山辺田遺跡と古九谷

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町黒牟田
 調査主体:有田町教育委員会


 


 前回、山辺田遺跡から出土した古九谷様式の台鉢片をご紹介した。この山辺田遺跡が、先日新たに周知の遺跡として登録された。そこで、引き続き今回はこの遺跡について少し詳しくご報告しておくことにする。



 

                  (近景)

 



  山辺田遺跡は、その名のとおり国指定史跡山辺田窯跡に近接した遺跡である。有田町の北西部黒牟田地区に位置しており、おそらく陶磁器工房跡と推定される。
 調査可能な面積が300Fほどと小さかったため、遺跡の広がりなどは不明であるが、調査地内では柱穴や土壙などが多く検出されている。



               (調査区全景)

 

 

 

 



 発見された建物は、2回ないし3回建替えが行われていた。
 削平を受けているため、層位的な前後関係は確認できなかったが、出土遺物から1600年代頃から17世紀末−18世紀前葉頃に至る遺構であることが判明した。
 検出された土壙には、かまどや車坪の可能性があるものや、甕を埋めていたものなどがあるが、性格が不明なものも多い。



             (黒牟田地区の遺跡)



 ところで、黒牟田地区で近世に築かれた登り窯としては、山辺田窯跡のほか多々良の元窯跡、黒牟田新窯跡などがある(多々良2号窯は近代以降の窯)。
 まず、1600年代頃に山辺田窯跡が開窯し、寛永十四年(1637)の窯場の整理・統合の後に、多々良の元窯跡が成立した。その後、山辺田窯跡は1650年代後半頃に廃窯になるが、多々良の元窯跡は黒牟田山唯一の窯として、近代まで操業が引き継がれた。黒牟田新窯跡は、江戸時代後期にはじまり大正時代まで煙を上げていた窯場で、山辺田窯跡や多々良の元窯跡などとは、やや離れた場所に位置している。つまり、位置的に、また出土遺物から見ても、検出された遺構は山辺田窯跡や多々良の元窯跡に関わりのある建物であったことは間違いない。



【色絵陶片の出土している町内遺跡】

No.
遺跡名
点数
色絵の年代
赤絵町遺跡
数100点
1650年代
〜近代
泉山口屋番所
遺跡
30点前後
1640年代
〜50年代
山辺田遺跡
60点前後
1640年代
〜50年代
18
下白川窯跡
1点
1650年代
〜70年代
20
天神山窯跡
1点
1650年代
〜70年代
22
猿川窯跡
2点
1650年代
〜60年代
29
丸尾窯跡
数点
1650年代
31
弥源次窯跡
数点
1680年代
〜1700年代
33
山辺田窯跡
10点前後
1640年代
〜50年代
45
南川原窯ノ辻
窯跡
1点
1650年代
〜70年代
46
柿右衛門窯跡
数点
1660年代
〜80年代
47
樋口窯跡
1点
1650年代
〜70年代
* No.は“遺跡INDEX”に準じる

 

 



 山辺田という名前から連想するものは、やはり古九谷様式の色絵磁器であろう。色絵素地は今回の調査でも多く出土しているが、実際に色絵を付けている製品は30点前後出土した。以前工事の際にも調査地付近で30数点出土しているため、これまでに合計60点ほどになる。
 この数字を、多いと感じるか少ないと感じるかは人それぞれである。しかし、赤絵工房跡を調査した赤絵町遺跡を除けば、これまでに有田で出土している色絵陶片は、記憶によれば120点前後に過ぎない。つまり、山辺田遺跡の出土品が、その半数を占めているのである。ちなみに、山辺田窯跡で出土した色絵磁器は10点程度である。これでも窯跡からの出土数としては稀にみる多さだが、調査面積を考えると、やはり山辺田遺跡が格段に多い。
 これは上絵製品焼成用の赤絵窯は、有田では工房内に築かれていることと関係する。今回の調査地内では赤絵窯と確定できる遺構は発見できなかったが、構築部材と推定される耐火レンガなどは散在していたため、付近に赤絵窯があることは間違いなかろう。



山辺田7号窯(左)と山辺田遺跡(右)の
色絵素地

 

 

 



 山辺田遺跡で出土した色絵や素地には、以前出土したものも含めて、相当にかたよりがある。
 山辺田窯跡では、これまでに公表されているだけでも、1号、2号、3号、4号、7号窯跡で色絵素地の出土が確認されている。実際には窯体と帰属する製品の関係はもっと複雑なのだが、これについては別の機会に譲ることにしよう。とにかく、この中で山辺田遺跡で出土するものは、7号窯跡の出土品と共通性が高く、中には同じものもある。これは、山辺田窯跡に関わった業者の一軒であったと考えれば不自然ではなかろう。


出土素地に該当する伝世品
(梅沢記念館蔵:『日本の陶磁11』中央公論社1975より転載)

色絵幾何文手大皿(山辺田遺跡出土)

 



 出土した色絵製品や素地の特徴としては、まず、圏線などの染付を入れた素地と無文の素地が共伴していることである。
 山辺田窯跡の色絵素地の変遷を考えると、まず染付を伴う素地にはじまり白磁との共伴に進むため、最も早い段階の組み合わせではない。しかし、染付を伴う種類の素地に上絵を付けたものには、いわゆる幾何文手が多いため、古九谷様式の製品としてはそれほど時期的に下がるタイプではない。
 なぜならば、一つは幾何文手の伝世品には陶器質のハリを用いたものがあり、このハリは山辺田窯でも早い段階にしか使用されていないものだからである。ここで詳しくは触れられないが、こうした製品は1650年代前半前後に生産された可能性が高いものと推定している。
 ちなみに「承応貮歳」(1653)高台銘の伝世品が、以前紹介されている例もある。(久志卓真「承応弐歳銘古九谷樹下人物図鉢」『陶説』第67号 日本陶磁協会 1958)


出土色絵陶片と類似する伝世品
(MOA美術館蔵:『世界陶磁全集9』小学館1983より転載)         

青手草花文大皿(山辺田遺跡出土)

 

 



 染付の入らない種類の素地は、いわゆる五彩手と青手の両方が出土している。
 この中で青手は比較的多く出土しているが、種類はみなほとんど同じである。すなわち、外面胴部に小さく丸い唐草をびっしりと配し、体部全体を緑絵具で塗り潰して、高台内は共通して白地を残している。内面は緑と紫絵具を使用して草花を描き、すき間を花などの地文で埋めて黄色で塗り潰している。
 こうした特徴を持つ製品は、東南アジアに伝世しているものが二例紹介されている。これまでのところ国内で出土・伝世している例は知らないが、比較的類似した特徴を持つ中皿に「承応貮歳」(1653)の高台銘を配したものがある。


出土色絵陶片と類似する伝世品
(ジャカルタ国立博物館蔵:『海を渡った肥前のやきもの展』九州陶磁文化館1990より転載)    

 



 以上、簡単に山辺田遺跡とその出土色絵磁器について紹介してきたが、ここでは書ききれなかったことも多いため、またそのうちどこかのページで詳述してみたいと思う。

 



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