二度のお礼も欠ける

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

一年中で一番季候も気持ちも良い10月を迎えました。

ところで、今月の法話カレンダーをご覧にいただきますと、


 ともすれば 二度のお礼も 欠くるなり  

   三度の箸は 忘れざる身も


とあります。


これは広島県の三次市の小野逸子さんの和歌ということですが、

こんな意味ではないかと思います。


「 どうかすると、大恩ある阿弥陀如来さまへのお礼を

欠かすことがあります。

 朝と夕、たった二度のことですのに。


 それに引き換え、一日三度の食事をいただくことは

 決して忘れませんから、結局、如来さまを知らず知らずのうちに

 粗末にしている私なんですね。あさましいことです。」

この歌の作者の小野さんが、問題とされているのは、

如来さまへのお礼と、三度の食事をすることと、

どちらを大切にしているか、どちらを中心にして、

私は今日の一日を生きているか、ということです。


つまり、「食べる」 のと、「如来に手を合わす」 のと、

どちらを人生の中心において生きているのだろうか。

仏のおおせが中心なのか、煩悩が中心なのか、ということです。

一般的な常識では 「 合掌することや、お念仏すること 」 よりも、

「 食べること 」 が 第一でしょう。

なぜですかと、質問すると、「 食べなければ死んでしまうから 」 と

答えが返ってくるに違いありません。


しかし、その大事な食事をしておりながら、残念ながら、

結局は死んで行かねばならないのが人間です。

やがて老いていき病んでいき、死んでゆくことからは

誰ひとりとして逃れることが出来ないことは、

頭の中では十分に承知しておりながら、

「 食べることが第一である 」 と思っています。


仏教は、ーめざめーが肝要です。

「 めざめ 」 とは迷いに気づく世界です。

「 二度のお礼が欠くるなり 」 とは、迷いに気づいていることばです。

一言も言い訳していません。

すばらしいことです。


お念仏をもうす身にならせてもらうことは、自分の愚かしさを、

知らせてもらいながらの日暮らしです。

これまで気づかなかった自分の相(すがた)を

教えていただくことです。 縁に出会えば、

何をしでかすかわかりませんが、弁解や言い訳を

しないですむような、お念仏の生活を

おくらせていただきたいものです。




10月の法語カレンダーの言葉と解説の文章を

有難く味わせていただています。

妙念寺電話サービスへお電話ありがとうございました。

次回は、10月9日に新しい内容に変わります。

  ( 平成 9年10月 2日〜 第245回 )