自分自身を引き受ける
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
お医者さんで念仏を喜ばれた、福井県の米沢英雄さんの
こんなお話を聞きました。
お子さんが二人とも、小頭症という難病にかかられた
若い奥さんからの、質問に答えられた米沢さんの返事の手紙です。
宗教とか信仰とか言われますが、
私自身が信じていることは、
親鸞聖人の見いだされたことが真実ではないかと思いますので、
親鸞聖人の後を歩もうとしているのです。
親鸞聖人によると、貴方が思っていられる信仰というものは、
罪福心と言われるもので、自分の外に、大きな力を持った神とか
仏とかを想定し、これに祈りこれに頼って、
自分の願いを適えてもらおうと言うもので、
自分の好都合なように祈り、自分の不都合な状態が
去るように祈るというもので、親鸞聖人はこれは、
真実の信仰ではないと言われます。
これは、自分の欲望を向こう側に置いて、拝んでいるのではないか。
確かに、人間の力を越えたものは存在します。
手近かな所で、私の息を出入りさせているもの、
これはもう私の力ではありません。
医学はこれを自律神経ということで説明しただけで、
私が息をしている事実は、なんといっても不思議というほかありません。
貴方が個人的な意志や願いに、そわないお子さんを
持たれていることも、不思議といわざるをえません。
これは厳粛な事実としかいえません。
どうしてなのか、理由は私たちにはわかりません。
そこで、仏教ではこれを宿業といっています。
私たちは、私たちを生死させている、大きな力の前では、
誠に無力でありますので、私たちに出来ることは、
その宿業を身に引き受けて力いっぱい、
生き抜かせていただくという、謙虚な態度だけであります。
真実の信心というのは、これ以外はありますまい。
あたえられたものを宿業として、これは逃れられないのですから、
身に引き受けて、生き抜かせていただく、
この生き抜く力も私たちには、不思議に与えられています。
しかし、私たちはこの力を見くびっているようです。
そして、何か外の力、他人を頼り、すがると、
なんとかなると思っている。
そして、右往左往する、これを迷いと言うのです。
自分が自分であることに満足すること、
南無阿弥陀仏ということは、宿業を引き受けた、
自分を自分として、引き受けたことではないか。
体は、ちゃんといただいておきながら、
心はなかなかいただけない、南無阿弥陀仏は、
領収書である。
自分を引き受けた、確かにいただきましたという、
領収書であると思います。
とおっしゃいます。
南無阿弥陀仏は、自分自身を引き受けた領収書であるという、
米沢英雄さんの言葉、どのように味われますか。
自分の勝手な願ごとをする念仏ではなく、
報恩のお念仏のことを、このように表現されたのだろうと、思います。
妙念寺電話サービス、次回は、5月15日に新しい内容に変わります。
お電話ありがとうございました。
( 平成 9年 5月8日〜 第224回 )