が家が)UPS本体を電源スイッチOFFのまま使用していた。元々本体に入っていたバッテリーを状態確認して もらうつもりで修理依頼表をダウンロードしたらAdobe Readerの用紙、これでは僕は記入出来ない。僕自身が記入するには 修理依頼表をエクセルでこの通り作らなければならない、何日かかる事やら。
取扱説明書を見てからUPSを設置したのではないからBの可能性もあるし(僕もUPS本体に電源スイッチが付いているなんて 想像だにしていなかった、このUPS自動データバックアップ機能も付いているし自動シャットダウン機能にも 対応しているみたい、上等なんだ)、バッテリーの状態確認をしてもらう意欲が減退してきた。とりあえずエクセルで 修理依頼表は作る事にしようかな。

5月15日 上の息子も吸引を・・・
上の息子がようやく吸引をするようになった、重い腰を上げたのだ。
上の息子はずい分前から「もうお父さんの吸引をせんといかんね。」と言っていた。だけど教える方の嫁さんも 教えられる方の上の息子ももうひとつ踏ん切りがつかないでいた。でも今日からは上の息子も痰の吸引をしてくれる。
しかし親父も80を超えてからめっきり無気力になり今はただ無意味に酒飲むだけ、お袋も80になり「あちこちが痛い。」と 気弱な愚痴を何度も口にする様になった。しかも4月から大学生となった娘がいなくなり家の中で吸引してくれる者が一人 減っていた。だがこれで嫁さんがいなくてお袋の調子が悪くても上の息子が吸引してくれる。本当に嬉しいな。

5月13日 下の息子に手伝ってもらって…
夕方下の息子が僕の部屋にパソコンしに来た時に「後でちょっと手伝って」と言うと「分かった。」と今日はやけに素直な 返事が返ってきた。
そこで下の息子がパソコンを終わった時に、まずUPSの充電バッテリの交換。メーカーからは使い方が正規ではないと おこられるかもしれないが僕はUPSに人工呼吸器を繋いでいる、僕の場合雷が落ちて壊れて止まってしまったら一番困る 電気機器は人工呼吸器だから。この呼吸器も前の呼吸器も幸い充電機能が付いているから厳密にいえば充電 バッテリーによる停電対応は必要ない、コンセントが落雷対応になってさえあれば良いのだ。だからこそ買ってから4年 経っていてもUPSの落雷対応のコンセント機能だけでも役にはたっていたのだ、ただ停電対応のコンセントの方が 使えなかったからコンセントの数が足らないのには困ったけど。今回息子にUPSの充電バッテリーを交換してもらって 総ての(6つ)コンセントが使える様になった。
次に下の息子にしてもらった事はデスクトップパソコンのHDDの整理、今では嫁さんももう使う事はないと思われる パソコンのメールデータを削除して、スタートアップフォルダの中でデスクトップパソコンの起動時に起動させる必要は ないと思われるプログラムの(表示される分の)ショートカットを削除してゴミ箱を空にした。最後にデフラグを かけてもらって終わりにした。これでデスクトップパソコンの処理スピードが少しは上がるかなと思ったがあまり改善は しなかった様だ。どうしたらいいのか、やはり古いパソコンはもう駄目なのか、Pentium4を積んでいるのにな。

5月11日 通院日
通院日、今日はリフト車が一番先に来て同行してくれる社協のスタッフ2人とベッドから車椅子に移乗させてくれる 訪問看護師さん2人が11時40分過ぎにほぼ同時に来た。かといって僕の出発時間は12時過ぎだからみんなが遅かった訳では ない、リフト車が早く着きすぎただけだそうだ。
堅座の向こうの拡幅工事現場は今日はお休みらしい、だって行きも帰りも工事現場には誰一人見えなかったもの。しかし 田んぼと林を潰して新しく作られている結構急な幅広の坂道を元々のこの道にどうやって繋ぐのだろう、想像がつかない。 峠道を1週間ぐらい通行止めにし突貫工事でもして一気に繋ぐのか、それとも元の道の?がる部分の手前から道を広げて (一部田んぼにかかりそうだが広げる土地は確保してある様だし)片車線ずつ繋ぐのか(繋ぎ目の新しい道と元の道との段差が かなり大きいのが気になるが)。何にしてもこの拡幅工事まだまだ長くかかりそうだなあ。
病院に着きリフト車から降りて救急処置室に入るともう主治医が来ていて「協は車椅子に座ったままでカニューレ交換を しましょうか?。」と提案がありやってみる事にした。ところが車椅子の背もたれを倒してもらっても頭の据わりが おかしくて吸引してもらうと舌を噛みそうになった。主治医によるカニューレ交換はいつも通りスムーズに終わったが やはりストレッチャーに移って処置してもらった方がいいとの結論になった。僕もその方が楽だしね。

5月9日 我が家の子猫モモ No.8
今日の入浴車の時間の少し前からモモは僕の部屋のデスクトップパソコン机の前の椅子の上(毛布付)にリラックスして 眠っていた。そして入浴前に入浴車のスタッフの一人がモモに対して「ミィ。」と声掛けした時にひと言だけ「ニャー」と 答えてあとの1時間半は僕とスタッフと5人が入浴でワイワイガヤガヤと言っている間も微動だにもせずにじっとしていて ただ寝ていた。これまでなら水の音がしただけで浴槽の周りをうろちょろしたり浴槽によじ登って水を飲もうと していたのに、今日のモモのこの動きの違いはなんなんだ。
2日前もモモは僕の脚の間で朝まで寝ていたし、ここ数日でモモの心境にいかほどの変化があったのか?。ともかくモモが 僕の部屋にまた出入りする様になって嬉しい。

5月8日 訪問歯科
午後2時過ぎ今日も訪問歯科の時間、いつもの若い先生がいつもの様に歯の診察。最初に唇の荒れた薄皮をスポンジブラシで 整えてくれてそれから歯間ブラシで歯の細かい部分の掃除と歯茎のマッサージ、次に口を開ける訓練をして歯の裏側の歯石 取りかかる。先生は僕が疲れない程度に歯石を取ってくださって「また来週続きをやりましょう。」と。
ひと通り処置が終わった時嫁さんが「左下の奥歯も大分落ち着いている様だし大学病院に入院してブリッジをとる必要は どうしてもあるのでしょうか?、本人もあまり乗り気ではないようですし。」と相談すると、先生から驚くべき提案が あった、「今の状態のままならそこまでする必要はないと思います。様子を見ましょうか。」と。どうやら入院しなくても すみそうだ、良かった!。

5月7日 我が家の子猫モモ No.7
ゴールデンウイークもようやく終わった。今日からまた訪問看護・訪問リハビリが再開、訪問看護の時頭を少し 持ち上げられただけで背骨の一番上あたりが痛いのでびっくりした。また訪問リハビリで装具を着けて立たせてもらった時 右ひざががくっときたからまたもやびっくりした。そしてリハビリが終わった時身体が熱くて息苦しくなった。どうやら 僕の身体は僕が思っている以上に弱っている様だ。
うちの子猫モモ、最近僕の部屋に来る時は僕の部屋のトイレの中にあるモモ用の水を飲みに来る時と僕が操作している ノートパソコンのキーボードの上で寝る時だけ。キーボードの上に寝ているモモの顔を見ると気持ち良さそう、気持ち良さそうに寝ているモモに向かって「どいて」とは言い辛いが画面が半分しか見えない。それだけならまだ何とかなるがキーを押しっぱなしの時もある。メモ帳も使えないしホームページを見ていたら時々URLへ飛んでキー(文字)が入力されるから困る。 動画はモモが寝ていれば何とか見れるが他の作業は全然出来ない。
コールを押し家族を呼んでモモをキーボードの上からどかせてもらう事は出来るがこう度々だとみんなに申し訳ない。 何とか自分でモモをキーボードの上からどかせる方法はないかと考えた。そしてひらめいた、このノートパソコンでモモに 猫の鳴き声を聞かせてはどうかと。そこで「猫 鳴き声」で検索して猫の鳴き声のサイトを見つけ声を保存しようと試みたが 難しい、一応このサイトをお気に入りに追加した。
2-3日前モモがキーボードの上でくつろいでいる時に実験してみた。するとパソコンからの猫の鳴き声を聞いたモモは そわそわしだして声の主を探すためにキーボードから降りた。実験は大成功!。
ただその日からモモは僕の部屋に寄り付かなくなった、モモは僕の部屋に他の猫が居ついていると思い込んでいるのかもしれない。でもその日以来モモが僕の部屋に来なくなったのは寂しいなあ。後悔先に立たず、か。

5月5日 こどもの日
今日も旗日、こどもの日。天気は晴天、窓から真っ青な空が見える。けれど息子たちは家にいるみたい。もしかして友達が みんな家族で出かけていて訪ねて行く所がないのかな。だとしたら申し訳ない。
僕が子供の頃はこどもの日には夜班で持ち回りでそれぞれの家に班の子供達みんなが集まり食事会やゲームをして 過ごしたものだった。そうして班の子供達の仲間意識や家々の絆が深まったものだった、楽しかったなあ。今は班の 子供たちが主体的に集まる機会はほとんどないだろう。まあこれだけ子供が少なくなってきているのだから しょうがないか。

5月3日 誕生日
今日は僕の54回目の誕生日。娘からは(送信時刻を見ると)午前様に「お父さん、誕生日おめでとう」のメールが入り朝には 姉から「誕生日おめでとう」のメールが入った。でもそれ以降は誰からも何にもなし、もうこの年になって誰かにお祝いして 欲しいとは思ってはいないけど家族にも忘れられていると思うと寂しい。
ところが夜上の息子にちょっと用事を頼もうと思ってコールを押すとお袋が来て「(息子は)今何か作っている。」と言う。 それは僕の誕生日プレゼントだった。嫁さんはそして息子たちは決して僕の誕生日を忘れていた訳ではなかったのだ。ただ ずっと知らんぷりして黙っていて僕をびっくりさせようとしていただけなのだ。それだけに余計嬉しかった。ちなみに 誕生プレゼントは簡易プナレタリウム、僕が星を見るのが好きな事をみんなが知っていたから?。

