幸平遺跡発掘調査速報 |
所 在
地:佐賀県西松浦郡有田町幸平二丁目1521・1522番地 |
●
2月20日(水) 完全に八方塞がり…。
頭が痛いのは、A・B−1区付近に広がる焼土。土層的には調査面の最上層に当たり、前にも紹介したが、素焼窯の可能性が高いのではないかと考えている。 A・B−1区付近(南から)
その後、土層を確認するために残しているベルトの部分も掘削してみたところ、炭や素焼片が集中する部分や構築材として使用された可能性の高い焼けた石、瓦、トンバイ片などが集中する部分などが確認され、状況的には、今ではほとんど間違いないのではないかと考えている。 B−1区の南側には、素焼片と炭が集中していた 窯から掻き出したものか?
また、当初、この焼土が敷地の前面にあることにも疑問を感じていたが、ちょっと気になる史料があるのに気付いた。それは、安政六年(1859)の「松浦郡有田郷図」(佐賀県立図書館蔵)で、発見されている遺構よりも時期的には新しいが、この敷地に位置する建物はなぜか前面(北)の道路側には入口がなく、反対側(南側)に入口が付けられている。時期の異なるものであるため断定材料とはならないが、あるいは、絵図以前からそうであった可能性もなくはないだろう。 安政六年『松浦郡有田郷図』
と、ここまでの記述では、全然頭を抱えていることは伝わらないに違いない。しかし、本当にどうにもならない状況なのである。何が問題かと言えば、この焼土、いったいどういう形をしてて、どう繋がっているのか皆目見当がつかないのである。 焼土層の状態(A−1区、B−1区の間付近) もう、情報を増やすためにできることは、ほぼすべて行ってしまったため、後は上面から少しずつ土層を剥いでさらに情報を増やし、あわよくば、いつの時点かの形状でも確認できればしめたものというところだろうか。この部分の層が調査区全体の最上面であるため、ほかの部分とのバランスを考えると、そろそろそのままというわけにもいかなくなってきた。 |
|
|
|