幸平遺跡発掘調査速報

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町幸平二丁目1521・1522番地
 調査主体:有田町教育委員会




● 4月29日(日) 今週は水に悩まされた日々。でも、めでたく調査完了。 



 27日は、今月中と決まっていた調査期限の実質的な最終日。ところが、健闘むなしく、あえなく志半ばにしてタイムオーバー。
 作業員さん達は帰宅。
 残されたのは、緊張感の切れかかった調査員二人。しかし、このまま投げるわけにもいかないのが担当者の辛さ。
 “こりゃ掘るしかないか!”
 かくして再び緊張の糸を結び直し、わびしくもおじさん二人で土を掘っては運び、また掘る。
 まあ、いろいろ調査を重ねてくると、時にはこんなこともないわけじゃない。予算オーバーで連日自分たちだけで掘り続けたこともあれば、褒められることじゃないが懐中電灯ってことも。今回なんて、やればまだ明るいうちに終わりそうなので、楽勝、楽勝。ただし、唯一の気掛かりは写真。早めに完掘しないと、暗くて終了写真が撮れなくなってしまうからだ。
 何とか1/45秒で、ギリギリ滑り込み。ついに3ケ月近くもかかった調査が完了した。

 これでほっと一息。もうしばらく発掘調査はまっぴらごめんというところ。しかし、そんなこと自分の意志ではどうにもならないのもこの商売。体制の整った大きな組織ならいざ知らず、町くらいの小さな組織では、一つ開発事業で遺跡がかかれば、短期はおろか、中期、長期的な計画さえも灰燼に帰してしまうので始末が悪い。特に有田の場合は、掘れば例外なく光物の山、その後の整理作業も重くのし掛かる。
 思えば、ここは昨年の天狗谷窯跡の調査最終日に突然発見された遺跡。本来ならば、調査終了の余韻に浸って一息ついてるはずだったが、そんな期待は一瞬にして吹っ飛んだ。幸い今のところはしばらく調査の予定が入っていないため、これから頭の中の整理を進めたいと思う。
 ということで、調査の総括はまた後日として、本日は、今週の調査概要をお伝えしてみたい。



掘り終わったA−1区(南西から)

 この写真はもちろん池ではない。掘り終わった調査区を2、3日倣っておいたら、この状態になった。掘った際に残しておいた木杭もプカプカ、深さは30cm以上もある。“これじゃまるで水中考古学みたい”と他人事なら笑らい飛ばせるところだが、自分の担当する調査じゃそうもいかない。しかも、ここまで溜まるのに雨水は一切なし。湧水で自然にこうなってしまうから困ったもんだ。
 それにしても、元は多少は深かったにしても、有田の内山の水脈の浅さはかなりのもの。これで水を嫌う窯が工房内に築かれ、そこらじゅうで焼物が焼かれていたのだと思うと、ちょっと驚きである。
 この水、わずか100平方メートル足らずの狭い調査範囲で、3ケ月近くもかかった最大の原因であることは間違いない。何しろ、毎日朝一で水の汲み出し、10時の休憩後に水の汲み出し、午後一に水の汲み出し、3時の休憩後に水の汲み出し、その他途中でも溜まってきたら水の汲み出し、これじゃいったい発掘調査してんだか水抜きしてんだか分からない。



調査完了写真(南から)

 これが、何とかこぎ着けた調査の完了の状態。各調査区を寸断していたベルトもはずれ、全体的にすっきりした、と、言いたいところだが、やっぱりこの鉄骨の林の存在感は最後まですごい。これじゃー、結局何が何だか分からないが、とにかく全部掘ったという証しくらいにはなる、と、思いたい。
 調査期間のかかった最大の原因は水だったと言ったが、それ以外にもいくつもの難関があった。その一つは1平方メートルあたりコンテナ5箱前後も出土した陶磁器などの遺物。同業者の方ならお分かりだろうが、これは窯の物原ならともかく平地の宅地跡としては、なかなかの数。狭いとはいうものの、総数500箱程度にも及ぶ。これが意外にあるとないでは大違い。やはり、掘り道具が相対的には小さめになってしまう。それから、下の層に進むほど残りの良かった木類。移植ゴテでもスパッと切れてしまうほど柔らかくなっているので、残して掘るにはそれなりに慎重になってしまう。しかも、こうした木類などは、普通の遺跡では残っていないもの。まあ、考察する上での材料が増えたといえばそうなのだが、分けの分からないものがほとんど。しかし、何と言ってもやっぱり鉄骨。安全対策なのでしょうがないが、じゃまで、じゃまで…。



 もう、自分でも色絵は完全に飽きてきたが、これが最後なので一つだけ。白磁素地を用い、胴部に丸文を配した碗である。
 時期的には、土層の堆積順や共伴遺物からたぶん1650年代後半、下がっても1660年代前半頃かと推定される。
 こうした文様の丸文を描いた製品は、国内でも出土例が散見されるため、あるいは国内向けの製品かもしれない。ただし、流通や消費の状況にはとんと疎いため、正確なことは知らない。

色絵丸文碗

*写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。


染付兎文平碗(内面)
     (外面) 

*写真をクリックすると拡大画像がご覧になれます。

というところで、最後に染付。小さい高台から開きながら立ち上がる平碗とするか皿にするかちょっと迷う形状の器である。見込みには兎文を描き、その周囲に太めの濃みを入れている。口縁部には雷文帯が巡らされており、高台内には「太明」銘が配される。口縁部から底部にかけて窯割れしており、商品や生活用品として使用されたものとは考えにくい。上の色絵碗とほぼ同じ層から出土しており、1650年代前後の製品と推定される。

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