5月1日 訪問歯科
午後になって僕が「パソコンしたい」と言うと嫁さんから「2時から訪問歯科が来るのに。」と聞かされた。確かに訪問曜日の 火曜日午後への変更は依頼した。けれど変更してくれたとは僕は聞かされていなかったのに。
午後2次すし前訪問歯科の先生が来られて診察と処置に取り掛かった。左下奥歯のブリッジはまだ違和感はあるものの 痛みはほとんどなくなった。このまま定期的に処置を続けていけば奥歯のブリッジを削り取らなくても 済むかもしれないのに本当にまだ入院する必要があるのか。先生は器具と歯間ブラシで前面の歯石を取ってくださった。 それから口を開ける訓練、先生が上下の歯を掴んで口を広げてくださるのだがあごの骨の間接が固まっていて口が 開かない。その上先生が口を開こうとするとあごの間接が結構痛い。固まった関節を動かそうとするとこんなに 痛いものなのか、初めて知った。先生は「これからも口を開く訓練を続けていきましょう。」と言う、また「歯の裏側にも 歯石がかなり付いていますが少しずつとって行きましょう。」とも言う。先生、よろしくお願いします。


[2012年の先頭に戻る]



4月
4月30日 娘、行く
3日間いや正確には2日とちょっと家にいて娘は大学のある町へ戻っていった。娘は本当は大学の講義の課題のレポートの 資料の基となる素材となる物を取りに来ただけらしい。それがなかったら娘はゴールデンウイークに戻る気は なかったらしい。まあ分かる気もするが、なんせまだ一人暮らしが楽しくてたまらない時期だもの、一人暮らしを寂しく 感じる様になるのはもう少し先の事だもの。僕にも経験があるものな。
娘には僕は脇机の整理を頼んで愚痴を聞いてもらって、迷惑をかけた。でも僕の愚痴を聞いてくれるのは娘しか いないもの、息子たちは色々手伝ってくれるけど。娘が「もう帰るね。」と挨拶にきた時涙だけは流すまいと思いながらも 涙が零れた、僕の愚痴を聞いてくれる人物が僕の想いを感じて手や足になってくれる人が僕の周りからまた一人減ったのが 寂しくてたまらなくて、情けない。こんな事では娘が嫁に行く時僕はどうするのだろうか、まあそれまで生きていたらの 話だが。

4月28日 娘、帰ってくる
大学に行った娘がひと月ぶりに帰ってくる。あまり連絡メールを僕にはくれない娘だがこのひと月の一人暮らしでどう 変わったか?。
待ちわびた娘の「ただいま帰りました。お父さんお久しぶりです。」と挨拶に来た時の娘の姿を見てこれが今時の若者の ファッションかと思った、僕は娘のお出かけの服を見るのはこれが初めてなのである。まあそれから嬉しさが こみ上げて来たけど。
僕としては大学はどうだとか一人暮らしはどうなのかなどと色々聞きたかったが娘は忙しそうなので止めた、また明日 効けばいい。今は吸引と排尿を手伝ってくれればそれだけでいい。

4月27日 通院日
3週間ぶりの通院日、あの県境の峠道の拡幅工事はどのくらい進んでいるだろうか?。
車窓から外を見ると今はつつじの季節、でも今年の街路樹のつつじはちょっと変、だって例年なら木によって違うがもっと 一斉に咲くのに今年はつつじの木についている花がまばらで綺麗くない。ちょっと残念。県境を超えると拡幅工事が どこまで進んでいるかとワクワクしてきた。カーブにかかったとき道寝のすぐ向こうにシャベルカーが見えた、新しい道は すぐそこまできている。
病院に着き外来に連絡してもらうとお出迎えの看護師さんが4人も。新しい外来看護師長さんは前はいつも僕が入院していた 神経難病病棟の師長さん、師長さんは「びっくりしたでしょう。」と言ったが実はこの前入院していた時に「看護師調は 4月から外来に移る。」とある看護師さんから聞かされてもうすでに知っていた。だから驚いた顔は出来なかった、残念?。 「今日の看護体制はどう?。」と聞かれたら????と答えるしかなかったな。
主治医を待つ間に地域連携室の人が来て「次のレスパイト入院はいつにします?。」退院してまだ3週間なのにもう聞く、 次のレスパイト入院は6月でいいのに。
しばらくすると主治医が来て診察と処置、そして僕の体重の増加をどうやってくい止め減らしていくかを嫁さんと打合せする 声が聞こえた。僕の場合1日あたりの経管栄養の容量を減らすだけじゃあ必要な栄養素が不足し偏ってしまうから 無理らしい。結局経管栄養を200ml減らして1000mlにしその分味噌汁なんかを入れるって事で話は決まったらしい。
病院からの帰り道いつも川棚川を見ているのだが整備工事は終わったらしい。河原の雑木はきれいに刈り取られ新しい 流れ(溝?)が出来ていた、僕は個人的には雑木がたくさんあった以前の河原の風景の方が好きだったけど洪水対策では しかたない。川の側の田んぼに2面菜の花がいっはい植えてあって綺麗、ここにも春の風情を感じれた。季節を感じ取る事が 出来る事、それが通院における僕の喜び。

4月25日 忙しい1日
今日は本当に忙しい1日だった。午前10時に訪問歯科の若い先生が来てくれて左下奥歯の状態を見てくださった。今日の 先生は先週の仏頂面した先生と違って僕に対しても優しく丁寧に説明してくださった。先週に比べて痛みはかなり和らいで きたがまだまだ違和感はある。今日は先生が歯間ブラシで口の中を歯の前側を掃除してくださった。でも不思議な事に 今回は左下奥歯のブリッジの歯間をブラシで掃除してもらった時歯茎から血が出なかった、以前そこを治療・ 掃除してもらった時は血がたっぷり出ていたのに、そして歯茎から悪い?血を出し切ったら腫れも痛みもすっきり 治まっていたのに。今日の治療が終わった後次回の訪問歯科予定日を火曜日の午後への変更を検討してもらう様に依頼して 訪問歯科は終わった。
続けて午前10時45分からは訪問リハビリの時間、水曜日は車椅子に座らないからリハビリで何としても装具を着けて リハビリの先生に立たたせてもらわなければならない、いや立たせてもらいたいのだ。そのためには少々痛くても少々 きつくても無理をしなくてはならない、それが僕が決めた道だから。そしていつもの様に訪問リハビリの先生に手足を 動かしてもらい立たせてもらった。
午後1時からは入浴車の日、ただ前回の入浴車の時に言われた通り今日の入浴車のメンバーの中にはベテランはいなかった、 少しばかりそれが気になった。段取りとコミュニケーションに少々戸惑ったがでも心配は不要で入浴は何事もなく無事 終わった、まあ以前の様に浴槽を囲んでのお嬢様方の井戸端会議がなくなったのが残念だったが。
お風呂の後少し嫁さんに水を飲ませてもらってから少し寝た。それにしても今日の昼間は忙しかったな。

4月24日 お花見
今日の朝10時のケアの時訪問看護師さんがなぜか二人来た(通常火曜日はもう一人の看護師さんは車椅子に座らせるために 11時過ぎに来るのだが)。そして所長が突然「今日お花見に行きません?。」と言い出した。嫁さんと僕が行きたいと頷くと 驚いた事に「髭剃りと洗顔を済ませたらすぐ出かけましょう!。」との事、そんなに早くちゃ20分前に経管栄養が 終わったばかりのお腹は大丈夫かなとちょっと思ったが、洗顔が終わった頃にはお腹はもう落ち着いていた。それから すぐに車椅子に移乗させてもらいリフト車のデルタに乗り込んだ。
行き先は山田神社(唐船城址)、今頃は八重桜や石楠花が満開かな。山田神社の最初の鳥居を過ぎた所でリフト車から降り 訪問看護師さんにアンビューバッグで押してもらいながら境内を散歩。不思議な事に石楠花は開花の時期が木によって かなり違うらしい(日当たりがいいかどうかは別にして)、満開の木もあればもうすでに散っている木もある。でも一斉に 咲かないという事は逆に石楠花の木がたくさんあれば愛で楽しむ時期もそれだけ長い、かな。つつじも藤も今が咲き始め、 八重桜はもう散り時、久しぶりにこんなに間近に花びらを見れて嬉しかった。日頃疲れた顔をしている嫁さんも写真でも 撮っているのか元気に石段を駆け上がってゆく、楽しそうで良かった。もうひとつ久しぶりで嬉しかった事、川の流れを ゆっくり見れた事、昔はこんな川でよく遊んだものだった。
それにしても我々の後からも短時間の内にここ山田神社を訪れる人たちが2−3組いた、もうここもわが町だけの隠れた 花見スポットではなくなった様だ。まあ春には桜・八重桜と石楠花・つつじ・藤と立て続けに咲くからね。
こ一時間ほど散歩させてもらって帰途につく。帰りは曲川神社経由、曲川神社は桜・八重桜のお花見スポットなのだ。今日も どこかの介護事業所がレクリエーションの準備をしていた。この公園(曲川神社)の八重桜の状態は?・・・、リフト車の中に いる僕の目線では八重桜がどうなっているか僕には見えなかった。正午前家に到着、そんなに疲れている訳ではなかったが 直ぐにベッドに寝かせてもらった。まもなく心地良い眠気が襲ってきた。
訪問看護ステーションの所長さんみなさん今回はまた花見に誘ってくださいましてありがとうございました。おかげで 久々に外の雰囲気・日差しを味わう事が出来ました。
それにしても所長どうして急に「お花見に行こう。」なんて言い出したのだろう。もしかして前にホームページに 書いていた事を見たのかな。

