天狗谷窯の調査、現在進行中!!

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町白川
 調査主体:有田町教育委員会


 


 突然だが、8月17日から、国指定史跡天狗谷窯跡の発掘調査を行っている。もちろん、現在も調査は進行中!!
 

 天狗谷窯跡といえば、長く日本磁器発祥窯と信じられてきた窯である。別項で詳しく触れているが、現在でもその可能性が完全に否定されたわけではない。今回は物原の調査も行うので、もしかしたら何か進展があるかもしれない。もちろん、どう転ぶかは、現時点ではまったく分からないが…。
 というわけで、緊急企画として、ここで調査の進展状況に合わせて、レアな情報を調査終了まで、逐一掲載してみようかと突然思いついた次第である。

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調査に至る経緯

天狗谷窯の概要

これまでの経過

9月2日

9月3日

9月6日

9月7日

9月8日

9月9日

9月10日

9月13日

9月14日

9月15日

9月16日

9月23日

9月27日

10月1日

 



 

 ● 調査に至る経緯

 その筋の方ならご存知のように、国指定史跡というのは、めったなことでは調査ができない。しかし、今回は保存・整備の基礎資料を得るため、約30年ぶりに調査することになった。
 調査の主眼は、かつて調査された窯体の遺存状況および正確な位置の把握。それから、物原の状態を確認することである。つまり、保存・整備を行うに際して、何をどのように使うことが有効なのかを探るための、いわば素材集めである。
 しかし、その意義はそれだけには止まらない。長く磁器発祥の窯場といわれてきた天狗谷窯跡の真の位置付けを定義できる可能性を秘めているからである。これは、日本磁器の成立・発展の謎を解明する一つの有力な手がかりになる可能性があるのだ。
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  (本調査時の全景)

写真右側がA窯、左がB窯。E窯はA窯の床下に遺存。C窯はB窯上に築かれていた。

● 天狗谷窯の概要 



 天狗谷窯跡の現在の位置付けについては、詳しくは“Materialホール”の項目をご参照いただきたい。
 とりあえず概略を記せば、一度昭和40年〜45年に6次に分けて、窯体を中心とした発掘調査が実施されている。この時、A・B・C・Eの4基の窯体と、他窯の一部かもしれないD・X窯が発見された。各窯は層位関係から、古い順にE・A・B・Cとなる。なお、D・X窯については、層位的には時期的な位置付けは不明である。
 また、この窯場の物原は、窯体の右側(南側)にあるが、あまりに失敗品や修理の際の窯壁片などを廃棄しすぎたため、元は谷だった部分が今では小高い山と化している。この物原については、これまで調査が行われたことはない。 
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  (窯跡配置図)
*トレンチ(試掘坑)の位置・大きさは正確ではありません。

● これまでの経過 



 調査は8月17日から実施している。しかし最近の有田は天候不順で、9月4日現在10日程度しか調査ができていない。しかも、一日中まったく雨が降らない日というのも珍しいので、作業効率も悪い。
 最初は、窯体の遺存状況を確認するため、A窯の下から12〜14室に試掘坑を設定した(AT・BT)。またA窯の床下にあるE窯も掘り起こした。現在天気が悪く、この部分に被せているシートを開けることができないため、ここでご覧いただけないのが残念だが、遺存状況は良好なので、そのうち紹介することにする。
 ということで、現在は物原の一部に手をつけはじめている。位置は、A窯の下から8室目の南側(CT・DT)である。 
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DT調査風景(北東から)

 

