唐津と伊万里

 


 肥前の陶磁史に関する本などには、よく「唐津」や「伊万里」という言葉が使われている。ちょっと詳しい方なら、唐津とは肥前の陶器の総称、伊万里とは肥前の磁器の総称であることはご存知であろう。つまり肥前のどこの生産地で作られても、陶器は唐津だし、磁器は伊万里なのである。
 では、なぜ唐津であり、伊万里なのだろうか…??
 ごく初歩的な陶磁史用語なのでさまざまな機会に紹介されており、当然知っているという方も多いだろう。


 通常はほとんど例外なく、

「唐津や伊万里とは、積出し港の名称である。陶器は唐津の港から、磁器は伊万里の港から、船で運ばれたためその名がついた。」

 というように解説されている。

 しかし、本当にこの説明で矛盾なく解釈できるのだろうか?ここであらためて再検証してみる。

唐津(肥前陶器)
伊万里(肥前磁器)



 たしかに一般の消費者から見れば、その陶磁器がどこで生産されていようが、それほど重要なことではないかもしれない。また、たとえ正確な生産地を知りたくとも、通常それを知ることは現実的には困難である。よって、唐津の港から運ばれて来たものはすべて唐津だし、伊万里の港から運ばれて来たものは伊万里という解釈には、一見かなり説得力があるように思える。
 ところが、よくよく考えてみるとちょっと矛盾があることに気づかないだろうか?
 たとえば、江戸時代の肥前の藩について考えてみてほしい。陶器が唐津藩だけで生産されていたのなら、たしかに唐津の港から運ばれるのは当然かもしれない。同様に、磁器が佐賀藩だけで生産されていたのなら、もっぱら伊万里の港から運ばれたかもしれない。ところが、肥前には他にいくつもの藩があり、特に大村藩や平戸藩などでは波佐見や三川内といった、大きな陶磁器生産地を抱えている。つまり従来の説明では、こうした佐賀藩や唐津藩以外の大生産地の製品も、唐津や伊万里の港から積みだされたことになってしまう。ところが、各藩はそれぞれ自藩の港を持っており、わざわざ他藩から積みだす必然性はないのだ。いや必然性以上に、流通の拠点である港を他藩に委ねるということは、陶磁器生産の運命そのものを他藩に握られているのに等しいのである。
 では、次のような例はどうだろう?伊万里は肥前磁器の代名詞である。ところが実際には伊万里は肥前陶器の大生産地であり、磁器はほとんど生産されていない。しかも伊万里で生産された陶器も肥前陶器なので、当然のことながら製品の名称としては伊万里ではなく唐津である。つまり、従来の説明どおり解釈すれば、伊万里で量産している陶器をわざわざ他藩まで運び、ほとんどそこでは生産されていない磁器を積みだしたことになるのである。


 そろそろ、頭の中が混乱してきたかもしれない。はたして、この謎が解けるだろうか…??


 まあ、知ってしまえば「なーんだそんなことか」なのだが、意外に陶磁史用語にはこのような不可解な認識が通用している例がたくさんある。実は、これは肥前の陶器や磁器がどこではじまったのかということが重要なポイントなのだ。
 肥前では最初陶器のみが焼かれ、やや遅れて磁器がはじまる。最初に陶器の窯場が成立したのは、ほぼ間違いなく佐賀県北波多村と相知町の境にある岸岳という丘陵である。当時ここは波多三河守親が岸岳城を構えて治めていたが、唐津もその領内に含まれていた。その後、1593年に三河守が豊臣秀吉によって改易されたことにより、その領地は蔵入地となった。この時代官として寺沢志摩守広高が任命され、以後領地の中心は唐津に移り、江戸時代には唐津藩となる。ちなみに、肥前各地に窯場が成立し大規模な生産地となるのは、慶長の役(1597〜98)の後のことだ。
 つまり、最初に成立した岸岳周辺の窯場の製品が積み出されたのが、唐津の港だったのである。その後各地に窯場が成立し、各藩の港から出荷されたが、当然のことながら肥前の製品は大概的にはどこの製品であろうが類似している。だから、すでに定着していた唐津という名で総称されたのだ。
 よって、正確には、「肥前の陶器は唐津の港から積み出されたから」ではなく、「肥前の最初期の陶器は唐津の港から積み出されたから」ということになる。
 これは、伊万里と称される磁器の場合もまったく同様だ。磁器が最初に作られたのは有田である。しかし岸岳同様、山間部にある有田には港はない。藩内で最も近い港が伊万里だったのである。
 よって、磁器の場合も「肥前の磁器は伊万里の港から積み出されたから」ではなく、「肥前の最初期の磁器は伊万里の港から積み出されたから」ということになる。

 以上のように考えれば、まったく矛盾なく理解できるはずである。当然ながら、江戸時代を通じて伊万里の港からは、有田の磁器も伊万里の陶器も積み出されている。ただ、そうした製品は、当初の積み出し港の名前から、後にも唐津や伊万里と称されただけなのである。



 ところで、参考までに記しておけば、もちろん現在では、肥前の製品をこうした総称で呼ぶことはない。原則として唐津市で作られたものが唐津焼、伊万里市で作られたものが伊万里焼なのである。同様に有田町で作られたものは有田焼、波佐見町で作られたものは波佐見焼だ。
 では、なぜこのように産地区分が変わってきたのだろうか?最も大きな理由は、鉄道が敷設されて船で運ばれなくなったからである。船で運ぶということは、同じ藩内の各生産地の製品が港に集積されて運ばれるということである。だから、個々の生産地の名前は表に出にくい。ところが鉄道の場合は、個々の生産地内の駅から出荷するため、複数の生産地の製品がごちゃまぜになるということはないのだ。
 ただし、今でも、「これは有田焼の陶器です」と言われてもぴんとこないように、有田や伊万里で陶器を作っても、通常有田焼や伊万里焼とは呼びにくいようだ。詳しくは記さないが、こうした場合は、やはり唐津焼の○○窯と称している場合が多いようである。

 




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