第1011回 私の一冊 〜信仰ということ〜

 平成24年 6月7日〜

こんな文章に出会いました、石田慶和先生の「浄土の慈悲」という本の中に、
私の一冊   西谷啓治著 「随想集 風のこころ」という

文章がありました。


 西谷啓治先生の書かれたものの中で、私がもっとも深く心をうたれたのは、
この随想集におさめられた「信仰といふこと」という文章です。


短い文章ではありますが、ここには「信仰」ということがどういうことなのか
ということが、あますところなく説き明かされています。

  どんな宗教でも、「信」ということを言わない宗教はありません。
しかしその「信」ということがどういうことなのか、そこにどういう問題が

あるのかということはあまり明らかではありません。

ただ「信じなさい」というだけで終わっているものが多いのではないでしょうか。
西谷先生はその「信」ということに含まれた意味と問題を、実に見事に
解明されています。

  先生は初めにこう言われます。「信仰といふものには、いつでも、自分を
捨てるといふことがなければならない」「自己を捨てるといふことは、
神とか仏とかに自分のすべてをうちまかせ、神の生命或いは仏のいのちに
生かされるといふことである」。


そして先生は、「信仰の難しさといふことが、自分を捨てることの難しさを
意味するとも言へる」と言われて、その「自分を捨てることの難しさ」を明らかに
されるのです。

浄土真宗の信心は他力廻向の信心であり、「自分を捨てる」というようなことは

言わないと思われるかもしれませんが、それは 大きな誤りです。

信心の反対は疑惑ですが、疑惑ということは、自分を頼りにし、自分を
捨てないということです。
それが自力にほかならないことは言うまでもないことでしょう。

「自分を捨てる」ということは、自力を離れて他力に帰するということなのです。

   しかし、人間は、そういう自分を捨てて神や仏に仕えるというような生活に
入っても、なかなか本当に自分というものが捨てきれません。

かえってそこに、それを誇りとする気持ち、他の人よりも勝れたものになった
というような気持ちが現れてくる、と先生は指摘されます。

それが浄土門でいう「本願ぼこり」です。
自分を捨てたという立場が一層深い「我」の立場になるのであり、
そうなりやすいところに信仰の難しさがあるのです。


浄土門で、悪人と自覚する、むしろ自覚せしめられることが信の根本的な
一契機になっているのは、信仰によるそうしたたかぶりの危険を破るためである、
と先生は言われます。


  しかしさらに、そういう悪人であると自覚する心も、信仰的反省のきびしさを
欠く場合には、またたかぶりに変わることも可能であり、そこに卑下慢という形での

「我」の現れがあると先生はいわれます。

「〈我〉は 〈法の深心〉といはれるものの衣を着て現れ得るし、〈機の深信〉と
いはれるものの衣を着て現れ得る」のです。

  そういう増上慢、卑下慢の両方の逸脱を破って、自己をまったく捨て切った処に
「自然法爾」という心境があり、「信仰の難しさ〈自然〉の安らかさに帰ることの
難しさ、もともとの〈ありのまま〉に帰ることの難しさ」であろうとおっしゃっています。


  昔から浄土真宗で「機法二種一具の信」と言ってきたことの意味を、
これほど明快に説きあかした文章を私はほかに知りません。


   という文章です。

妙念寺電話サービス 次回は、6月14日に新しい内容に変わります。


         


           私も一言(伝言板)