DT調査風景(北西から)
 ガラガラ層を掘削しているところ。東壁には、黄色土と黒色土が交互に堆積していることが分かる。

 9月2日 天気:くもり



 物原のトレンチは一応幅2m。長さ3mごとに1mのブリッジを残して、4〜5個空ける予定にしている。ここを選んだのは、以前やきもの工場の敷地として、斜面が平らに削られており、地山までそれほど深くないだろうと判断したからだ。とはいっても、おそらく2メートルでは収まるまい。それでも、ほかの場所をまともに開けようと思えば、7〜8mは覚悟しなければならない。それでなくとも崩れやすい物原を開けるには、これはあまりにも無謀だ。8月25日からはじめ、最初に窯体側から2つ目まで(CT・DT)を同時に開けはじめたが、翌日からずーっと雨。次に調査ができたのは、30日であった。しかし、この日も時折雨の降る中の調査であったため、トレンチの上にシートでテント状に屋根を作り作業を行う。そのため、とりあえず窯体側から2つ目の試掘坑(DT)のみに集中することにした。そして、また雨。次は本日9月2日である。
 今日は午前中に、後から堆積した表土を剥ぎ終える。続いて、窯壁片や製品を多く混入する赤褐色のガラガラ層が出てきたので掘り下げる。いよいよ物原層に当たった可能性がある。掘り進めていくと、ガラガラ層はトレンチの西側に土壙状に堆積しており、東隅は黄色土の下に黒色土、さらにその下に黄色土が堆積していることが判明。掘り下げ途中で今日は調査終了。 

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DT調査風景(南西から)
DTの掘削もいよいよ終盤。穴の中は何しろ蒸し暑くて、暗い。ついでに、土層が新しいことが分かったので、気力も今一つ。

 

 9月3日 天気:くもり一時ちょっとあめ



 DTの続き。14:00頃までにDTを黄色土である地山まで掘り上げる。しかし、東側に堆積した黒色層と黄色層を切って堆積しているガラガラ層から、現代製品が出土。ついでに、糸状のビニールまで…。一発大逆転、二次的に掘り込んで埋められた新しい層であることが判明。物原層はいったいどこへいったんだ???しかも、地山面は窯体と同じくらいの高さで、窯体から離れる(南側)ほど上がっている。物原には付き物の谷がない。整地面の可能性はないか、再び地山面を精査してみるが、やはり地山らしい。東隅に堆積していた下の黄色土が地山、その上の黒色土が旧表土らしい。これらの層には、まったく製品も焼土も含んでいなかった。
 こうした大外れも発掘にはままある。気にしていては、こんな商売やってられない。しかし、物原層どこへ…??
 考えていてもしょうがない。次はCTだ。小雨がチラついてきたので、先にDTの上に再びテント状にシートを張る。トレンチの深さは1.5m〜1.9mもあるので、シートを中に落とし込むと当然の事ながら雨が溜まってしまう。かといって、直接トレンチに被せると、誰かが入ってきた時に危険だ。トレンチの周囲と遺跡の入り口に進入禁止のロープは張るが、隠されると見たくなるのが人の常。意外にこうしたことに気を使う。
 CTは窯のすぐそばから物原(?)の小山に上がる斜面なので、堆積は浅い。表土を少し掘ると焼土や炭まじりの固く締まった土が現れはじめた。窯の作業段かもしれない。でも、ここで今日の作業は終了。次は6日、月曜日である。雨が降らなければ…。        
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 9月6日 天気:くもり後あめ



