第1058回 往き易くして人なし 〜疑い深いために〜

 平成25年 5月2日〜

「無量寿経」の中に 「易往而無人」 という言葉があります。

浄土は 往生しやすいにもかかわらず、その浄土には人がいない、
という衝撃的な一句です。

そして「その国逆違せず、自然の牽く(ひく)ところなり」と続きます。
「その国、逆違せず」とは、「易往」の理由を示していますが、
「その国」とは、浄土のこと。

「逆違」の「逆」とは、逆戻りの意味で、いったん浄土に往生した者が
迷いに逆戻りすることはないことを表します。

(還相廻向は、さとりを開いたものが衆生教化のために戻るのであって
迷いに逆戻りするのではありません。)

「逆違」の「違」とは、例外がない、外れるものがいないということです。

釘を 磁石の前に置いたら、どんな釘でも磁石に引き付けられます。
折れていようが、曲がっていようが、大きかろうが、小さかろうが
磁石は同じように引き付けます。

折れているとか曲がっているとかは、人間の側で言うだけで、
磁石にとっては、何も関係ありません。


蓮如上人の「御文章」(易往無人の章)には、「富貴(ふき)も貧窮(びんぐ)も
いらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず」と、
富める者も貧しき者も、善人も悪人も、男も女も、阿弥陀如来の
ご本願の前では、みな等しく救いの目当てなのだと示されています。

 釘が磁石に向かって動くのは、釘に動く力があるからではありません。
磁石の磁力によって動かされています。それが 「自然の牽くところ」。

私が浄土に往生できるのは、本願力によって牽引されているからです。
私の側には何一つ仏因となるべきものがない。

そのような私のために本願力が成就されたのです。
浄土への道を歩み、念仏申しているのは私です。

しかし、その元となる力は阿弥陀さまの願力です。

他人の悪口を言うのが楽しく、愚痴ばかりこぼす私の口から
お念仏が出るのは何故か。
仏力・他力以外にはありません。

釘が磁石にくっついた時、その釘にまた別の釘がくっついていきます。
磁石についた釘に磁力がはたらき、釘が磁石のはたらきもするのです。

念仏申す身にならせていただいた、まさにその時に、私は如来さまの
磁場のはたらき場所となりました。

如来さまの本願力に取り込まれた私を通して、新たな仏縁が伝わって
いくのです。

それなのに「無人」なのは何故でしょう。
それは私たちが疑い深いからです。

先ほどの「御文章」では、「浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひと
まれなれば、浄土へは往きやすくして人なしといへるはこの経文のこころなり」と
示されています。

 (大乗平成25年5月号 本願寺総合研究所 満井 秀城 教学伝道研究室長

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次回は 59日に新しい内容に変わります。

 

         


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