第1039回 確かな道 〜この如来に救われていく〜

 平成24年 12月20日〜

 親鸞聖人の時代は 仏教とは 怨霊のたたりを鎮め 病気や災難を
逃れるための「みたましづめ」の呪術 とか 先亡者の罪の報いを軽く受け 
少しでもよいところへ生まれられるように善根功徳を亡者へおくりとどける 
追善の儀礼を教えるものだと理解されていました。

 しかし 親鸞聖人は これを 否定されました。
追善回向としての念仏を 親鸞聖人は 完全に否定されたのです。

それは、追善供養よりも もっと確実に、 もっと深く、あたたかく
人びとの悲嘆をいやし、生と死にまことの充実と 安らぎを与えてゆく道が

あることを 確認されたからだと思われる。

生と死を 超えて 生と死を包む 広大無辺な 大悲の智慧の領域を

弥陀の本願として 具体的に説き示し、すべては、その大悲智慧の中の
光の中に 包容されている。

 と告げているのが 『大無量寿経』 の教説だったのです。

人間の手の決してとどかない 地獄の闇の底までも 如来の智慧の

光はとどき、人々の心の闇を啓(ひら)き 苦悩をいやし、あらゆる
桎梏(しっこく・ 足かせ手かせ)から解放してゆくと 説かれています。

無量寿経に説かれる教え お念仏の教えにゆだねる
自分自身すら救えない 無力なものが,生と死の境を異にしたものを 
救う力 など あろうはずがありません。

しかし、こんな愚かな私と、そして すべてのものに、すでに阿弥陀仏の

救いの手が さしのべられていると 聞くならば、自身の救いを
如来に おまかせしたように、 亡き人々の救いも 如来の本願力の
はたらきに ゆだねるべきでしょう。

逆にいえば、先立った父や母や姉を 確実に救いたまう如来がましますから、
私もまた 安心して この如来に 救われてゆくのです。


経典を読誦することは、このように すべてのものを わけへだてなく
救いたまう 阿弥陀仏の本願の ましますことを、釈尊から お聞かせに
あずかっていることでした。

また、南無阿弥陀仏と,み名を 称えることも、永遠な「いのち 」 と 
光のみ親のいますことを、 その み名を通して聞きひらき、
わが身の愚かさを慚愧しつつ われもひとも もろともに救いたまう
広大な仏徳を鑽仰していることでした。

 こうして 経典を読誦することも、 み名を称えることも、決して
その功徳を死者に施すためでは なかったのです。


 私に施したもうたように、すべてのものに 名号を 施し与えて
救いつつある如来の いますことを教えられていることであり、
また、その広大の恩徳をたたえて いるほかはなかったのです。

 そのゆえ「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、
 いまだ候はず」といい切られたのでした。

       (聖典セミナー 歎異抄 梯實圓師 第5条より部分) 

妙念寺電話サービス次回は 12月27日に新しい内容にかわります。

         


           私も一言(伝言板)