 やはり今日も雨。朝から少しぐずつきぎみだったが、途中で本格的に降り出した。いつもなら、朝から発掘を中止にしているところだが、今年はそうもいかない。午前中は雨の中なんとかしのいだが、土がべちゃべちゃになってきた。もう限界。CTで後世の盛り土除去を行ったが、さしたる成果もないまま、午前で中止することにした。肉体的にはともかく、精神的になんともきつい発掘だ。
 というわけで、こういう日は“番外編”。とりあえず、忘れていた調査体制について一言記しておこう。
 有田の調査は、通常、本当に牧歌的だ。なにしろ、今回も調査員二人に作業員四人。調査体制といえるほどのものではない。
 理由その1。農家がほとんどないので、人がいない。もちろん、都会などのように大学などもなければ、人材派遣会社もない。土木工事関係の事前調査の場合、建設作業員を借りることもあるが、賃金単価が倍になるので、そう手軽にというわけにもいかない。
 理由その2。物原部分の調査の際に、調査員二人で目が届くのは、せいぜい5〜6人までであること。これが最大の理由である。窯跡の調査というのは、実は窯体部分は慣れればさほど難しくない。作業員さんも長い人ではすでに十数年のキャリア、窯体部分についてはほとんど口出ししなくてもきちっと掘り上げてくれる。しかし、物原はキャリアだけでは歯が立たない。逆に知識だけでもだめだ。
 窯跡には、平地の遺跡にあるような、全体を覆う基本土層というものがない。各焼成室の出入り口から、おのおの廃棄するからだ。だから、土層は場所によって異なる。2〜3mも離れると、同じであることが不思議なくらいだ。しかも、基本的に焼成と失敗品の廃棄の繰り返しによって生じる層であるため、どれも似たようなものだ。さらに、同じ土層であっても、部分によって含有物が均一だとは限らない。同じ土層でも部分によって見た目は異なるし、逆に違う土層でも類似していることも珍しくはない。たとえば、窯体を修理した際の土を廃棄すると、大きな窯壁片などは谷の深い部分まで転がるが、細かい焼土などは窯体近くに止まる可能性が高い。つまり、部分によって色調も含め、ずいぶん印象が異なるのだ。ついでに、谷なので土層が水平にも堆積していてくれない。ほんとうにやっかいである。この状態で、あちこち掘られると、まったく収拾が付かなくなるのだ。
 つまり、好むと好まざるにかかわらず、否応なしに牧歌的な発掘になってしまうのである。しかも、あらかじめ調査予定区域が決まっているような調査でもないかぎり、次に掘る位置は前のトレンチの状態を見てからでないと決められない。窯跡の場合は、全体が一つの遺構であるため、より少ない面積で全体像を把握できる位置を逐一選んで、トレンチを設定する必要があるからだ。やはり、そんなに多くの人数は投入できないのである。

 ということで、今日は“番外編”の1。最近の天候では、これからも機会が増えそうなのが、ちょっと気掛かりである。 
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  9月7日 天気:あめ



 心配した側から、また雨である。目覚めると屋根を叩く雨音。本当に精神衛生上よくない。就業時間頃になると止んだりもする。でも、そのうちまた雨。発掘するのか、しないのか、心がゆらゆらと揺れる。今年は、この繰り返しだ。
 というわけで、さっそく“番外編”の2。今日は、発掘道具について触れてみよう。
 発掘風景をテレビなどで見ると、よく刷毛(手ぼうき)でこそこそとしている状態が映しだされる。一般の方々の発掘のイメージとして定着しているようだが、あれは、いわばマスコミの作りものだ。もちろん刷毛も使いはするが、あんなもんで土は掘れない。
 発掘作業に使う道具は、特殊なものを除けば、特に専用のものはない。農作業や土木作業用に汎用的に使用されているものである。また、状況によっては、意外なものを転用したりもする。ようするに、本来の用途にかかわらず、使えるものを使うのだ。
 たとえば、台所でつかう“お玉”。これも時によっては大変重宝する武器だ。“お玉”と発掘、おそらく想像が付かないだろうが、使い方はこうだ。幅が狭く深い柱跡の穴などを掘る場合、深くなると移植ゴテなどでは土をすくえなくなる。この時、移植ゴテの前半分を直角に折曲げて使ったりもするが、もっといいのが“お玉”だ。元々柄と先の部分が直角に折れており、ものをすくうようにできているので、土を掘り出すのに最適なのである。それから、雨で穴に水が溜まってしまった時も同様だ。この方が、本来の用法に多少近いかもしれない。
 しかし、“お玉”を片手に発掘している風景。確かに、テレビに映っている情景を想像しただけでもちょっと異様だ。新手の道具もさまざまだが、まだテレビ映りで刷毛を超えるものは見当たらない。

 道具については、まだいろいろ面白いことが多いので、機会があればこれからも触れてみることにする。明日かも…??        
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CT模式図

 

