幸平遺跡発掘調査速報

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町幸平二丁目1521・1522番地
 調査主体:有田町教育委員会




● 3月24日(土) 有田初の水簸施設発見か? 



 すっかり暖かくなってきた。ついこないだまで、現場事務所でもストーブは欠かせなかったが、日中はもう上着の一枚でも脱ぎたくなる気分である。
 今週は天気も安定していたこともあり、調査は比較的順調に進んだ。もっとも一応の目安と考えていた3月中には、とても終わりそうもない気配だが…。


 21日(水)からA−2区で17世紀後半の層を掘っていたところ、なんだか変わった遺構が発見された。この日はグリッド内をざっと掘ったところで作業が終わったため、翌22日(木)から詳細に調べはじめた。発見された遺構は、硬く締めた粘土で東西方向に長い長方形状に囲ったもので、中には磁器の原料となる白色粘土がべったりと何重にも入っていた。また、板状の木片もあちこちにあり、構築材として使用されているようである。もちろんこんな遺構は今までみたことがない。


 

 

A−2区で17世紀後半の土層で発見された遺構(東から)


 あえて近そうなものといえば、板を敷いてることや粘土が残っていることなどから、水簸槽かなというところか。これまでの類例としては、幕末以降の陶器窯である瀬上窯跡(小代焼)で登り窯に隣接して発見されたものがある。ただし、水簸槽ならば中央の中槽を挟んで両側に外槽があるはずである。状況としては、検出されたものは瀬上窯の例の中槽部分に近い。


瀬上窯で発見された水簸槽
野上建紀「肥前における磁器産業について−生産施設及び環境を中心に−」
『有田町歴史民俗資料館・有田焼参考館研究紀要第5号』1997 より転載


 ところが、西側を探っても南北方向に伸びる溝状の遺構はあるが、瀬上窯跡の外槽に当たるような土壙は見当たらない。「???」状態で22日は終了したが、昨日23日(金)にはさらに広く掘ってみたところ、「もしかして…」と思い当たることがあった。瀬上窯跡のような小さな外槽を想像していたのだが、あらためて考えてみると目の前にある遺構は、まさに江戸後期の生産工程を描いた「職人尽し絵図大皿(有田陶磁美術館蔵)」に描かれた水簸槽と酷似しているのである。最大の違いは、両側の外槽がかなり大きいことと中槽が相対的に細く長いことで、前日中槽(?)の西側の溝状だと思っていた部分は南北3m弱程度の幅でやはり粘土を突き固めて止まっていた。西端はまだ範囲を出していないが、現状ではおそらく長方形になるものと想像される。
 今のところまだ全体を出し終わってないため水簸槽とは断定できないが、期待も込めて、かなり有力かなとは感じている。もし水簸槽ならば、磁器生産用としては初。時期的にも17世紀後半と格段に古い。有田の場合、生産工程の姿が類推できる文献等の資料は、ほとんど江戸後期以降のものである。つまり、実際にはそれ以前にはどのような生産が行われていたかは、皆目分かっていない。水簸槽だとしたら、かなり貴重な資料である。


『職人尽絵図大皿』(有田陶磁美術館蔵)に描かれた水簸の様子


 ところで、町中での調査なので、通りすがりの人から時々「なんかいいものはでた?」と聞かれることがある。「別に宝探ししてるんじゃないんだけどな〜」、「どういう性格の遺構からどういう製品が出土するかが歴史資料としては大切なんだけど…」なんて思いながら、次の「でも、全部欠けてるんだろ」のひと言で、完全に説明する気力が失せる。でも、普通の人の興味はそうなんだろうな〜ということで、今日も出土品を一つ紹介してみることにする。

    
                     九州陶磁文化館『柴田コレクション(6)』1998 より転載
白磁桔梗花文木瓜形猪口
*写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。

 写真右は、九州陶磁文化館の柴田コレクションに収められている白磁猪口である。特に深い意味はないが、これと同じ製品が昨日の夕方出土した。
 出土層位は上で説明した遺構の検出された層よりもさらに一つ下の層、まだ大々的には掘っていないため正確な年代は確定できないが、共伴製品や土層順などから大まかには1650〜70年代頃と推定される。こうした白磁の猪口などは、単体の伝世品としてはかなり年代を捉えにくいものであるが、くしくも九州陶磁文化館が示している年代も1650〜70年代、“九陶もなかなかやるじゃないか”と感心する一方、今の肥前陶磁の編年研究も間違ってないんだなとあらためて思ってしまった。
 それに、焼成窯は分からないまでも、内山の製品であること、しかも可能性としては谷窯をはじめとする近接する窯の可能性が高いことは指摘できる。また、この遺跡ではロクロを使わない製品の土型は、けっこう多く出土している。さらに例の遺構が水簸槽ならば、ここで製品が生産されていたと考えて間違いない。つまり、あるいはここで生産されたものである可能性も考えられるのである。
 実は、この製品が出土する層位は、出土遺物の大半が白磁と色絵である。土層の広がりがどの程度あるのか分からないが、次はどんな遺構や遺物が発見されるのか、もう少し楽しめそうである。

 

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