幸平遺跡発掘調査速報

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町幸平二丁目1521・1522番地
 調査主体:有田町教育委員会




● 2月20日(水) 完全に八方塞がり…。 



  16日(金)は雪で調査は休み。今週は打って変わって、昨日、今日と着膨れした体には暑く感じられるほどの陽気が続いているが、天気とは裏腹に調査は完全に八方塞がりの状態というところか。



 頭が痛いのは、A・B−1区付近に広がる焼土。土層的には調査面の最上層に当たり、前にも紹介したが、素焼窯の可能性が高いのではないかと考えている。


A・B−1区付近(南から)


 その後、土層を確認するために残しているベルトの部分も掘削してみたところ、炭や素焼片が集中する部分や構築材として使用された可能性の高い焼けた石、瓦、トンバイ片などが集中する部分などが確認され、状況的には、今ではほとんど間違いないのではないかと考えている。


B−1区の南側には、素焼片と炭が集中していた
窯から掻き出したものか?


A−2区西ベルトの部分では、焼けた石、瓦、トンバイ片等が集中


 また、当初、この焼土が敷地の前面にあることにも疑問を感じていたが、ちょっと気になる史料があるのに気付いた。それは、安政六年(1859)の「松浦郡有田郷図」(佐賀県立図書館蔵)で、発見されている遺構よりも時期的には新しいが、この敷地に位置する建物はなぜか前面(北)の道路側には入口がなく、反対側(南側)に入口が付けられている。時期の異なるものであるため断定材料とはならないが、あるいは、絵図以前からそうであった可能性もなくはないだろう。


安政六年『松浦郡有田郷図』


 と、ここまでの記述では、全然頭を抱えていることは伝わらないに違いない。しかし、本当にどうにもならない状況なのである。何が問題かと言えば、この焼土、いったいどういう形をしてて、どう繋がっているのか皆目見当がつかないのである。
 土層上は、何重にも薄い炭層や焼土層、白砂層などが薄く重なっており、窯だとすればおそらく複数あった可能性が高い。ところが、山にある登り窯と違い平地の宅地内に新たに窯を築く場合は、完全に上部を平らに削ってその上に築かれる。そのため、基本的に遺存しても床面だけに限られる。しかも、登り窯ほど高温で焼成しないため、硬く焼き締まった壁の残がいなどが残っていることも考えにくいのだ。
 たとえば、赤い紙を位置や方向を少しずつずらしながら、何重にも重ねた姿を想像して欲しい。そこから元の姿を復元することは、難しい作業であることはお分かりいただけるのではないか。実際には、部分によってさらに複雑に掘り込まれているため、ある面全体が遺存している保証もないため、いっそう識別することは困難なのである。
 こうした場合、通常の手順としては、仕方がないのでとりあえず焼土の範囲を写真や図に収めて次に進むのだが、困ったことに図を取ろうにも、あまりにも不定形で、部分によって同じ焼土層でも状態が異なるため、ちょっと図に収めることすら難しい状況である。


焼土層の状態(A−1区、B−1区の間付近)

 もう、情報を増やすためにできることは、ほぼすべて行ってしまったため、後は上面から少しずつ土層を剥いでさらに情報を増やし、あわよくば、いつの時点かの形状でも確認できればしめたものというところだろうか。この部分の層が調査区全体の最上面であるため、ほかの部分とのバランスを考えると、そろそろそのままというわけにもいかなくなってきた。

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