4月23日 デスクトップパソコンに XP Service Pack 3 を入れてみたら・・・
9年前に買ったデルのデスクトップパソコン8300を下の息子に初期化してもらおうと思ったがやり方がわからない。そこで パソコンで8300取扱説明書で検索してみたらヒットした。初期化のページを見てみると結構複雑で難しそうだ。下の息子に 分かるかな、僕がキーボード操作しても戸惑いそうだ。
試しに XP Service Pack 3 を入れてみようと重い検索・保存してネットワークを使って8300のマイドキュメントに 入れ込んだ。そして丁度部屋に来た上の息子に頼んで XP Service Pack 3 をインストールしてもらった。さて ディスクトップ8300はどう変わるかな。
上の息子が言うには「以前の(デスクトップ8300)は立ち上がるのに30分位かかっていたが今は比較的スムーズに 立ち上がっているよ。」と、僕としてはひと安心。さてぐだぐだ言っていた下の息子が満足するかな。

4月22日 脇机
もう少し脇机の中や今までに買ったパソコンのオプションを整理したいと思って出来るだけ奥行のある中古のビジネス用の 脇机を買おうと思った。インターネットで「中古 脇机」で検索しOAランドというお店を見つけて脇机を見る。ほとんどの 物が奥行59.5cmだったが1つだけ70cmの物があった。だけど注文の仕方が分からない。仕方がないので「見積りします」の 「ページに買います。」と書いて送信した。すると「見積もりに賛同出来たなら印を押してFAXしてください。」とメールが 来た。そこで「身体に障害があるのでFAX出来ません。」と返信した。すると「注文しますとメールください。入金が 確認出来次第発送します。」とのメールが帰ってきた。何とか入金してもらい購入完了、水曜日に物が着いた。設置は上の 息子に頼るしかあるまい、面倒くさがらずにやってくれるのは僕の周りでは彼しかいないもの。
「今日の夕方脇机を設置して」と上の息子に頼んだ、息子は高校の課題がいっぱい出ていてとても忙しそうだったが。そして 夜、息子が着てくれて机周りの整理。まずは木の脇机の移動、木の脇机をパソコンデスクの下の左端に移動、僕の予定では パソコンデスクの下の空きスペースに椅子も納まるはずだったのだが、困った。次にパソコンデスクの右端に付けていた 拡張天板を取り外してもらい空いたスペースに今回買った中古のスチール脇机を入れ込んでもらった。あとは壊れかけの 合板脇机から中味を移してもらい作業は完了。今回買ったスチールの脇机は合板の脇机より丈も高く奥行もずっと長いから 重ねれば今よりもかなり入るだろう。後肺までに買ったオプションを見つけて入れるだけ?・・・。
この様な事で息子にはいつも世話になる、すまないそしてありがとう。

4月21日 娘から連絡は・・・
娘が大学に進学し家を出てからまもなくひと月になる。僕にとってはその分親身に話し相手になってくれる人間が減って やっぱりとても寂しい。僕としては周1回ぐらいはメールをくれると思っていたが僕の思惑は全然外れた。嫁さんには時々 電話やメールしているようだが僕には僕がメールした時の返信だけ。そんなもんなんだろうな僕の存在なんて、なんにも しなかったし出来なかったもんな。
娘が僕のホームページを見る事もないのだろうな。

4月18日 訪問歯科
ここ数日左下の奥歯のブリッジのところの歯または歯茎が痛んで苦しんでいる。今日朝10時訪問歯科に来てもらって 診てもらった後、先生が嫁さんに「原因は分からないが左下の歯茎が異常に腫れて一番奥の歯にかぶっている。(完全に) 治すにはブリッジを削って歯を抜くしかない。ここでは削れないから口腔外科のある病院に(入院して) 削ってもらうしかない。紹介状を書くから。」と説明してた、「当事者は僕だろう、僕に説明してよ」と言いたかったが僕は ほとんど無視。
ブリッジを削り取るなんて簡単に言うなよ、僕はこのブリッジの一番手前の歯と上の歯を歯軋りさせて音を出して傍にいる 人の注意を促している。この歯軋りの音はいわば僕のもうひとつの生命線なんだぞ、この左下奥歯の腫れは今までだって だましだましやってきたのに、削り取るにしてもこの歯だけは何とか今に近い形で残してよ。。ということで近くまた 入院です。

4月16日 歯?歯茎?が痛〜い
1週間以上前から左奥歯下の歯茎に違和感があった。そして5日ほど前から左奥歯全体が痛み出した。やせ我慢していたが 嫁さんについに直訴、ケアマネージャー経由で連絡してもらい訪問歯科に来てもらえるようになった。だが僕が 聞き違いして?僕の中では火曜日午後2時に訪問歯科が来ると思い込んでそれまではと痛み止めの薬も使わずに必死に やせ我慢していた。
ところが今日の夕方車椅子に座らせてもらった後(葉の痛みから?)頭が痛み出し息苦しくなった。夕方5時前からの 訪問リハビリの時僕が「今日は立たない」と言い出したのでいつもと様子が違うと気付いた嫁さんが理由を尋ねた。僕が 「歯がいたい、阿多も痛い」というと嫁さんは「ロキソニン(痛み止め)使う?。訪問歯科が来るのが木曜の2時だから それまでもてる?。」と。ガーン!、それは無理だ。その瞬間やせ我慢する気もなくなった。そして「ロキソニン入れて。 訪問歯科何とか早めて」と僕は懇願。結果訪問歯科の訪問が水曜AM10時に変わった。それまで耐えられるかな。

4月15日 パソコンの初期化
約9年前に意思伝達装置の申請をして買った?Dimension 8300(OS:Windows XP)が最近ほとんど立ち上がらなくなり(時々は まともに立ち上がるが)下の息子からよく文句を言われている。付属のリカバリーCDを使って下の息子に初期化させようと 思ったのだが…、リカバリーCDをドライブに入れるだけでは初期化出来ない様だ。まず僕が初期化の仕方の正しい手順を 見つける、という事で息子の初期化作業は一時中断。
だいたいパソコンにさほど詳しくない中学2年の息子にパソコンの初期化をさせる事自体に無理があるのでは。初期化が 終わってもウイルスソフトインストール・ネットワークの構築・XPのService Pack 3までの引き上げ・Officeソフトの インストールと作業は続くし……。無理を承知で下の息子に一度トライさせてみるかな。

4月13日 ナフコへ
退院した翌日訪問看護師さんに「所長にナフコ(ホームセンター)に行きたいと伝えて」と頼んでおいた、車椅子で移動する 時にいつも僕らを悩ませる車椅子に呼吸器の蛇管をどう固定するかという問題を解決するための部材(考えていたのは カーオーディオ取付用補助金具・ボルト&化粧ナット×2個・ワッシャー数枚)とスイッチ付テーブルタップ×2個を 買いたかったので。すると昨日の車椅子に僕を移乗させた後(2回目午後の訪問看護の時)急に所長が「明日ナフコに 行きませんか?。」と提案、いくつか条件があったが僕にとってはさほど支障のない事すぐさまOKした。
車椅子に載せてもらい外に出ると外は曇り空、顔にポツーリポツーリと雨の滴が当たっていた。条件1:移動に使う自動車は 事業所のリフト付ワゴン、リフトで車内に乗り込む時頭が天井に当たる?、背もたれをもう一段倒して乗り込んだ。 条件2:嫁さんは今回は同行しない、そこで嫁さんから1万円預かって出かけた。
ナフコに着くと乗せてきてもらった訪問看護師さん2人にリフト車から降ろしてもらった。2年振りのナフコは嬉しいし なんだかワクワクしてきた、なんせ昔は暇になるとよくディスカウントストアや家電屋さん・ホームセンターに出没して いたもんな。目指すはテーブルタップのコーナーと自動車用品コーナー、お店の中に入ると色々なものがごちゃごちゃ目に 入ってきて楽しい。まずはテーブルタップ、コーナーなーで色々な種類を見せてもらって各々スイッチ付4コンセントの テーブルタップとACアダプター対応テーブルタップを買う。そして自動車用品コーナーを探しながら色々なコーナーに 連れて行ってもらった。今は自分でテーブルや椅子・棚を作れる部材が買えるコーナーもあるのか(ただの木材じゃなくて ほぞなんかをある程度加工してあるらつや一枚板の天板)、パネルも色々な種類のものがいっぱいあるし、見ているだけでも 楽しい。自動車用品コーナーにはバッテリーやたくさんの芳香剤ばかりで目的のオーディオ取付用補助金具は無かった、 がっかり。ナフコじゃなくてオサダ(ディスカウントストア)に連れて来てもらうべきだったか。最後に文房具コーナーで 強力両面テープを買って会計を済ませ外に出た。外には色々な花や野菜の苗園芸用品がいっぱい、元気だったら……と つい思ってしまう。
そして少しクロウしてリフト車ワゴンに乗り込み帰途につく。帰り道僕が山田神社に立ち寄って欲しいなと 思っていたら…、意思電信ワゴンは国道をそれて山田神社へ至る脇道へ。山田神社は僕が子供の頃時々遊んでいた所だが、 その頃は荒れていた石垣も整備され今では見事な唐船城址としてよみがえっている。春には桜・八重桜・石楠花が咲き 町民のひそかな憩いの場となっている。今は八重桜や石楠花の咲き始め、ワゴン車の中の車椅子に座っている僕の目線は 高いから車窓から外の様子は見え難かった。でも所長が僕の視線を確かめ見づらいと知って後ろのドアを開けてくれたので 石楠花は見えた。ありがたかった。出来る事ならば石楠花が満開になった頃もう一度来てゆっくりしたいな、みんな お弁当持って来ていいからさ、用事がある時はコールするからさ。
訪問看護師さん、今日は本当にお世話になりました、ナフコに連れて来てもらってありがとうございました。それに 嫁さん、単独外出を認めてくれてありがとうね。

4月12日 我が家の子猫?モモ No6
我が家の子猫モモ、退院後最初に対面した時には鼻にもかけない様子で無視、僕の事を覚えているかどうかはもう 分からなかった。もっとも僕を人間とモモが見ているのか、それさえも疑わしいが。
でも今もモモは僕の足元や脚の間でよく寝てくれる。という事はモモは僕を覚えていたという事か。けれどこのひと月で モモは驚くほど大きく重くなっていたので脚の間に寝ていると足が重くて自由に?動かせせなくて足でコールが 押せなくなっていた。嬉しいやら困ったやら。