 
CT出土遺物

 9月8日 天気:はれ



 ひさびさに心地よい天気だ。これほど陽射しが快く感じたことは、これまでに記憶にない。
 今日は、午前中にCTを一応掘り上げ、引き続きDTの1m南側に幅2m、長さ3mのETを設定し、掘りはじめた。
 CTからは、A窯第8室の作業段と推定される遺構が検出された。東側は平らな面になっており、西に向かって2つの段がついている。東寄りの浅い段は、おそらく後世の撹乱と推定される。しかし、西側の深い方の段は、元の下室の作業段に続く、段の部分の可能性が高い。北端からは、柱穴らしい遺構が2つ検出されている。東側の平坦面は、表土の下に硬く締まった焼土を多量に含む黄褐色が堆積しており、その下にある時期の作業段面と推定される薄く炭層の残る面が検出された。まだ、その下にも面があるようだが、後ほど窯体との関係を見てから掘り下げることにした。 
 ところで、このCTで検出された作業段面は、DTの北隅で地山や旧表土を削って掘り下げられている部分と続くことが判明した。また、CT西隅で検出された深い段も、DTの西隅を南北に通じている深い穴の続きであることが判明した。つまり、DTの部分は完全に後世に削平を受けていたと思っていたがどうやら、本来の遺構や土層が遺存している部分もあるらしい。これについては、ETの掘削が進めば、さらに明確なことが判明するだろう。とりあえずETについては、本日はまだ、表土を除去している最中である。       
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 9月9日 天気:はれ



  どうやら物原は外してしまったようだ。北側のA窯のそばから南へCT、DT、ETと掘り進んでいったが、CTでA窯8室の作業段及び、窯の覆屋の柱が検出されたが、DT北端で作業段も終わり、後は地山の上に旧表土が載った状態でだらだらと南側へ地形が上がっていた。つまり、通常、物原部分は谷になっているものだが、この窯にはまったく谷がない。なるほど、これじゃ物原部分が小山になっているのも当然か。こんな窯は他には例がないため、窯跡の立地という視点では、確かに新しい知見だが、これでは調査としてはおもしろくない。
 今日は、CTで検出された作業段と窯体の関係を掴むために、A窯第8室の一部も開けてみた(FT)が、側壁はCTとの間に作られたセメント製の側溝の下にあたり、およそ見当はつくので掘り出すのを断念した。おそらく、CTの北端から50cmくらいというとこか。この程度なら、CTの作業段面が赤化してやや硬く焼締まり、炭が広がっていたのも納得できる。
 気を取り直して、明日からは思い切って小山となった物原部分を少し開けてみることにしよう。でも、どうせやるなら、最も古いE窯の土層が残っている部分を探してみたい。そうすると、A窯とE窯は登りの傾斜が異なり、E窯の方が傾斜が緩いため、上室ではE窯がA窯の真下に構築されているが、下に行くほど両窯の高低差がなくなり、第8室あたりでは、すでにA窯の方が低い位置に構築されている。つまり、E窯はA窯構築の際にすでに破壊され、E窯関係の土層が残る可能性は低い。まさにCT〜DTの状態がそれを表しているだろう。ということは、確実にE窯がA窯よりも低い位置に築かれている場所を選んで開ける必要がある。明日は、最初に窯体を出した、A窯第12室南側を開けてみる予定である。しかし、やっぱり深そうだな〜。     
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  No.1

