第1002回 蓮如上人と 一休和尚 〜生まれた意義を明らかに〜

 平成24年 4月 5日〜

西本願寺から 発行されている 「大乗」の最新号の巻頭法語に
 勧学の 稲城選恵先生が 次のように お書き頂いています。

日本仏教史の室町時代を代表する高僧で、誰にでも広く知られているのは、
一休禅師と蓮如上人であろう。
入滅は一休禅師が、蓮如上人より十年前といわれている。

禅師は禅宗であるから肉食妻帯はしていない。しかし、蓮如上人は
親子夫婦の家庭生活の生涯の中で「自信教人信」の生活を送られたのである。
両者は禅と念仏で全くその立場を異にするが、接点もある。
それは、人間として生まれてきた意義を人々に明らかにされたと言うことである。

 仏教は元来、そもそも人間であるということに問いを持つ。
現代人は、この問いを持つことを知らない人が多い。
仏教やお寺、僧侶や経典はすべて死者に直結するもののごとく誤解している。
テレビの番組でも、お寺や僧侶が登場するのは、葬儀や死者に関係する
場面ばかりである。

仏教や僧侶は人生問題、生死問題の現実と、かけ離れているように
誤解されている。
それ故、若い人たちには全く現実とは無関係だとさえ思われている。

 確かに、現代の寺院、僧侶の現実は、死者儀礼によって成り立っている
側面が強い。しかし、死者だけと接しているわけではない。
遺族、生きている家族とも時間を共有するのである。
だからこそ、死者を縁とした寺院の儀礼や門徒宅へのお参りは大変重要な
意味が与えられているのである。

この重要なつながりを、ただ機械的にし、いつでもどこでも、
ありふれたもののように軽く受けとめると、教化などおぼつかないのである。
「自信教人信」という善導大師の言葉は、日々の門徒宅へのお参りの中に
生かされるのである。

 日常の暮らしの中で、僧侶・門徒が膝を交える大変貴重な法縁の場である。
これを死者にばかり目を向けるものとし、自らの生死に心を傾けないがために、
仏教の教えはあっても、人びととは遊離したものとなっているのである。
寺院・僧侶の深く反省すべきものである。・・・・・・


仏教は人間であるということに問いも持つもの、
この問いを持つことを知らない人が現代は多いと。
また、死者にばかり目を向けるものとして、自らの生死に心を傾けない
ために仏教は人びとと遊離したとあります。

こころして この言葉をいただきたいと思います。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は 4月12日に新しい内容に変わります。


         


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