4月10日 上の息子、高校入学す
今日は上の息子が入る普通高校の入学式の日。息子はもちろんだが嫁さんも入学式に行くのでいつもより早めの7時に 経管栄養を持ってきた。経管栄養の間僕はひと眠りして目が覚めたのは8時過ぎ、まだ息子もいるし嫁さんは掃除中(障子の 向こうの方から掃除機の音がしている)。「おいおい、掃除なんかしてて間に合うのかよ」と一人やきもきする僕。8時半過ぎ 二人は出かけて行った、入学式は9時からと聞いているから何とか間に合うだろうと安堵の僕。
昼過ぎ帰ってきた息子に「入学式どうだった?」と聞くと「眠かった。」と息子。そういえば集会の度にコクコクしていた僕、 不名誉なDNAを受け継いだか。「クラブはどうする?」と「硬式テニスはコートが一面しかなかったしソフトテニスは・・・。」と 息子。37年前僕らが高校生の時はクラブに入らない生徒も大勢いたが今はちょっと事情が違うらしい。僕が今の気持ちを 持ったまま高校時代に戻れるとすれば入るクラブは山岳部かな。そうしたら全然違う高校生活を送っていただろう。 ひょっとしたら彼女がいてクラブ帰り待ち合わせして一緒に帰ったりなんかして。
息子に頼みごとがあったので「今から何する?」と聞くと「勉強、明日テストだからがんばる。」と。今は別にして上の息子は 自分が「勉強」というと僕が喜ぶと思っているらしい。僕はお姉ちゃんの様に充実した高校生活を送って欲しい、高校時代の 内に自分の好きな事を見つけてそれに向かって突き進んで欲しい、と思っているだけだ。

4月8日 家の環境に体調を合わせるのが難しい
病院から戻って来て2日が経った。家と病院とで環境的にどれくらいの違いがあるのかは分からないが、いつもの事ながら 家出の環境に身体が適合するようになるまでに1週間ぐらいかかる、全く情けない話だ。掛け物を工夫してエアコンを様々 調整して・・・それでも肺が寒い、もう桜咲く春なのにねぇ。いつかはこの身体が今の人工呼吸器に慣れる事を期待して。 寝ている時は良いが起きたらだんだん肺が冷えてきてすぐ鼻詰まりする、このポンコツの身体がこの呼吸器に慣れるまで 保つのか?、またまた情けないが自信はないなぁ。

4月6日 退院
今日で退院。流石に4週間の入院は長かったので精神的に疲れた。けれどこの病棟(筋ジストロフィー・神経難病病棟)では 退院者は珍しいのでたくさんの看護師さんや介護員さんが「また来てね。」と顔を見せに来てくれたので嬉しかった。
午後2時前お迎えの訪問看護師さんが懐かしの顔を見せた。そこで僕は訪問看護師さんに「車椅子で行きたい」と告げた、 今回の入院中の車椅子への移乗は立ってから移乗させてもらっていたから(もちろん首と足に装具を着けての上でたが) 車椅子で玄関まで移動していく自信はあった。そして玄関で病棟の看護師さんたちに見送られながら車椅子から自動車の 助手席に乗り換えさせてもらい家路についた。
病院の桜も車窓から見える桜ももう満開、紅梅も白梅も満開、不可思議な風景だった。僕のもうひとつの関心事県境の峠の 道は繋がった?、道は見上げるほど真っ直ぐに伸びていた・・・がまだ繋がってはいなかった。いつまでかかるのかな。 我が町に入ると炎の博公園・龍門・中央公園と桜の名所を巡ってもらいお寺と神社の横を通り我が家に着いた。我が家では お袋と上の息子が出迎えてくれた。ひと月ぶりの我が家・・・。


[2012年の先頭に戻る]



3月
3月9〜4月6日 レスパイト入院
今回の入院も最初はいつもの神経難病病棟、途中から筋ジス・神経難病病棟(滞在型)に移るらしい。病室はいつもの所、 ただしベッドは前に僕が言った「ベッドの場所は僕は出入口に近い方がいい」という言葉をこの病棟の看護師長が覚えていて 窓際ではなく出入口に近い所に僕用のベッドを据えてくれていた。その看護師帳から「筋ジス病棟に移るのは22日です。」と 最初に告げられた。入院期間は嫁さんからは当初息子の高校の入学式が終わる5週間を期待されていたのだが、 「ひと月以上はあまりにも長過ぎる」と嫁さんに直訴して4週間にしてもらった。嫁さんが前もってそう連携室に 連絡しておいたはずなのに病棟の看護師長には伝わっていなかった。
入院した日、たくさんの看護師さん達から「いらっしゃい。」と挨拶してくれた。だがその中にN.H看護師が見えなかった。 不思議に思ってなじみのY看護師に「移動があったの?」と聞くと「HさんとSさんとSさんが代わった。」と、なるほど この病棟の古株(といってもこの病院に入って確かまだ6年だと思うが)3人が代わったのか、さすがに病院というのは 移動が早い。でも・・・、新しく顔なじみが増える分だけ古いなじみがいなくなってゆく、寂しいし心細い。
神経難病病棟で4日目にいつも通り血液・胸部レントゲン・心電図の検査を受けたあとの5日目、朝から僕のいる病室が 慌しくなった。初めの計画ではいつも入院している神経難病病棟に2週間+筋ジス病棟に2週間だったのだが、この冬の 寒波が長期に居座り続けたためか急遽入院する人が増え病院中の病床が満杯となり僕ともう一人の患者さんが ところてん式に症状が安定している順に追い出され?筋ジス病棟に移った。病棟を移る事は主治医から入院前に前もって 聞かされていた視神経難病病棟でも初日看護師腸から伝えられていたから覚悟していたが、これほど急にまたこれほど早く きた事には面食らった。
筋ジス病棟では一人部屋、オーバーテーブルの下の梁部分に貼り付けてもらったナースコールに?がっているスイッチを 足で蹴ったらスタッフは来る、逆に足でスイッチを蹴れなければいつまでも誰も来ない。だから・・・「僕は大部屋が好き」と 筋ジス病棟の看護師長に伝えると「空きが出来たら移る様にしましょう。」と言ってもらった。筋ジス病棟は過去何度も 入院した事もあり去年の8月も3週間入院していたので顔見知りの看護師さんも介護人さんも多く人見知り?という点では 大丈夫なのだが生活パターンがかなり違うので精神的に苦痛でだった、なんせ夜9時には消灯そして朝5時には 動き出すのだから。僕がテレビを楽しむのは夜8時過ぎからだから夜9時消灯はかなり辛いものがあった。ただ看護師長に 「この病棟では人工呼吸器装着者は生態モニターを着けるという決まりがあるから着けて。」と言われても初めは着ける事に 抵抗があったが、慣れてくると一人部屋でたとえ何かあっても生態モニターのアラームが鳴るからという安堵感が出てきて 一人部屋でも少し安心してきた。もうひとつ一人部屋の良いところは9時の消灯の決まりに縛られなくてもいい事、これで テレビを11時まで楽しむ事が出来た。
筋ジス病棟に移った翌日内視鏡室で胃ろうを交換、いつもの事ながら胃ろう交換の後の確認のための胃カメラは辛い。もう 口が大きくは開かないから鼻のアナの穴からの細い方の胃カメラなのだが、それでも5年半食べ物を口にしていない僕の 食道にはこの細い胃カメラでも結構痛かった。そして次の日曜日病棟で急患者が出て四人部屋へ移った。四人部屋では当然 病棟の決まりが適用される、僕の夜が更に2時間長くなってしまった。退院の前の週人工呼吸器の蛇管を閉鎖式に 替えてもらっ手ピープを0にしてもらった、これで息を思い切り吐き切る事が出来る様になり肺がすっきりする様になった。 ただ肺に入る量が多過ぎると感じる様になってきたので数日後主治医に吸気圧を調整してもらった、もうこれで満足せねば なるまい。
今回の入院では嫁さんが「車椅子に座らせる時に脚にも装具を着けて立たせてから座らせてください。」と頼んでくれて、 筋ジス病棟のスタッフのみんなもそうしてくれたので4週間の入院でもさほど膝が弱らずに済んだ様だ。それに入院して 2週間は筋ジス病棟でもレスパイト期間という事で主治医がリハビリを支持してくれたのでラッキーだった(筋ジス病棟では リハビリは受けられない規則)。もうひとつ、今回再度もう一度意思伝達装置を申請しようとしているので(前回 申請したのは9年前)リハビリのU先生と色々打ち合わせをする事が出来て幸いだった。
今回筋ジス病棟には24日間入院していた。筋ジス病棟は確かに顔を見知っているスタッフは十数人いたが、僕がこの病棟で 何とか過ごしていけたのは数年前まで神経難病病棟にいた旧姓S看護師とこの3月神経難病病病棟から移動してきていた S看護師がいてくれた事だ。この2人がいてくれた事であまり寂しい思いをせずにすんだ。筋ジス病棟の皆さん お世話になりました。

3月9日 上の息子中学を卒業す
今日は上の息子の中学の卒業式、三年間勉強とクラブを両立、よく頑張った。
特に2年になってからは朝6時半頃には毎日家を出て行く。こんなに早く学校に行っていったい何をしているのかと僕は常に 思っていたが3年の下期になって担任の先生が教えてくれた、朝クラスに友達が集まって勉強しあっていると。そんな中で 上の息子は自分の勉強の仕方を見つけた様だ。喜ばしい事、嬉しかった。
訪問看護師さんたちが僕の入院準備を終わろうとしている時に上の息子が卒業式から帰ってきた。僕が「(卒業式は) どうだった?」と聞くと「まあまあ良かったよ。」と答えた上ですぐに着替えてから「これから(地区の)謝恩会(?)があるから 行くね。時間が出来たら(病院に)会いに行くからね。」と(本心かどうかは分からないが)優しい言葉をかけて出かけて 行った。
これから息子は普通高校へ進む。これからの高校生活3年間で自分の進む道を見つけてくれる事を僕は望む。