 No.2
 No.3

 9月10日 天気:あめ



 書き飽きてきたが、また今日も雨だ。“番外編”3。発掘道具編の続きをお届けしよう。
 発掘道具の多くは、ごく汎用的な道具が多いことを前に書いた。スコップや移植ゴテ、鍬などさまざまだが、特に農業で使われるような道具の名称は面白い。かなり地方色が強いのだ。
 写真のNo.1は鍬(くわ)である。発掘でも、土を掘る道具として使う。でも、有田ではただ鍬とはいわない。“唐鍬”“朝鮮鍬”という。なぜこういうのかは知らないし、県内の他の地域のことも知らないが、何となく“唐”とか“朝鮮”とか付くのは有田っぽい。しかも、“トウグワ”“チョウセングワ”とは発音しない。“トーグァー”“チョーセングァー”となる。
 No.2は標準語でいえば、鋤簾(ジョレン)だろう。でも、有田では“カスリ”である。ものを擦(かす)るからだ。でも発音は“カスィ”てなとこかな。関東で使っているものより小さくて、先端には切れ味鋭い歯が付いている。つまり、関東式とは違い土を集める道具というよりも削る道具だ。有田に就職した頃、一度使い慣れた「関東式ジョレン」なるものをわざわざ注文して使ってみたこともあった。でも、伝統にはかなわない。有田の硬くて石がごろごろしている土には、まったく歯が立たなかった。もう二度と有田でお目にかかることはないだろう。
 No.3は箕(み)である。ご存知のとおり、土を集める道具だ。以前は竹製であったが、今はプラスチック(?)製が一般的。学生時代は、省略して“プラミ”と呼んでいた。でもほとんど竹で編んだような形をしている。いわゆる痕跡器官というやつか。これは、まったく意味が分からないが、有田では“ホゲ”という。やはり就職した当時現場で、「ソコンホゲバトンシャイ」といわれて、固まってしまった。だいたいそれ以前に、日本語だと思えなかったのだが。
 というわけで、道具編2はおしまい。あってほしくはないが、また機会があれば、さらに道具についても書いてみよう。       
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 FT調査風景

左側のシートの部分が窯体。写真右下から左上に向かって登っている。右側のこんもり盛り上がった部分が物原である。

  1.掛け分け笹文瓶  2.染付草木文瓶

3.荒磯文鉢

 9月13日 天気:くもり後はれ



 A窯12室と11室の境のすぐ南側、物原部分の調査をはじめた。東西2m、南北約3mほどのトレンチだ(GT)。位置関係から、E窯やA窯については、作業段しか検出できないかもしれない。しかし、B窯やC窯の物原は残っている可能性がある。あわよくば、E窯の物原の一部でも掛かってくれればと思うが、はたして結果はどうだろうか。いずれにしても、さらに数メートル高くなるため、今回はこれ以上南に拡張することはできない。
 今日はまだ二次堆積土を剥ぎ、ようやくプライマリーな層かと思われる土層を掘りはじめた段階だ。まだ、確実に生きた層だという自信はない。南側の深いところでは、すでに人の背丈ほども掘っただろうか。でも、まだ窯体の高さまでは、1mほどもあるだろうか。
 本日は、物原部分を掘ったので、遺物は大量に出土した。その中の3点を載せてみた。まだ堀りたてのほやほやだ。1点目は口縁部に透明釉、胴部に鉄釉を掛けた瓶。胴部には笹の銹絵が描かれている。2点目は、草木文の染付瓶。この窯は、瓶はやたらと出土するが、残りがいいので載せてみた。3点目は、この窯場で大量に出土している見込み荒磯鉢の底部。でもよく見ると、通常は一匹のはずの魚が左右二匹描かれている。こんな変な描き方をしたものは見たことがないが、今日は他にも出土しているので、この窯場では何も特殊な製品というわけではないらしい。高台内には「大明」の銘が配されている。
 というわけで、今日はおしまい。明日をお楽しみに。        
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 GT調査風景
ちょっと暗いが、写真中央がGT。(北から)

  土壙状に堆積したGT内の物原層

           染付柳文碗(GT今日出土)

