喜ぶ姿を
 
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
車でお参りしている途中で、
ラジオを聞くことがよくありますが、
育児の相談の中で、こんな内容がありました。
 
「 一月前から、やっと、おっしこを知らせてくれていた、
男の子が、ここ一週間知らせなくなり、また、しくじっています。
 
何故でしょうか、どうすれば、また教えてくれるように

なるでしょうか 」 との
若い母親の質問でした。
 
指導のお医者さんは 「 また、知らせてくれるようになりますよ。
ところで、子供さんが教えてくれたとき、お母さんは、どうしていましたか 」
「 ちゃんと、ほめてやっていました。」 と母親が答えました。 
 
お医者さんは、「 ほめるのも良いことですが、お母さんうれしい。
教えてくれてありがとう。うれしいと。
 
お母さんが喜ぶ姿を見せた方が効果あるかもしれませんよ。」 と、
お医者さんは、答えていました。
 
誰が言い出したのか、「 ほめる教育 」、
何でもほめてやろうという教育方針が、正しかったのか。
 
このごろ疑問に思えるようになってきました。
牛や馬、犬や猫などの動物ならともかく、
人間は、親の悲しむ顔で、悪さをやめたり。
 
親の喜ぶ顔に、発奮して努力したり、誰でも、
そんな記憶があるものです。
 
ところが、ほめる教育というのは、親が高いところに立って、
子供を見下ろすように、誉めたり叱ったりしているのではないか。
大人の目で、経験者の価値判断で、良いとか悪いとか評価をして
いるのではないかと、思えます。
 
同じ人間として、同じ高さに立って、
一緒に悩み、一緒に考え、一緒に苦しんでは
いないのではないかと思えます。
 
人間として共に感じあえる大事なことを、今私たちは
忘れてしまっているのではないかと、思いました。
 
仏教のことを、よく考えてみると、
お経は、誉めるという言葉は、余りないようです。
 
仏様は、ほほ笑まれた、喜ばれた。歓喜。
などと感情豊かな表現で書かれていることが多いようです。
 
近ごろ、若者達が感情表現が出来なくなっているとのことが聞かれます。
 
知識中心で頭でっかちにする教育が、子供達のこころを
蝕んでいるのではないかと思います。
 
昔から顔色をうかがうという言葉がありました。
あまり良い意味ではなかったようにも感じますが、
言葉での表現だけに頼らずに、お互いに表情で伝達し会える、
そんな生活を取り戻すことも大事ではないかと思います。
 
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と同じ言葉を繰り返すことは、
その同じ言葉の中に、阿弥陀様と出会え、交流出来るだけでなく、
人間同士も、感情を、心を感じあえる、
そんなお念仏の仲間でいたいものです。
 
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、6月18日に新しい内容に変わります。
 
                      ( 平成10年 6月11日〜 第281回 )