3月8日 入院前日
明日から入院だというのに何も出来ていない。だから今日は朝から焦りまくりだ。
確か1年ぐらい前バックアップを取った記憶があるから、とりあえず2011年以降作った文書とメールデータ・その他を バックアップ、次にホームページを更新しなければならないのだが・・・、僕の雑記帳は3月1日までしか書けていない。今から 雑記帳どこまで書けるかなぁ。とりあえずやってみよう。

3月6日 散髪
今日訪問リハビリが終わってから久々(半年振りかな)に床屋さんに来てもらった。床屋さんはいつものリリアンのお二人、 「まだこの時期だからあまり寒くならない様にしましょうね。」と言いながら髪を切ってくれた。そうして30分も 経たないうちに切り終わった。まあどういう髪型になったかは自分では見えないけれど、昼過ぎにお風呂に入れに 来てくれたスタッフのお嬢様方から笑いは全くこぼれる事はなかったからまあまともなのだろう。これで髪の毛が目に 入らなくなったしすっきりした。入院前に散髪出来て良かった、風邪引かなきゃいいけど・・・。

3月5日 昔の仲間って良いなぁ!
困った時につい昔の中に頼ってしまう。今回は娘の事で昔の仕事仲間に泣きついてしまった。そして久方振りに 連絡したにもかかわらず仲間が快く手助けしてくれた。本当にありがたい事だ。
昔の仲間のありがたさを改めて再確認した。やっぱり昔の仲間って本当に良いなぁ!。

3月1日 娘、高校卒業す
経で娘も高校を卒業する。娘にとって高校時代はとても楽しく有意義な時間だった様だ、羨ましい事だ。
娘は高校に入って色々な方面でよく努力していたと僕は思う(父親としては感心している)、勉強の面もいうまでもないが 文科系のクラブをいくつか掛け持ちしていずれも楽しんでいたし僕が気にもかけてもいなかった生徒会活動も3年間真面目に 続けた。それに何よりも高校の3年間で将来の夢を見つけそれに向かって走り始めているのがすごい。何ら目標がないまま 大学へ行った僕とは大違いだ。親馬鹿だけど・・・娘は本当にすごい、と思う。
ちょっと気になる事は食べる苦労を知らないって事。一人暮らしは大丈夫かな?。僕の長かった独身時代に作っていた 食事の作り方を時々娘にメールしようかな。


[2012年の先頭に戻る]



2月
2月28日 我が家の子猫モモ No5
我が家の子猫モモ、数日前から僕の脚の間やまた足元で寝る様になった。きっかけはモモがベッドからいつも寝ている 毛布付きの台に飛び移ろうとして毛布もろ共落ちてから。モモは台の毛布の上でもよく寝ているから台を怖がっている 訳ではなかろう。でも夜寝ているといつの間にか脚の間にもぐりこんでくる。可愛い奴だ!。
僕は右足の裏でコールを押す。だから脚の間にモモが寝ていると右足が動かし辛いからコールが押し辛くなる。そんな リスクを犯してもモモが脚の間寝ていてくれる方が嬉しい。しかし入院明けのひと月後モモはどう接してくれるかな。

2月27日 レスパイト決まる
夕方川棚病院から電話がかかってきた。どうやら今日の病院でのレスパイト会議において僕のレスパイト入院の日程が 決まった様だ。
夜の経管栄養の時嫁さんからレスパイト入院の日程を告げられた、「3月9日から4月10日過ぎまで。」と。嫁さんは実家の お母さんの体調が悪く入院していたが僕の入院と入れ替わりに退院してくるので僕が入院した後はお母さんの看護や介護で 実家に通わなければならなくなる。その上娘の大学説明会・息子の中学の卒業式・娘の引越し・娘の大学の入学式・息子の 高校の入学式と続くから一人でてんてこ舞いする事になる。もし僕が元気だったら子供達の食事や引越など力仕事ぐらいは 僕が担当出来るはずなのに、申し訳ない。だから時期には僕には入院しておいて欲しいという事らしい。嫁さんの気持ちも 苦労するだろう事はよくよく分かる。
しかしそれにしても5週間とはあまりにも長すぎる。それで「こんなに長いともう立てなくなる」と泣きつくと、「立たせに 来るから。」と。僕が「誰が?・どうやって?」と聞くと「私が。」。嫁さんが僕を立たせる事が出来るとは僕には思えない、 立たせるのに慣れているはずの訪問看護師さんだって僕を2人で立たせているっていうのに。僕の想いを伝えると、 「それなら病院の看護師さんたちに立たせてもらうから。」と嫁さんが提案、「主治医は元々僕が立つのに反対だから病院では 立たせてはくれないよ」と僕。「そうね、危険だからね。」と納得顔の嫁さん。
嫁さんは多分僕が「立てない」っていう意味を理解してはいないと思う。立てないっていう事は訪問看護師さん達も2人で僕を 車椅子に座らせる事が出来ないって事、すなわちずっとベッドの上に寝ている、完全に寝たきりになるって事と イコールって事だ。嫁さんが「1週間だけでも短くしよう。」といってくれたが退院した後立てるかどうか不安!?。

2月25日 研修会へ参加
今日佐賀市内で行われたコミュニケーションの研修会に参加してきた。久々の通院以外の外出それも5時間以上という 長時間の外出でお尻も右脚も腰も痛くてたまらなかった。以前は我が家の自動車にこのくらい(片道1時間半)乗っていても どうって事はなかったのに。やはり膝だけでなく体幹もかなり弱ってきてる、と自覚した。
会場の会館は駅の北西すぐの所と聞いていたので分かりやすい所だと思っといたが、佐賀市内は相変わらずひとつ裏に 入ると細い道ばかり、右脚が痛いのと受付時間が迫っていたので焦ってしまった。同行してくれた2人の訪問看護師さんに 車椅子に座り直させてもらって人心地、会場はただっ広くって寒かった。これだけ広い会場を借りて・・・人集めの自信が あるのか、と皮肉がひとつ心に浮かんだ。
研修会が始まった。まずは川棚病院の作業療法士U先生のコミュニケーションに関する講演、この講演の内容の大切さを ここにいる人の中津でどれくらいが分かっているのだろうか。「自分では(スイッチが反応するほど)動いていないと 思っていても実際には動いていてスイッチの種類・構造と工夫次第で使える場合がある。要は(本人やサポートする側が) それを見つける努力しているかどうか。」だという事、そのためにはサポートする側にどんな種類のスイッチがあるのか それなりの知識が必要。」。
次の講演は佐賀大学医学部の神経内科の先生による「胃ろうを作るタイミングについて」。「胃ろうは呼吸に少しでも異常が 出てきたらその時点で作る」という今考えればすごくもっともな話、でも僕はとことんまで引き伸ばしてしまった。 その結果胃ろうを作ってひと月半で呼吸不全に陥り気管切開、その3ヶ月前に入院した時に主治医からの提案に従っていれば もしかして・・・。講演の後の質疑応答で胃ろうには関係ないが嫁さんに「我が保健所の管内はALS患者が異常に多いのですが どうしてだと思われますか?。」と質問してもらった。答を期待している訳じゃない、ただ県庁職員や大学の先生に少しでも 僕の住んでいる地域を意識してもらいたかっただけだ。
そして次は驚いた事に患者・家族の会が始まった。まずは患者の自己紹介、患者の野参加者はわずかに3人、あとは数組の 患者の関係者。嬉しかったのは集まりの中に宮崎のTさんがいた事、何年ぶりかにTさんに会えて本当に嬉しかった。 それからフリートーク、ALS患者の看護・介護に関わっている人達が僕ら経験者?に色々質問していく、いつものパターン。 経の講演会に同行してくれた娘はこの患者・家族の会の方が講演より面白いというが僕は最近の患者・家族の会に参加しても 新しいor興味のある情報は得られない、僕の関心事は「出来るだけ早い時期に声を録音しておいた方が良い」とみんなに 伝える事だけ。僕が声を録音しておこうと思い立ったのは職場を離れてすぐに新しいノートパソコンと中古のパソコンを 買った際に中古のパソコンにおいてマイク無しで簡単に録音出来る事に気付いた時、でも遅かった!!、低い声しか出ない・ 濁った声しか出ない・長くは続かなかった、あと半年早かったら!、残念な事をしたとしか言いようがなかった。 この無念さはあまり同類に味わって欲しくはない、だから・・・。訪問看護師さんに伝えてTさん経由で言ってもらった。
4時になり患者・家族の会は終わりの時間になり会場内の別の場所で他のミーティングが始まった。しかしみんな 名残惜しそう、で、患者・家族の会は居残り希望者だけで継続。なるほど、たくさんの会議を同日・同じ会場に集める事に よって参加者の人数稼ぎか、うまい方法だ。でも逆にそうでもしないと佐賀県では講演会だけ・患者・家族の会だけでは人は 集めきれないって事か。そういえば患者・家族の会の会長さんが挨拶で言ってたな、「私はALS患者・家族の会には患者の方に 無理やり出席してもらおうと思ってはいない。まだあまり症状が進行していない患者さんが人工呼吸器を着けている 患者さんに合うと大きなショックを受ける。会に参加した事で自分の将来を悲観するかもしれない。そういう患者さんを 精神的にバックアップする体制が必要だが難しい。そのバックアップ体制が整っていない患者さんはこの会に出席する 必要はないと思う。」と。そういう考え方も確かにあるとは思うがその結果今年度のALS患者・家族の会における患者の 出席者は会長さんの他は呼吸器を着けた者2名。僕も始めてALS協会福岡県支部総会に参加した時呼吸器を着けている方々を 見て大きな衝撃を受けた、人工呼吸器を着けていてもこんなに活動している人たちがいるんだと。もし今の会長さんが 佐賀県のALS患者・家族の会9の発展を望むなら、まず会長が自らの言葉で会への参加や総会への出席を呼びかける(出来れば 直接メールや郵送で)、次に県庁(古川知事もメールで巻き込む?)や保健所と市役所や役場の保健担当・大学病院や県病院や 独立法人機構病院や神経内科を掲げる病院ならびに医師会と看護協会・佐賀大学医学部看護学部や西九州大学の リハビリテーション科等多くの組織を巻き込むべきだと僕は思う。
患者・家族の会の懇談はまだ続いていたがもう4時半を過ぎ帰らねばならない時間、娘はまだ名残惜しそうだったが講演会の 主催者の人たちの見送りを受けながら帰途につく。帰り道は高速道路を使用、長崎道を佐賀大和IC−武雄JCTへそして 西九州道を有田まで走る。久しぶりの高速走行、車窓を流れる風景が懐かしかった。5時半前家に到着、今回も講演会に 同行してくれた訪問看護師さんたちに急いでベッドへと移乗させてもらった。久しぶりに長時間にわたる座位の保持で脚も お尻も痛くてたまらなかった。でもその分価値のある外出だった。
今回も訪問看護師さんの力を借りて久しぶりに外出出来た。訪問看護師さんにも嫁さんにも外出させてくれた事に感謝!。 でも僕の外出、訪問看護師さんに頼りっぱなし・・・ってのは嫌だな。

