第1038回 追善供養を超えて 〜歎異抄 第五条〜
 
  平成24年 12月 13日〜

親鸞聖人のことばを お弟子さんが書き残した 歎異抄の
第五条に 追善供養のことが 書かれています。

まずは 原文です。

 親鸞は 父母の孝養のためとて、一返にても 念仏もうしたること、
 いまだそうらわず。
 そのゆえは、一切の有情は、 みなもって世々生々の父母兄弟なり。

 いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。
 わがちからにて はげむ 善にても そうらわばこそ、 念仏を回向して、
  父母をもたすけそうらわめ。

 ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりを ひらきなば、六道四生のあいだ、
 いずれの業苦に しずめりとも、 神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと 
   云々



 それを 梯實圓先生の 現代語訳では

 親鸞は 亡き父母に 孝養をつくす ために 追善回向するというような
 意味の念仏を 申したことは まだ 一度もありません。

 そのわけは、すべての生きものは みな 果しもない 遠いむかしから、
 生まれかわり 死にかわり 無数の生存を繰りかえして きたものです。

 そのあいだには、お互いに、あるときは 父ともなり、母ともなり

 また あるときは兄ともなり、弟ともなりあったことが あるに
 ちがいありません。
 生きとし生けるものは、みな なつかしい父母・ 兄弟なのです。

 この生を終わって、次の生で 浄土に生まれ、仏陀になったときには、
 一人も のこさず救わなければ ならないもの ばかりだからです。

 それに、念仏が自分の力を はげまして 積んでゆく善根功徳であってこそ

  その念仏を 父や母に施し与えて 助けるということもありましょう。

 しかし そうではありませんから、 念仏を追善の資とすることはできません。

 ひとえに自力のはからいをすてて 本願他力に身をゆだね、浄土に 往生をして

 すみやかに仏陀としてのさとりを開いたならば、父や母が、たとえ六道の迷いの
  境界にあって、さまざまな生を受け、苦しみの中に沈んでいたとしても、
  さとれるもの のみのもつ、超人的な救済力と、たくみなてだてをもって、
 なには さておいても まずこの世で ことに縁の深かった ものから
  救うて ゆくばかりです、 と仰せられました。

 このように 訳していただいています。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
 次回は、1220日に新しい内容に変わります。


         


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