第1048回 出家と在家をえらばず 御文章 出家発心章 ~

 平成25年2月21日~

伝統的な仏教では、在家のままで仏のさとりに直結することは
認められませんでした。

在家の者は出家の修行を支える外護者として出家者教団から
尊敬をうけてきましたが、在家の者は出家者より

さとりに遠い存在と位置づけられていたのです。

このような状況から、出家と在家をえらばない仏道を目指されたのが

親鸞聖人の師匠の法然聖人でした。

法然聖人が勧められた念仏一筋の教えは、さとりから切り離されていた
在家の人びとを仏道に直結されたものでした。

家庭を営み、家族を養い、財産をまもらねばならない在家の生活は、

順境もあり、逆境もあり、愛と憎しみ、怒り、悲しみ・・・・・
決して平坦ではありません。
いわば苦悩の中を生き抜くことといえましょう。

 世俗を捨て、仏さまが定められた戒めにしたがう出家の生き方は、
厳格な反面、愛憎をこえた安らかな生き方といえます。

それに比べれば在家には、想像を絶するほどの厳しさが秘められています。

法然聖人はそのような在家を支え、愛憎の身をも輝かすものこそ仏教であり

それを阿弥陀仏の本願念仏に見出されたのでした。

法然聖人の真意を承けられた親鸞聖人の教えが「平生業成」
(平生の信心によって
 往生が決定する)です。

古い時代から人びとは常識的に、数多くの念仏をして、それを功績として

臨終に阿弥陀仏にお迎えをいただき(臨終来迎)、往生しようと願って
いました。ですから、そのような考え方の人びとは、臨終のお迎えは
往生の必須条件であり、来迎の有無が往生を決定すると考えていました。

この立場を平生業成に対して、臨終業成説とよびます。

この従来の浄土教の常識をくつがえしたものが「不来迎の談」だったのです。
臨終業成説は、人々に大きな魅力を与えてきました。

「死」は自らの経験として語ることのできない、未知なる不安と暗黒の領域です。
その暗黒の彼方から、光明燦然と阿弥陀仏が迎えに来られるとの教えは、

「死」に怯える人びとに、希望を与える大きな力であったはずです。

ただ、臨終業成説ではだれでも迎えられるとは限りません。平生から念仏を
続け、その功績によって臨終を安らかに迎えた者のみ来迎にあずかるというのです。
ですから、浄土を願う人びとは、ひたすら臨終の来迎を願って念仏を
続けていたのです。

 念仏は在家出家をえらばない仏道であるといわれても、来迎によるすくいは、
常に「死」を念頭におかねばなりません。

なぜならば「死」を契機にしてのみすくいが実現されるからです。

念仏が「死」を超える道であるなら「生」を支えるものは何なのか。

「生」と「死」を支えるもの、それが明らかにならなければ、真の在家仏教は
成り立ちません。

それを本願の念仏に見出してくださったのが、親鸞聖人の、信心を肝要とされた

平生業成のご勧化だったのです。

  天岸浄圓師 御文章ひらがな版を読む(本願寺出版社) 出家発心章の解説より一部

 妙念寺電話サービス次回は 228日に新しい内容に変わります。

 

         


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