2月24日 通院日
久し振りに暖かいいい天気、今日は通院日。県境の拡幅工事現場は田んぼを潰して盛り土をして道路沿いの木々をいっぱい 切って、もう1ヶ月もしたらストレートラインで繋がりそうだ。
病院での主治医による診察と処置も終わりかえり際外来で僕を受け持ってくれていた看護師さんから「3月の初めで産休に はいりますからお世話できるのも今日で最後になります。」と告げられた。見た感じがお腹が出ている様には全然 見えなかったからとても驚いた。折角僕の色々なしぐさになれてもらっていたのに残念だし寂しい。どうか元気な 赤ちゃんを産んでください。

2月22日 また世界史の勉強を始めた
1週間ほど前から朝方パソコンをする時間にまた世界史を勉強する事にした。何から始めようか迷ったが今年の センター試験をやってみてあのひどい成績を振り返って、まず全然言葉すら知らない事が多かった中国史から やってみようと考えた。そして秦と漢(後漢)の途中まで終わったところでセンター試験で知らない言葉だった「半両銭」 「均輸・平準法」が出てきた。
世界史を勉強していると色々と新しい知識が身について面白い。こんな感覚は高校時代には全く味わった事はなかった。 あの頃は覚えなくてはならないという意識が強すぎて学んでて面白いという感覚を味わう余裕は無かった。それに社会で 同じ100点という配点なのに何故2年間学ぶ知識の量を覚えなければならないとは損ではないかと思って2年の途中で早々と 諦めて3年で学ぶ日本史を大学入試で選択しようと決めた。おかげで世界史の知識は全然身につかなかった。そこでもう一度 世界史を学んでみようと思ったって沸け。そしてNHK高校講座世界史を中心に1年半学んで今年のセンター試験の世界史Bを やってみて散々の成績で、今一度不足分を補おうと決めた。。

2月20日 我が家の子猫モモ No3
我が家の子猫モモ、この頃モモのさかりの行動はもうなくなった様だ。でもモモは昼間は僕の部屋の毛布が置かれた台の 上でくつろいでいてもう僕の傍には全然寄り付かなくなったし僕のベッドに登ってくる事もなくなった、パソコンを している僕の邪魔しに来てキーボードの上に乗っかってくつろぐ時以外は、本当に本当に残念だけど。
やっぱり僕が心の中でいくら「モモ」と呼びかけていくら愛らしく思っても、腕の中にモモを抱っこしたり頭を なでなでしてる子供たちにはかなわない。寂しいしむなしいね、やっぱり。

2月18日 また雪が・・・
今日もまた寒い、またまた雪が降ってきた。間、今回は積もりそうなほど吹雪いてはいないし降ってもいないけれど。 いったいいつになったら暖かくなるのかな、20年前ならこの時期に雪が降ったと聞けばスキーにいけると 大喜びしていたのだけれど(その頃は建国記念日まで広島芸北に雪が残っていたらいい方だったが)。嗚呼、桜の季節が 待ち遠しいなあ。

2月17日 往診日
今日は我が家のかかりつけ医をやってくださっているT先生の往診日、嫁さんが先週の主治医からの(病院に来るのは 2-3ヶ月に一度のレスパイト入院だけにして普段はかかりつけ医の先生に診ていただいたらという)提案を紹介すると、 「最近は往診の患者さんも多くなってきましたしそこまでは難しいですね。せめてひと月に一度は主治医に診ていただいて 薬などを処方してもらったらいかがですか。」とのT先生からの逆提案。
僕としても月に一度の通院ならせめて月に一度は気晴らしの外出も出来るしそのほうがいいのだが。

2月15日 入浴日
今日の昼からは入浴車サービスの日。最近は寒いからそれとも僕の体調調整能力がさらに低下したからかなのか、浴槽から 上がって1時間ほどすると肺から身体の上半身が冷えてきて寒くてたまらなくなるんだ。それが浴槽から上がって着替えを してもらってから30分以内に胸の毛布の上に使い捨てカイロを張ってもらったらあまり寒さを感じない様になった。 これでひとつ解決、かな?。

2月13日 高校入試数学の問題
今日から高校入試特別選抜試験の数学に取り組むつもり。一昨日娘に新聞に掲載されたしけ問題の数学の部分を スキャンしてもらっていた。それを今朝眺めてみたがそう難しいものではないなというのが一瞥の感想だった。そこで 難しそうなのを3設問チョイスして昼から取り組んでみると、1次関数・2次関数とそれに図形を組み合わせた問題が以外に 難解だった。後で気付いたのだが、初めにやり方を違えると複雑な計算をせざるを得ない仕組みになっていた。最初は 違ったやり方をして複雑な計算に落ち込んで「こんな問題はありえない」と腹が立ったが、押し隠された仕掛けに気付いて 「これは受験生の数学の発想力レベルを調べるには的確な問題だ」と感心させられた。

2月11日 建国記念日・2012センター試験 数学U・数学Bようやく終わる
今年のセンター試験の数学U・数学Bが今日ようやく終わった。数UBでも必須問題の三角関数のラジアンで大いに 迷ってしまった。三角関数のラジアンで計算途中でsinとcosを頭の中で混同・混乱している事に気付かされ(出した答の 桁数が解答欄の桁数と違っていた)再考を余儀なくされ、ここの設問でかなりの時間を費やしてしまった(この設問は得点に 入れられませんな、偶然答の合った3つ以外は)。ここで10点以上損したな。
それに選択問題の統計の設問では相関関数の値と中央値という言葉そのものを知らなかったから答えを出す事はもちろん 出来なかった(中央値の方は最初の考え方=母数のど真ん中に位置する標本の値が正しかったのだが範囲の中央と考え直し 間違った答を書いてしまった)し凡ミスもしてしまった。
また同じく選択問題のプログラムの設問は苦手意識からか始めから問題の意図を読み間違えそれに凡ミスまでしてしまい 採点したら8点も失った。プログラムの勉強は大学1年の前期フォートランという言語を半年間学んだだけだもんな、設問の プログラム言語もフォートランとは違ったから時々推察する事も必要だったし。
数TAも数UBも90点以上取るつもりだったが採点してみると数TAが78点・数UBが87点、凡ミスもいくつもあったし 自分としては不満足な結果だ。もう一度集合と三角関数のラジアンを勉強し直しだ。

2月10日 通院日
通院日、今日も県境の道路拡幅工事現場の横を通ったら田んぼの中に盛り土されている道路がかなり出来上がっていた。 あと2-3月もすれば拡幅工事も完成し県境の道路と繋がるだろう。本当に寂しいしむなしいものだ。
病院に着いて30分ほど待ったら(今日は患者さんが多いとの事)主治医がやって来て診察と処置をしながら「(諸々の 理由から)今後もう通院は止めにして普段はかかりつけの先生に往診してもらって病院へは2ヶ月に一度か3ヶ月に一度 レスパイト入院だけ着たらどうですか?。」との突飛な提案を受けた。これはALS支援システムを全然やろうと してないという事に対する戒めかなと一瞬は思ったが、そうではない様だ。そうなれば外出の機会も減るし・・・、 寂しいな!。

2月8日 うちの子猫モモNo.2
我が家の子猫のモモ、さかりがつくまではベッドの上の僕の左足の横で夜な夜な自分から寝に来ていたのに、さかりが ついてからは嫁さんがモモを僕の部屋に連れて来てベッドの僕の足元に寝せてもベッドから降りてゆき部屋の隅の台の上 (毛布付き)に行き寝てしまう。さかりがついてモモの中で何かが変わった、どうしたのかな?。
僕はモモを抱っこする事も頭や体をなでてやる事も出来ない。足元にモモが寝ていてくれて時々脚にじゃれ付いてくれたら 少しは楽しい気になってきたのだが。でもモモにさかりがついてそれもなくなった。本当に寂しいしむなしいものだ。

2月6日 呟き
みんなに「感謝しなさい。」と言われ続けながら生きていくのに疲れました。家族に甚大に我慢し続けてもらうか家族と 離れて暮らすという離別しか現時の選択肢がないところが本当に辛いですね。

2月5日 子猫のモモがさかりがついた
うちの猫、子猫でまだ生まれて3ヶ月ぐらいのはずなのにもうさかりがついたみたいだ。床の上で突然ゴロゴロし始めるし 顔を低くして攻撃を仕掛ける様な姿勢をとるしたまに「ギャアーギャアー」と発情期特有の奇妙な泣き声を上げている。 僕も嫁さんもこんな子猫なのにまさか…とは思ったが、嫁さんがモモにマタタビを食べさせたら少し落ち着いたというし (発情期の猫とマタタビとにどんな関係があるか全く知りはしないが)どうやら間違いなくさかりがついている様だ。
まだ幼い子猫が子供を生んでどうするんだ!、ということでしばらくの間うちの子猫モモを絶対外へは出さない様にする 事にした、さかりのついたオス猫どもに襲われない様に。モモよ、しばらくは我慢してくれよ!。

