念仏の信とは
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
長野での冬のオリンピックも終わりました。
メダルを獲得して喜ぶ選手と、
残念ながらメダルに届かなかった選手と、
競いあうスポーツの世界では明暗が別れます。
ところで、3月の法話カレンダーには、
念仏の信とは 仏の大いなるまことを
頂戴することである という神戸商科大学の名誉教授、
井上善右衛門先生の言葉が掲載されています。
蓮如上人の御一代記聞書に学ぶという本を、
書かれた中の一節に、仏教は真実の教えです。
迷いを破るものは真実です。
念仏の信とは仏の大いなる真実を頂戴することです。
仏の心が大慈悲となって、この迷妄の(めいもう・まよいいつわりの)
我執に浸透して下さるのです。
とあります。
「 念仏の信 」 とは、お念仏によって得ることができた信心、
さらに言えば、南無阿弥陀仏の名号の大きな
はたらきによって得ることのできた信心ということです。
浄土真宗の信心は、如来廻向の信であって、自ら発するものではないのです。
法然上人の元におられた親鸞聖人が、
「 お師匠さまの法然上人のご信心と、弟子である自分たちの信心とは、
少しもかわるところがない、ただ一つである
」 と
申されたことによって、先輩の方や同僚との間で、
論争が起こりました。
よく勉強し、自分たちを教え導いて下さる法然上人と、
弟子の信心が同じとは、若い弟子が、生意気なことを
いうのはけしからんと言うのでしょう。
これに対して法然上人は、信心に変わりがあると言うのは、
自力の信心のことであり、他力の信心は、仏様から頂戴する
信心であるので、自分の信心も、まだ日の浅い人の信心も、
変わることがない同じ信心であると、おっしゃったとあります。
頂戴する信心とは、如来の大慈悲心のありったけを
南無阿弥陀仏の名号の上に成就して 「 我にまかせよ、必ず救う
」 と
いう如来のまことをいただくのだと言うことです。
「 念仏の信 」 といわれる他力の信は、
私が間違っても、決して間違うことのない仏の確かさを
聞きひらくことによって得られるものです。
私たちにも真実があるようですが、人間の真実心ほど、
揺れ動き不確かなものはありません。
自分自身を守るためには、うそ、いつわり、へつらいを
繰り返さざるを得ないところに凡夫の悲しさがあります。
井上先生は、仏の大慈悲に心開かれるとき、
必ず和らぎが胸におとずれます。
煩悩が皆無くなるのではありませんけれども、
不思議に心に余裕が生じて柔らぎを覚えるのです。
有り難いことです。と書かれておられます。
如来の真実心に出会うことで、人間の意識の底にある、この我執を
知らされて、はかり知ることのできない 「 仏の大いなるまこと
」 を、
体いっぱいに受けとめる人生を歩みたいものであります。
妙念寺電話サービス、次回は、3月5日に新しい内容に変わります。
お電話ありがとうございました。
( 平成10年 2月26日〜 第266回
)