幸平遺跡発掘調査速報

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町幸平二丁目1521・1522番地
 調査主体:有田町教育委員会




● 4月14日(土) あいかわらず、木ばかりです。 



 あと2週間で陶器市。有田は年に一度の大混乱の時期を迎える。だいたい普段人口1万3千人しかいない町に、一日10万人、20万人と人が押し寄せるのである。大変ありがたいこととは言え、普通でいられるわけがない。現場なんて、当然、たどり着くことすら無理だ。撮影したフィルムを現像に出そうにも、写真屋さんは焼物屋に早変わり。すでに準備で日一日と動きづらくなりつつある町中を横目に、焦るのは気ばかり、いや“木”ばかりである。
 


A−1区(南東から)

 写真上部に見える土層ベルトの上面、ここが最初に掘りはじめた高さである。“もう”だか“やっと”だか分からないが、とりあえず1mを超え、深さとしてはなかなかのものになった。もう少しで地山である。
 ところが、先週も紹介したが、期限が迫り、お尻に火のついた状態だというのに、ますます木の残りがいい。しかも、ここまで下がるとじわじわと湧いてくる水は、単純にすくうか吸い取るしか方法がない。地下から湧きだした水をくみ出して、別の場所で捨てて再び地面に返しているのだから、考えてみれば、ずいぶん非生産的な作業である。でも、まあ、そんなこと考えてたら、発掘なんてやってられない。



木を組んで造った柵(A-1区/東から)

 木を組んだ遺構は何だか分からないものが多いが、かといって無視もできない。最近“ねつ造”が流行(?)だが、そんなこと今回のような問題でも起らない限り、思いつきもしないのがふつーの業界人。本当は、こんなもん、ぱっと掘り抜いて“何にもありませんでした。”って言えばそれまでなのだが…。“いや、本当にしてませんよ!”“だから、苦労してんだって!”
 てなことはどうでもいいが、こうした木は、もうほとんど移植ゴテでスパッと切れてしまうくらい柔らかくなっている状態。杭などは、指で強く押すと、ポクッと折れてしまうほどである。そのため掘るにも慎重が第一、やたらと時間だけはかかってしまう。しかも、調査区が狭いだけに次は別な場所をというわけにもいかず、すぐに図面を書かないと作業が止まってしまう。終盤を迎えた現場の常とはいえ、作図に追われる毎日である。
 写真は、最初の写真に見える木を組んだ遺構の一部(右側/北側)。杭を等間隔に打ち込み、その間に細い枝状の木を横に幾重にも互い違いに渡して造った、柵状の遺構である。少なくとも幅3m以上伸びており、土地利用の上で何かを仕切っていたことは間違いないが、如何せん、その先が読めない。考えたって分かりそうもないが、悠長に考えてる暇もない。



 というところで、また出土品。
 今回は、“どうせ発掘品は欠けてるんだろ”という世間の冷たい視線に反旗を翻すべく、完形品を一つ。共伴遺物から1660年代前後と推定される、高さが23cmほどの色絵の瓶である。
 毎度のことながら、生産遺跡の製品なので発色は完全とはいかないが、溝状遺構の細かい砂に埋もれた状態で廃棄されていたため、とりあえず、欠けたところもなく、完器は完器である。
 もっとも、“割れてない”と書かず、繰り返し“欠けてない”、“完器”と記すのには、当然というかちゃんと落ちがあるからだ。悔しいのであえて書くのは止めるが、まず、右の写真でご堪能の上最後に、ここをクリックして裏面の写真を確認していただきたい。なかなか涙ぐましい。

色絵牡丹文瓶

  *写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。


 本業的にはどうでもいいことだが、“やっぱり発掘品はその程度だろう!”と言われるのもしゃくにさわるので、多少小物にはなるが、こんどは正真正銘の完形品。別に本当に落ちはない。
 同じく1660年代前後の土層から出土しているもので、高さ、幅ともに7cm程度、白磁素地の上に赤、緑、黒の上絵具で塗った白鷺形の水滴である。背中と胸の部分に1箇所ずつ、小さな丸い穴が開けられている。
 “完形品なんて、器物の断面は見えないし、内部の状態も確認できないし、考古学的には、半分に割れてるくらいの製品がベストかな!”なんて、目一杯のみえを張りながら、今日はボロの出ないうちに止めておこう。

 
色絵白鷺形水滴
 
*写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。

メニューに戻る



Homeページに戻る
Contentsページに戻る
ページの最初に戻る