2月2日 この冬一番の冷え込み
天気予報によると今日はこの冬一番の冷え込みとの事、どうりで底冷えがするほど寒いはずだ。昼からは雪が降ってきた、 大雪そして吹雪。今日は珍しく顔がかなり窓の方を向いていて久し振りに外の様子が見えた。外は吹雪、みるみる真っ白に なってきて庭の梅や南天の木々・枝々や向こうに見える屋根に数cmもの雪が積もってきた。子供の頃も大人になってからも 昔は雪が降ってくるとワクワクしたものだが、今は・・・何も出来ない事を思い知らされて・・・寂しい限りだ。
この雪で昼からの訪問看護は来れないと連絡が入った。雪国に住んでいる人間ならばこんな数cmの雪はどうって事 ないのだろうが雪に不慣れで(自動車に)スタットレスタイヤもはかせていない我々はすぐに動けなくなってしまう、僕も 17年前嫁さんと一緒に娘の1歳の誕生祝で田舎に帰ろうとして前日は小雪で今日の天気予報も雪の中を強行突破して結局 雪で立ち往生した事があった。だからこの突然の大雪で訪問看護師さんが来れなくなっていつもの日課である車椅子に 座れなくなった、寂しいが仕方ない事だ。身体も寒くて少し震え気味だったから、座れなかったけどまあいいか。


[2012年の先頭に戻る]



1月
1月30日 センター試験 数学T・数学Aは終わった
今日の夕方ようやく今年のセンター試験の数学T・数学Aが終わった。結局集合で迷ってしまいまた2次関数の問題の後半で 考え違いをして、出した答の桁数が解答欄の桁数と違っていたからもう一度考え直して答を導き出した。そのためかなり 余計な時間を使ってしまった。だから後半の得点はとても点数には入れられない。15点は失った、あ〜あ。
本来ならばすぐに採点をしなければならないのだが面倒くさいのと早く数学U・数学Bに取り掛かりたかったので採点は 後回し、まあ僕の場合は答が合っているかどうかよりも解き方が合っているかが問題だから採点はいつでも いいのだけれどね。また明日から数UB 頑張ろう。

1月29日 嫁さん体調不良
この数日嫁さんはかなり体調が悪そうだ、かなり心配!。4月からの娘の生活の諸々の準備など色々な心配事が嫁さんの 体力を蝕んでいるのかもしれない。
今夜の嫁さんはかなりしんどいようで夜の経管栄養の時も顔も見せなかったほどだ(こんな事は始めてかも)。代わりに 娘が経管栄養も胃ロウに繋いでくれたし夜中用の掛け布団への交換も寝る前の最後の吸引も娘がやってくれた、諸々を やるのは初めてだったからある程度の細かい指示が必要だったけど。今回は子供たちがみんな協力して色々な事を やってくれたけどやっぱり嫁さんが体調を崩すと家の中が途端に麻痺してしまう。嫁さんを何とか休ませてやりたいが 僕には何も出来ない、早く寝る事ぐらいしか。申し訳ない。

1月27日 通院日
今日は通院日、リフト車に乗り込んで県道167号線で県境の峠を越えると拡幅工事中の道に入る。2週間前までどんな風に 峠と繋がるか見えなかった道が今週ついに(完成後の道が)見えた。今までは直角に近い角度で左右にS字(卍?) カーブしていた道が墓場の後ろ・林の中を通り極めて緩やかなS字カーブで繋がる様だ、いくつかの田んぼを壊し小さな家を 道の間に閉じ込めて。
リフト車の中からはやけに田んぼが気にかかって目に付きやがる。
秒に突き主事から再度また「やはり支援システムは無理ですか?。」と尋ねた。それに対し嫁さんは「今センター試験の数学に 夢中だから。」と僕の心情と異なる事を言う、「そうではないのにな!」「支援システムをやる意味に対して心の中の疑問が 消えないだけなのにな」と僕は心の中で思った。診察・処置も無事終わり2週間後の通院の予約をして病院をあとにした。
今日も外は寒かったなあ。

1月25日 センター試験 数学T・数学Aを始める
今日から気を取り直してセンター試験 数学T・数学Aに挑戦、まあ世界史で娘に笑われたから汚名返上って気持ちもどこかに あるけど。
第1問は数Tの基本的な問題、一次不等式と集合、集合は去年のセンター試験にも出てた(毎年出てるのか−不安!)。今年は 集合の問題が4問も出た。集合は苦手だ。特に必要条件・十分条件が未だに理解出来ていない、去年もう一度覚え直した はずなのに。今年もまた集合で点数を落とした。センター試験を解き終わり答え合わせが終わったら、必要条件・十分条件を もう一度きっちりと覚えなおさなければいけないな!。
数学は相変わらず解いてやり方や式・答を(いちいち)入力するのに時間がかかる。今日も第1設問を解くのに早朝・昼に 5時間もかかった、基本的で比較的簡単な問題なのに、それに集合の問題は頭の中で想像を膨らませ答を書くだけなのに (入力する時間は全然要らないのに)。こんな調子なら数学T・数学Aを解き終わるのにいつまでかかる事やら。

1月24日 上の息子にスイッチ系統を直してもらった
今日の朝上の息子が「行ってきます。」と挨拶に来た時に「すまんが今日学校から帰ったらスイッチを直してくれないか?」と 頼んだ、昨日は勉強中との事で話せなかったが。
学校から帰ってきた息子に早速スイッチを託した。流石に上の息子で僕がこのピルケーススイッチを使い始めた時から ずっと付き合ってくれて調整していてくれたので文字盤で告げる僕の意図をすぐに理解してくれて(ピルケースを 広げるための)スポンジの調整にすぐに取り掛かってピルケーススイッチの新しいのを作ってくれた。ところがこの新しい スイッチを繋いでもパソコンの動作は安定しなかった。そこで試しにミニジャックの延長コードを外してみたらパソコンの 動きが安定した。どうやらこの延長コードが断線しかかっている様だ。この延長コードももう5年以上使っているのだから 悪くなっても仕方ない。さて新しいミニジャックのモノラル延長コードを早く買わなければいけないな、他のパーツを 守るためにも。
また上の息子に感謝!。

1月23日 スイッチの調子がなんだかおかしい?
1週間ぐらい前からパソコン操作用のオペレートナビに繋いでいるスイッチの調子が何となくおかしくて、何もしてないのに 急に反応しなくなるのだ。スイッチを挿し直してもらうと大体の場合直るから、恐らくスイッチコードのどこか(モノラル ミニジャック延長コードを含めて)が断線しかかって僕の呼吸の振動で切れてしまうのではないかと推測した。
でも身動きも出来ない・言葉も発せない僕がこの推測を誰かに伝えるのは難しい。スイッチの構造が分かっているのは上の 息子だが、受験生だから気が引ける。下の息子に直して欲しいが、僕が(ピルケース)スイッチをはさんで使っている右足の 親指と人差し指の状態やスイッチへの工夫・僕の推測に対する対処の仕方を文字盤で伝えようとしても面倒が嫌いな下の 息子は話も聞こうとせずに「兄ちゃんを呼んでくる。」と言ってこの場を避ける 可能性が高い。パソコンは僕の暇つぶしの手段であり日々の唯一?の楽しみ、(我がままだけど僕にとっては)背に腹は 代えられない、上の息子にまた助けてもらおう。


1月21日 センター試験世界史Bをやってみたら…
センター試験の世界史Bの問題をやってみた。まず解答用紙を200問分(マークシートだからエクセルで設問ひとつに答を20個 書ける幅にして設問Tから設問]まで書けるように解答欄を10段縦に並べた)作り問題にあたったのたが、問題は意外に 少なくわずか36問、100問ぐらい最低でも50問はあると思っていたのに。
答え合わせした結果は散々だった。26点、見た事のない言葉も結構あったし第二次世界大戦後の問題(まだ学習していない 不文)いくつかあったがミス・読み間違い・忘れたりもしてた。十二分にうまくいけば50点オーバーは不可能ではない 問題だったのに出題の傾向にも不慣れ過ぎた(何故ここでこんな問いかけをするの?って疑問を感じる様な問題もいくつか あった)、不覚!。娘に言ったら「それはひどいよ。」って大笑いされた、自信喪失。やっぱりNHK高校講座世界史ベースじゃ ダメだな、インターネットで内容をかなり補足していたのだが教科書レベルにはほど遠かった。それにしても1/4しか とれないとは初めての経験だから、ショック大!。
まあ世界史の流れは大体つかめたし娘とは曲りなりに世界史談義は出来るし・・・、それで今のところは良しと しておくかなぁ。
結論:僕のやっていたNHK高校講座世界史ベースではセンター試験世界史Bで得点を上げるのはほぼ不可能。中世までは HP 世界史年表の内容で補っていたが センター試験の世界史にはかなり内容不足(世界史の流れをつかむには丁度良い一覧表だし内容なのだが)、ルネサンス 以降はHP 世界史講義録を活用してきたがそれでも センター試験世界史挑戦にはやや不足かな。
さて世界史の学習、どうやって立て直すかな。それとも諦めるかなあ。

1月19日 ようやく南アジアの独立まで終わった
今日ようやく世界史の南アジアの独立までの学習が終わった。これでようやく自分の中でセンター試験世界史への挑戦権が 出来た。
僕は今までインドの独立といえばガンジーしか知らなかったが、今回学習した内容で色々な事を学んだ。南アジアの 独立にはガンジー・ネルー/ジンナー/マウント・バッテンの4人が関わっている事・ガンジーが世界中であれほど尊敬の念を 集めている理由・インドと東西パキスタンが分離独立になった理由・カシミール問題が発生した理由・ バングラディシュという国家が生まれた理由などを。今回も色々な新しい発見があった。こんな新しい発見があるからこそ 世界史も止められないのだ。

