●
3月31日(土) 水簸施設と同じ時期の土層の製品
先週、有田初の水簸遺構発見か?という報告をした。実は、まだこの遺構の調査は続いているが、まず間違いなく、水簸施設と考えていい状況である。この遺構の詳しい状況については、もう少し調査が進んでからお知らせすることにして、今日は、この遺構とほぼ同じ時期の土層からどんな製品が出土するのかを数例ご紹介してみたいと思う。
|
最初の製品は、「幸平」銘が呉須描きされた瓶の破片である。次の行には名前らしい文字が見えるが、欠落していて不明である。
これにより、水簸槽の発見された土層の時期にも、遺跡のある場所が幸平地区の一角であったことが分かる。やはり、赤絵町ではないことは重要である。
しかも、脇に写っている製品からも分かるように、同時期の土層から出土するものにはかなり色絵や白磁製品が多い。こうした製品組成は、一般的な消費遺跡とはまったく異質であり、やはり生産遺跡という一面が関係しているものと推定される。
|
「幸平」銘の染付瓶
|
|
そうした色絵製品の一例である。乳白色に近い白磁素地を用い口銹を施した碗で、高台部は欠損している。広い意味での「柿右衛門様式」に含まれる製品で、時期的には1670〜80年代頃と推定される。
ところで、この遺跡の色絵製品の一つの特徴として、この碗のように、上絵具がうまく発色していないものが多い。また、この写真でも反対側の面に少し見えるが、割れてしまった部分を上絵具で補修しているようなものも散見される。
*写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。
|
色絵草花文碗
|
|
やはり白磁素地に輸出製品に多用される牡丹文を描いた色絵瓶である。口縁部は欠損しているが、おそらく本来高さ20cm弱程度と推定される。一見スタイル的には前の碗などと比べ古い印象を受けるが、むしろこうしたスタイルが17世紀後半の内山地区の色絵では通有で、長期に渡って生産されている。時期的には、1660〜80年代前後と推定される。
やはりこの製品でも、上絵具は温度管理が不十分で、変色してしまっていることが分かる。
*写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。
|
色絵草花文瓶
|
|
染錦窓絵小皿 *写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。
|
白磁を色絵素地としているものが大半を占めるが、中には染付を入れた素地を用いたものも出土している。その一つがこの皿で、見込みに染付で地文や丸文の輪郭を描き、同様に上絵具でも地文や丸文を配している。また、口縁部にも地文と松樹などの文様を窓内に交互に配している。構図や絵具の組成などは、基本的に古九谷様式的な要素を色濃く残しており、共伴製品などからも時期的には1650年代後半〜60年代頃の製品と推定される。
|
|
|
|
土型製作用の人形の元型 土型の出土状況
*写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。
ところでこの遺跡では、製品とともに多く出土するものに、製品成形用の土型がある。右の写真でも分かるように、遺構によっては、かなりまとまった数が出土する。特徴的なのは、ほぼ押型成形用のものに限られ、型打ち成形用のものはほとんど見当たらないこと、こうした土型を作るための元型も出土することなどである。ちなみに押型成形とは、ロクロを用いず直接型に粘土を押し当てて成形する方法で、あらかじめロクロで成形したものを型にあてて整形する方法は型打ち成形と称される。
|
以上、出土遺物を数例ご紹介してきた。こうした遺物と水簸槽の組合せは、実はかなり歴史的に重要な事柄を暗示している。まあ、ここで書いても構わないのだが、調査のまとめみたいな内容になってしまうため本日は資料紹介にとどめ、後日じっくりと示してみたいと思う。
メニューに戻る
|