         発掘調査報告書に掲載
D窯の染付柳文碗

 9月14日 天気:くもり後はれ後くもり



 今日は午後から、「天狗谷窯跡保存整備検討委員会」。とりあえず、朝から現地視察に備えて簡単に掘削した部分の清掃を行う。しかし、気分はGT。明日は休みだし、これからまた天候が崩れるというので、なんとか確実な物原層を確認しておきたい。
 11:00過ぎ頃から、GTの掘削を再開。昨日まで、またかというくらいに出土していた荒磯文碗や鉢はもうでない。いよいよ本当に1650年代前半以前の物原に当たっているらしい。土層も明らかに見慣れた物原層らしい堆積だ。A窯の床面よりもまだ高い位置であるため、B窯の製品だろうか?以前の発掘調査の際には、B窯からは見込み荒磯碗・鉢が多く出土しているが、築窯は荒磯製品焼成前ということか?
 ただし、この窯の土層はほとんど浅い土壙(穴)状に堆積しており、一般的な窯の物原とは異なる。GTの中でも、土壙があちこちに重なっている状態だ。だから、GT内でも部分によって平面に見える土層が複雑に異なる。本当に掘るのは難しい。このように土壙を掘って廃棄する方法は、初期の窯ではいくらか類例がある。
 土壙の一つにおそらく窯内から掻き出した砂層が堆積しているものがあった。これは、まったく土質が異なるから分かりやすい。ほかの製品もいくらかあったが、中からは、完器に近い柳文の碗(写真)がごろごろと10個体近く出土した。2・3個熔着しているものもある。発掘調査報告書に掲載されているD窯出土製品と文様は同じだ。D窯はさらに上部(東)だけで発見されている窯だが、おそらくもともとA窯かB窯の一部だろう。A窯かとも考えていたが、B窯の可能性も高くなったことになる。ただし、D窯は高台内無釉の製品が多いので、はたしてD窯の製品かどうか確定はできない。もう少し下げるとA窯の作業段が発見される可能性が高いので、結論はそれまで待つことにしよう。
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  天狗谷窯跡全景
 右側のシートを張ってある部分が当初物原を探したCT。上に見える白い土のう部分が窯体を調査した12〜14室付近。(西から)      

  A・E窯12室〜14室(南西から)
左側の一段高い部分がB窯。
      
 A・E窯12室〜14室(西から)
 E窯を埋めて、A窯を構築。それをまた埋めて左側にB窯を構築している。   
     

 9月15日 天気:くもり



 今日は現場は休みだが、遅ればせながら、昨日保存整備検討委員会のため窯体を覆っていたシートを全部開けたので、その写真をここで載せておきたい。
 これまでのところ、再調査を行ったのは、A窯の12〜14室とE窯の12・13室で、E窯の室名は下部の焼成室が残っていないため、以前の調査の際にA窯に合わせて仮に付けられたものである。“これまでの経過”の平面図と下の断面図をご覧いただければ分かるが、E窯をA窯の床面の高さまで埋めて、A窯を構築している。また、そのA窯も後にB窯の高さまで埋めて、B窯を構築している。B窯の上に構築されたC窯については、今のところ遺存を確認できていない。

 

 

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           GT南壁土層断面

 写真上の表土から深さ2m強。下半には黄色や赤色の土が何重にも堆積している。ちなみに、ピンポールにぶら下がっているのは蚊取り線香。(北から)

         A窯作業段中の製品(内面/外面)

 9月16日 天気:くもり時々あめ



 本日は、断続的に雨の降る中、なんとか調査を続けることができた。
 14日に続きGTの掘り下げを継続した。B窯の堆積かと推定される面の下に、何度かA窯の作業段が構築し直されているらしく、何枚も整地層である黄褐色層が堆積している。整地層と整地層の間は、部分によって赤褐色のガラガラの土層や砂層、炭層などが堆積しているが全体を覆っているものはない。ほとんどの整地層間で、部分によっては黄褐色土の上に直接黄褐色土が堆積している状態で、調査は土の違いの判断に終始悩まされた。
 遺物は、各整地層面の間の赤褐色土で比較的多く出土している。午前中の時点では、「日字鳳凰文皿」や、以前の調査の際にB窯第11室奥壁下から出土している「窓絵笹文碗」もあり、1650年代前半頃の堆積土と推定された。帰属する窯については、A窯の終わりごろかB窯の最初頃か微妙なところで、後ほど詳しく調べてみたい。午後からは、主にA窯の作業段面の掘削を行った。述べたように、困難を極めたが、おそらく1640年代の層までは行着いているようだ。
 終了時点では、ある時期のA窯の作業段面までは到達したが、まだ構築時点の作業段面には到達していない。明日天気がよければ、一応写真撮影を行い、掘削を続ける予定である。
 