1月17日 我が家の猫は?
三毛の子猫が我が家の一員になって、先週の金曜から嫁さんが掃除機を掛ける時に僕のベッドに連れてくる様になった。 多分嫁さんの掛ける掃除機のうなる音に驚いて部屋の中を逃げ回っていたからか掃除機にじゃれ付き追い回して 困ったからだろう。(僕は見れないが)可愛い奴め!。
僕のベッドに連れてこられた子猫(首に青いリボンと鈴を付けて名前はモモ)は僕の足元で自分専用の黄色い毛布の上で 伸びをしたり丸まって眠ったりとおとなしい。朝のケアで訪問看護師さんやヘルパーさんが来てもモモのマイペース振りは 変わらずゆったりと思い思いの格好でくつろいでいる。僕のケアの邪魔をする事も全然ないからみんなに可愛がられて (モモは「あたいの身体をあんまりいじらないで」って言っているかも)。
午後3時〜5時モモはもう寝るのにも飽きて僕の部屋を出て行く。すると早速障子の向こうからモモの走り回る音が 聞こえてきた。僕の部屋では案外おとなしいが、嫁さんに言わせるとモモはずい分やんちゃな様だ。なあモモよ、我が家が みんな猫好きで良かったなあ、いい家に迷い込んだな。

1月15日 センター試験
昨日今日と今年のセンター試験、娘は佐賀大学でセンター試験を頑張って取り組んでいるだろう。
午後5時過ぎインターネットで「センター試験」を検索してみたら、センター試験の各教科毎の解答も問題も解説ももう 合った。早速「世界史B」「数学T・A」「数学U・B」をダウンロードし保存した。これで今年のセンター試験の数学と世界史は いつでも出来る。でも情けない話だが、世界史は自分が目標としている「南アジアの独立」までの学習がまだ 終わっていない。頑張ろう、いや頑張らねば。

1月13日 通院日
退院してから3週間が経った、今日は通院日。訪問看護師さんたちに車椅子に移乗してもらっていつもより多めに掛け物を かけて外に出ると、「寒〜い」。リフト車に乗り町境の峠を越えると拡幅工事の続いている道、この道は峠の道といったい どういうに繋がるのだろう、全然予想がつかない。通り道の田んぼを見ると何度も耕されている田んぼ・稲刈りの後 一度だけ耕されている田んぼ・稲刈りが終わった後そのままの田んぼ、僕んちの田んぼはいったいどれだろう。親父は どうしているのだろう。僕が元気だったら…一緒にやれるのに、申し訳ない。
病院へ着きまず主治医から言われた言葉「年が明けてから支援システムへの書き込みが一度もありませんがやはり 無理ですか?。」。僕は曖昧な笑みを目に浮かべた、そこまでたどり着かないのだ、心に余裕がないのだ、もう少し時間を いただけませんかと。
診察とカニューレ交換が終わると病院を出て家路に向かう。今日病院に来る時いつも通っている波佐見高校の所の橋が 工事中でいつもと少し違う道を通って来たので今日のリフト車の運転手さんが帰りはどの道を選ぶのだろうとちょっと ワクワクしていた。すると運転手さんはいつもと同じ様に通院路を通り波佐見高校への橋の1本前の道を左折して(元の) 波佐見温泉・波佐見高校・南小学校・波佐見病院の脇を通りいつもの道へ戻ってきた。この運転手さん波佐見の道もよく 知ってる、だからこの運転手さんがリフト車の運転で来てくれていると分かった時はいつも一番安心出来るんだ。
病院に行く前から少し頭が痛かった。病院に着いて体温を測ると37.2℃の微熱、主治医が用心にと抗生剤と解熱剤を 処方してくれた。家に戻っても何もする気が起きずひと休み、リハビリも微熱を心の言い訳に立つ事も拒絶して関節を 動かしてもらっただけ。やわな肉体にやわな精神、嗚呼自己嫌悪!!。

1月11日 猫がうちの子になった
レスパイト入院前に家に迷い猫が住み着いていたらしいが、僕が入院している間にいつの間にかいなくなって代わりに 今度は子猫が迷い込んできたとの事。見せてもらったがこれが三毛猫で本当に可愛い〜い。僕もひと目見て好きになった。 けれど動けない僕が何か世話が出来る訳でもなく…、何も言えなかった。
先日子猫が寄る外で寝ていると聞いたから上の息子に「発泡スチロールはないのか?」と聞いてみるとどこかから丁度良い 形の発泡スチロールを持ってきたので「それを断熱材にして子猫の家を作ってくれないか」と頼むと、快く承知してくれた。 嬉しかった。
この三毛の子猫を嫁さんもかなり気に入っていてどうやらこの子猫もどうやらうちの一員になった様だ。これからいつでも 会える、本当に良かった!。

1月9日 友来たる
昨日の夕方ちょいと顔を見せに来たHが今日の正午過ぎもう一度遊びに来るという。ここには嬉しくてワクワクしている 僕自身がいた。
Hはいつもの様にたわいもない話・大切な話を聞かせてくれた。そして返事が必要な際は文字盤さえも使ってくれるのだ、 まだまだぎこちないけれど。Hはいつも僕に本当に気楽な会話を楽しませてくれる、本当に本当にありがたい事だ。Hは 2時間ほど僕を楽しませて関東まで帰っていった(福岡発の今夜の夜行高速バスに乗るとの事)。ほとんど時間のない中に 遊びに来てくれて、ついでに僕が気にしていた福岡にいる昔からの友人の顔も見て来てくれて本当にありがとうね。

1月7日 センター試験1週間前
僕が受験する訳ではないがセンター試験まで後1週間、今年僕は数学と世界史Bに挑戦するつもりだ。だが世界史の学習は まだまだ終わっていない。せめてセンター試験前に第二次世界大戦・南アジア(インドなど)の独立そして今まで学習した メモの復習までは済ませておきたかったのに。年が明けてから4日のメール作業に1日中費やした日以外は朝と昼いっつも 世界史を学習していたのに、ぜんぜん間に合いそうにない。あせる〜。

1月4日 メールだけで一日
今日は一日とある相手とのメールを打つだけで一日を過ごしてしまった。
朝5時過ぎにお袋にパソコンをセットしてもらって朝の経管栄養を入れるまでの約2時間半をメールに費やして途中まで 送信した。次にお風呂まで朝のメールの続きを1時間半打ちそれから入浴車。入浴車が終わってしばらく休んだらまた 午前中のメールを3時間あまり打った。メールの締めの言葉は「疲れた!」、僕の正直な言葉だ。
それにしても人の相性とは不思議なものだ。どうしても相性の合わない相手がいる事を今回また改めて感じてしまった。 この相手とは初めて見た時から自分らとはなんというか人種が違うという風に感じていた。数年後同じクラスになった時は 普通には接し話せる様になっていた。その年度の最後の最後とある事があってこの相手をそれなりに優しい人格なのだと 初めて思い直した。それからつかずはなれずの仲で接してきた。でもやっぱり相性は合わない相手だった。

1月3日 友?来る?
2日・3日は朝から昼過ぎまで箱根駅伝。ここ十数年毎年そうだ。でも今年の東洋大は飛びぬけて強かった。今年は何と5区 山登りの柏原にトップでたすきを渡したのだ。そして柏原も全国の大いなる期待に応えた、4年連続区間賞・2年振りの 区間新という最高の形で。そして2位早稲田代に5分以上の差をつけて、復路も2位駒沢大に対して差を広げ往路優勝・ 復路優勝・総合優勝の完全優勝だ。それも従来の記録を10分あまりも縮める新記録で。駒大の沢木監督や早大の渡辺監督を 「箱根駅伝もスピード駅伝時代に入った。」と言わしめたほどだ。今年の東洋大はそれほど強かった。
午後3時過ぎYsanとKが家に訪ねてきた。Kとは小学校から中学2年まで同じクラスだった、いわゆる腐れ縁という奴だ(聞いた 話だと中3の時僕とKが別のクラスになったと分かった際にKは泣いて喜んだそうだ、僕はKに対して意地悪をしていたという 覚えはほとんどないのだが)。Kは昔と同じ様に明るく気さくに色々と話をしてくれた。Kの僕に接する時のその様な態度は 僕の心を本当に気楽にしてくれた、なにせ僕はKの話しを聞きながら相槌のまばたきさえしていればいいのだから。ただ今回 Kが家を訪ねてきたのはYsanが誘ったから来たのだと知った時は寂しかった。誘われたから訪ねようかという気に なったくらいなら自分から来る気になった時に来てくれれば良かったに。それでもまあ本心は嬉しかったが。

1月1日 元旦
年の初め、明けましておめでとうございます。今年も1年無事過ごせる、かな。
朝6時前からパソコンをうっていた僕のところへ8時前娘が会いに着てくれて「明けましておめでとう。」と言いながら テレビを点けてくれた。(息子たちは除夜の鐘をテレビで聞いている時に「おめでとう。」と(トイレのついでに来た時だが) 挨拶してくれていた。)元旦の朝のテレビは全国実業団駅伝(男子 ニューイヤー駅伝)の日、毎年楽しみにしている番組だ。 今年は日清食品G・TOYOTA(残念ながトヨタ九州ではなかったが)・旭化成が3強との事。旭化成が優勝候補に上がるのは 何年ぶりだろう。旭化成のメンバーを見たがもうほとんど知らない選手ばかりになっていた。レースは日清食品Gと コニカミノルタが競い合ってトップ争いを演じ最後は日清食品Gが競り勝った。旭化成は1区で出遅れてだんだん順位を 上げていったが1度も優勝争いに顔を出す事はなく3位に終わった。
駅伝が終わった頃嫁さんと子供たちは嫁さんの実家に年始の挨拶に行き、僕はパソコンをしながら一人留守番、寂しいけど 仕方ないと割り切ってはいるのたが。みんなは相棒・元旦SPが始まった頃に戻ってきた。嫁さんは相棒はあまり好きでは ないようだが僕は相棒はかなり面白いと思っている、特に相棒・元旦SPは格段に面白い。この数年毎年相棒・元旦SPを 楽しみにして見てきたし今年のもとても面白かった。満足!。


[2012年の先頭に戻る]