幸平遺跡発掘調査速報

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町幸平二丁目1521・1522番地
 調査主体:有田町教育委員会




● 4月21日(土) 今週は石、石、石 



 現場終了のタイムリミットが、あと一週間に迫った。日増しに町なかは陶器市の準備で慌ただしさを増し、追い立てられている気分で何だか落ち着かない。

 ところで、最近役所の内外で声を掛けられるようになった。
 「もう、発掘終わったの?」
 「大変だね〜。」
 もちろん、間違っても心配されてるのは発掘調査ことではない。たまには「そんなにご心配いただいて」なんて言ってみたいところだが、ようするに、交番の建設が遅れて警察が大変ということだ。まるで不当に建設を妨害する極悪非道の大悪人扱いだが、そんなことこの商売では日常茶飯事、すでに右の耳から左の耳へと素通りするよう日頃から備えは万全である。

 「まだ、こっちも掘るの?」、「対象範囲じゃないので掘りません」。「でも、遺跡が続いてたら掘るでしょう。」、「だから、調査対象範囲じゃないので…。」。よくある会話だが、どうやらふつー(?)の方々には、担当者の胸先三寸でいろんなことが決められると思われているらしい。もちろん行政で行う発掘調査なんて、もっとビジネスライク。法律や事前の協定、契約などに基づいて、決められた期間や予算の範囲内で決められた場所を調査しているだけである。

 それにしても、警察の方もあれこれ言われる昨今だが、どうやら文化財よりははるかにましらしい。「警察の方々、よかった(?)ですね〜。」、「同列に扱うな!と言われるかもしれませんが、下見て暮せですよ!!」。

 余談が過ぎたが、とりあえず今週のキーワードは“石”。「おい、おい、“木”の次は“石”かー?」。同じなのは、相変わらず、何が何だか分からないことである。



A−2区(北東から)

 A−2区は、あの水簸施設が発見された場所である。その下にも、木を使ったいろんなわけの分からない遺構が複雑に絡んでいたが、徐々に落として行くと、ついに今度は石だらけになってきた。もう少しすっきり何かの形になってくれると助かるのだが、例によって何だかさっぱり分からない。



鍬状の木製品(A−2区)

 発見された水簸施設内のほぼ同じ土層から、一つの木製品が出土した。半裁した木を刳り貫いて縦が長く幅が狭い鍬状にしたもので、基部で折れているが(写真右側)、もともとは丸く刳り貫いた小穴に鍬のようにほぼ直角方向に木製の柄が差し込まれていたらしい。ただし、鍬にしては刃先が長すぎるし、これで土が掘れるとも思えない。
 残念ながら、類例は見つけられないが、もしかしてと思ったものがある。まずは、あらためてここをクリックして「職人尽し絵図大皿」に描かれた水簸の工程をご覧いただきたい。

 水簸の作業をしている人物の右側をご覧いただくと、細長い中槽からにょきっと柄状のものが突き出ているのが分かる。これは、おそらく水簸の際に沈殿した砂をすくい取る道具で、以前紹介した小代焼の瀬上窯の発掘調査報告書に掲載された現代の水簸の写真では、刃先が四角いスコップが用いられている。
 ここで、あらためて今回出土した木製品を見てみると、細長くて幅は中槽の底と同じくらい、何となくそれっぽい。しかも、絵図の中でも柄状の道具は中槽の中で自立しており、やはり刃先が付くとすれば、直角に近い角度である可能性が高い。しかも、出土した場所も悪くない。
 現在のところ類例が見あたらないため断定はできないが、たぶん間違いないだろうという印象である。



染付磁器皿とサワガニ(A−2区)

 まったく調査とは何の関係もないが、地表に顔をのぞかせた磁器皿と“サワガニ”の取りあわせ。もちろん焼物じゃなくて、本物。水だけは豊富な遺跡なので、よく遊びにきている。でも、こないだはちょっと冒険し過ぎたらしく、水から離れたところでへばっていた。親切にも水の中に戻してやったら、懲りずに翌日も来ていた。あんまりうろうろすると踏まれるぞ!!



 というところで、今日も出土品。
 もうそろそろ色絵にも飽きてきたころかもしれないが、出るものはしょうがない。
 土層や場所によっても偏りは大きいが、印象としては、出土製品の半数以上が色絵か白磁という感じ。割合的には、あの赤絵屋であることが判明している郵便局跡地よりも確実に高い。
 写真の色絵は、体部に牡丹文を上絵付けした瓢箪形の瓶である。共伴製品には染付の芙蓉手皿などがあり、1660年代前後の製品と推定される。

色絵牡丹文瓢形瓶

  *写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。


 色絵の口直しにちょっと青磁でも…。色絵なんて、そんじょそこらの遺跡でそうそう出るもんじゃないので、実に贅沢な話しである。
 この碗は、高台を無釉にし、外面に青磁、内面に透明釉を掛けた掛け分け碗である。近接する谷窯などでも多く生産されており、もしかしたら、その辺りの窯の製品かもしれない。
 1650年代頃と推定される製品で、同時期の製品はどの調査区でも出土するが、最南の調査区だけは、最下にこうしたいわゆる初期伊万里タイプの製品だけが出土する土層がある。
 うっかり忘れるところだったが、もちろん完形、焼成失敗品を廃棄したという感じではない。その最南の調査区では、これまでにも、染付皿や胎土目積み段階の陶器碗など、多少は完形品が出土している。歪みも少ないため、あるいは使用していた製品が廃棄されたものかもしれない。
 ところで、「これって、いったいいくらくらいするんですかね〜?」。「いかん、いかん!しょっちゅう見学の人達に聞かれるので、うつってしまった。もちろん、学術資料なので売りませんよ!!」

 
青磁・透明釉掛け分け碗
 
*写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。

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