第1029回 判断の基準は 〜何をご本尊とするのか〜

 平成24年10月11日〜

こんな話をききました。壮年会の法話会でのことです。

ご門徒になるとき 帰敬式 おかみそりを受けますが、
そのときに 南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧と口にします。

その 南無とは どんな意味でしょうか、
南無とは、帰依します 拠り所とします。 判断の拠り所 
これはやっていいことか やってはいけないことか

判断するときの基準を明確にするということです。

帰敬式 敬 敬う 何を尊敬するか 何を敬うか
その違いによって 判断の基準が違ってきます。
例えば 自分が一番尊い 自分は間違いないと

自分の経験に 人生の経験によって判断する 間違いを起こす

本尊を定める 一番尊いものを 定める
阿弥陀さまを 仏さまを 最も尊いものと定めて
その仏さまのおっしゃることを判断の拠り所として 生きて行こうと

努力する人を 阿弥陀さまの信者という そういうことを 信心という。
そういうことを 信仰という


ご本尊に 私がなっていたら それは 私教である
私の考えに間違いない 自己中心教 といえる
ご本尊は 自分 自分が 神 仏の立場にたっている
言い方を変えると わがまま教

わがままがしたいためには 何が必要か
お金 お金が一番大切なんだと 判断の中心におけば

お金になることが良いことで ならないことはつまらないこと
お金が一番大切 それが正しくて それでないものは おかしいこと
お金が判断の基準 ご本尊になる 判断の基準になる
だから 宗教は 怖い 人格を変えてしまう

お金になること なら 普通の感覚でしてはいけないことでも
して良いことになる 判断基準が お金に なっている



では 仏さまとは どういう方ですか
自分の幸せを 他に譲って 他の人々の幸せを こころから願い
実現しようとされるかた こうゆうお方を仏さまという
仏さまの反対の存在を 凡夫という


仏さまは 自らの幸せを他に与え 他の人々を幸せならしめようという
お方 こうゆう方を 仏さまといいます

自らの苦しみを他に与え 自分だけ幸せにしようとしている人間のことを
凡夫という。

自らの幸せをギュウと握って 自分の苦しみは他にぶっつけ 
自分だけ幸せになったらいいやと 考えているような、

考え方の生き物のことを凡夫という。

そこで 仏さまを 尊敬し 仏さまを尊敬するということは
自分自身は尊敬するに値しないという 自覚を持つ そういう自覚を
持ち得るものを 仏教徒という
 浄土真宗の門徒と呼ぶ

そういうことが基本にないと 宗教とか信仰ということが持つ
大切な意味が 受け止められない。

仏教とは 仏さまとは何ですか 宗教とは何  信仰とは 何 
きちんと認識しておくことから
 はじめないといけない。・・・・・


 こういうお話を 聞かせていただきました。

  妙念寺電話サービス 次回は 1018日に新しい内容に変わります。



         


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