 −おしらせ−
 こんな重要なところで、申し訳ありませんが、明日から出張のため、数日間留守にします。22、23日にはその後の経過をお知らせしますので、お待ちください。

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 9月23日 天気:くもり一時あめ



 ちょっと留守をしたが、有田に戻ってきた。しかし相変わらずの天候で、現場は先週の金曜日と今週の月曜日しかできなかったらしい。同僚によれば、もうすでに地山面に構築されたE窯の作業段まで出してしまったというが、まだ、現地を見る機会がない。詳細は明日以降発掘を行う日にお知らせする。
 ということで、今日は番外編として、天狗谷窯跡の豆知識をお届けする。
 天狗谷では、これまでにE、A、B、C、D、Xと命名された窯体が発見されている。前にも記したが、E、A、B、Cの順に構築されたことは層位的に明らかであり、D、X窯については、ほかの窯体の一部である可能性が高い。
 E窯は5室確認されており、発見されている部分は全長12.2m。下部はA窯の構築によって壊され遺存していない。焼成室の平均幅3.06m、平均奥行は3.05m。染付の碗・皿・瓶や青磁碗・瓶、鉄釉碗などが出土している。
 A窯は16の焼成室が発見されており、全長は53mであるが、下方はまだ続く可能性もある。焼成室の平均幅は3.24m、平均奥行は3.10mである。製品としては、染付の碗・皿・小坏・瓶や白磁碗・鉢・小坏・香炉、青磁の碗・火入れなどが出土している。
 B窯は全長43.4m以上、13の焼成室が確認されている。ただし、下から11室目の後ろで排水溝が発見されており、11室目が窯尻であった時期もあるらしい。焼成室の平均幅は3.68m、平均奥行は3.18m。製品としては染付碗・皿・鉢・瓶、白磁鉢・香炉、鉄釉皿などが出土している。
 C窯は5室確認されているが、全長28m以上、9室以上あったことは確実である。焼成室の平均幅は3.68m、平均奥行は3.44m。製品としては、染付碗・皿・小坏・瓶、白磁碗・皿・小坏・仏飯器、青磁瓶などが出土している。
 D窯は4室確認されており、全長11m以上、平均幅3.20m、平均奥行3.55mである。製品としては、染付碗・皿・瓶と白磁碗が出土している。
 X窯は3室、4.5m遺存しているが、おそらく同一時期の連続する焼成室ではなかろう。平均幅3.20m、平均奥行は2.80mで、染付碗・壷・瓶などが出土している。
 ところで、この天狗谷窯跡の位置する白川地区には、ほかに中白川窯跡、下白川窯跡があり、天狗谷窯跡は上白川の窯場である。承応二年(1653)の『萬御小物成方算用帳』には有田皿屋14山の一つとして、「中白川山」「下白川山」とともに「上白川山」の記載がある。しかし、白川地区の窯場は『竜泉寺過去帳』寛文八年(1668)に「上白川」とあるのを最後に上・中・下の区別がなくなり、寛文十一年(1671)からは「白川」名に統一される。つまり、遅くとも1670年代初頭までには天狗谷窯も廃止され、以後下白川窯跡が白川地区唯一の窯場として残った可能性が高い。
 また、天狗谷窯を築いたとされる金ケ江三兵衛は、『竜泉寺過去帳』によれば明暦元年(1655)に没したことが記されている。しかし、その直系の子孫については、以後「万治三年(1660)上白川三兵衛娘」とあるのを最後に、「寛文三年(1663)稗古場三兵衛女房」、「天和三年(1683)稗古場山三兵衛□」と稗古場の記載に変わり、1660年代初頭頃に稗古場山に移り住んだ可能性が高い。

 ということで、今日はおしまい。 
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 9月27日 天気:はれ



