第1069回 信心と利益  〜本願を信じることで〜

  平成25年 7月18日〜

 信心と利益  〜新しい価値観に生きる〜  という文章に出あいました。

 いずれの宗教においても、信心を語らないものはありません。
なかでも浄土真宗は信心中心の宗教で、他の宗教でいう信心とは、
その信心の性格が著しく異なっています。

一般には、○○さんを信心してお百度を踏んだというように、信心は
お百度を踏むための前提条件にすぎません。
御利益を得るための基礎資格のようなものです。

 ところが、浄土真宗でいう信心は それが究極なのです。

阿弥陀如来の本願を信じることによっていっさいが完結するのです。
それ以外に私に求められるものも、また私が求めていくものもありません。
信じるということのなかに無限の過去から流転してきた生死のきずなを断ち切って、
永遠の法に浴して生きる大安心を感じるのです。

信心を得ることによって、今まで生きてきた価値観に別れを告げ、今まで
しらなかった新しい価値観の世界に生まれ変わるのです。

昨日までは人間的欲望を中心とした世界を生きてきました。
愛情や富、健康や名声は好ましく、憎悪や貧困、病気や別離は嫌悪する
生活でありました。

しかし、新しい価値観に生まれ変わった私には、貧困や病気はつらいことに
変わりありませんが、貧困は貧困なりに、病気は病気なりに、私の人生に
意味あるものとして再発見されるのです。

憎悪や別離のようなものさえ、キラッと光りを放って輝くのです。

 ですから、信じて何かを実践して、その結果、ご利益をいただくという
形の信心とは言葉は一緒であっても、本質的に異なるのです。
浄土真宗でいう信心は、信じることでありながら、同時にそれはご利益でも
あるわけです。

何を信じるのか  浄土真宗の信心と他の宗教のそれを区別して、
浄土真宗では信心であって信仰ではないという人がいます。


しかし、信仰という語と区別すれば、信心が明らかになるというものでも
ありません。
現に、神信心とか「鰯の頭も信心から」というような使い方がされますし、
自力の信心という語もあります。

信心という語自体も、決して浄土真宗の独占物ではないのです。
信心の中味の違いは、「何を信じたか」という信心の対象により決定するのです。


怨霊を信じれば、恐怖心を生じるでしょう。お金儲けの甘言を信じれば、
やがて破たんの憂き目をみます。
奸臣を信じた君主は、やがて身を滅ぼします。

釈尊によって発見された、涅槃への法則である阿弥陀如来の本願を
信じることにより、私どもは生死のきずなを断ち、新しい価値観の世界に
生まれ変わるのです。

                 霊山勝海師 やさしい真宗講座 
                   み教えに生きる 本願寺出版刊より

 妙念寺電話サービス次回は 7月25日に新しい内容に変わります。

         


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