 ひさしぶりの晴れ。先週は月曜日、1日だけしか発掘ができなかった。ちょっと留守をしていたので、自分としてはほんとうにひさしぶりの現場だ。
 今日は、窯体下部の北側の草刈り、そして掘削(HT)が主な作業だ。CT〜ETで物原が検出されず、後述するGTでも、土層は検出されているとはいえ、まともな廃棄層といえるようなものは発見できなかった。ならば、本当に窯体の反対側(北)の谷に物原がないのか確かめるためである。ただし、窯体上部付近は岩山になっており、谷に接しているのは下部だけである。このHTについては、今日はまだ後世の盛り土層を掘削している段階で、明日以降お知らせする
 CT〜ETで物原が検出できなかったため、あらためて探すために開けたGTでは、A窯とE窯の作業段は検出された。また、浅い穴を掘って遺物を廃棄しているような状況も確認できた。しかし、まだ足りない。窯の規模から考えれば、メインの廃棄層とは考えられないからだ。土層は最下にE窯の作業段があり、その上にE窯の廃棄土が薄く乗っている。その上にA窯の作業段が構築されているという状況だ。しかし、窯体から南に2mほどで、CT〜ETと同じように地形が高くなりはじめる。つまり、やはり谷もないし、明確な廃棄層もないのだ。本当に不思議な窯である。これからもう少し、失敗品の廃棄の確認を行ってみることにしたい。


GT東壁
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窯体下部(西)側からの断面模式図

          A窯胴木間検出状況(西から)


胴木間とそれに続く焼成室の平面図
(原図=九州陶磁文化館)

         復元された窯跡(波佐見町・畑ノ原窯跡)

 10月1日 天気:はれ



 所用があり3日間更新をさぼってしまった。だが、調査は28・29・30日も行った。
 先日お知らせした窯体北側のHT。だめでもともとという気で掘ったが、当然だめ。やはり物原らしいものはない。本当に物原はどこにあるのだろう?
 B窯やC窯の物原については、一つの推論は成り立つ。あるいは、A窯の上にあった可能性だ。しかし残念ながら、以前のA窯の調査の際には、窯体を掘りだすことに主眼が置かれ、その有無に関する意識はなかったらしい。もしそうならば、GTで確認されたB窯の製品に近い遺物を包含する層が、その残りかもしれない。
 しかし、A窯やE窯については、まったく位置がつかめない。まだ、GTから南側の切り立った岩山までは10数mほど遺物が散布する小高い丘が続くため、あるいは発見できていないだけかもしれない。しかしGTでは谷は発見できず、むしろ作業段の南側は徐々に地形が上がりはじめている。ちょっと何ともいえない状態だ。しかし、今回はこれ以上は掘ることは困難だ。立木の伐採も必要だし、もう少し幅の広いトレンチでないととてもこれ以上掘ることは危険だからだ。それに、いつのまにか、もう稲刈りの季節だ。一見関係ないようだが、この季節になると作業員さんが誰もこなくなり、調査どころではなくなる。
 それから、A窯の胴木間を探すべく窯体の下部にトレンチを設定した。以前の発掘調査報告書に記載された胴木間はなんとも不格好で、胴木間ではない可能性もあったからだ。右(南)半分程度しか検出できなかったが、胴木間であることは確実である。ただし、前の調査では掘りすぎている部分と掘り足りていない部分があり、結果として変な形の胴木間ができ上がったらしい。窯の調査ははじめて、という大学生主体に調査しているため、このくらいいたしかたないことか。ちなみに調査で検出された胴木間の写真と、全掘するとこんな感じになるという図、復元するとこんな感じになるという写真を左に掲示しておく。よって、発掘調査報告書を見る場合は、A窯の胴木間の形は違っているのでご用心。
 その他、その北側でB窯胴木間を探すためのトレンチを設定したが、もう少し上(東)らしく、当たらなかった。まあ、これについては、窯体を復元する際には必要だが、今すぐにというわけではないし、とりあえずA窯との関係で位置は掴めているので、今回はこれ以上詮索しないことにした。
 

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