不 思 議

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

日ごろ何げなく使っている言葉の中には、

多くの仏教の言葉がありますが、

不思議という言葉もその一つです。


一般的に不思議というと、奇蹟といわれるような

人間の理解出来ない神秘的なことだと

考える人が多いようですが、仏教本来の不思議とは、

このような意味ではなく、

仏のさとりの境地を表す言葉でした。


そのことを、不思議という言葉だけではなく、

不可称、不可説、不可思議という熟語として

使われることが多くあります。


不思議は、不可思議のこと、

はかることも、とくこともできない、

人間の考えの及ばないことであるということを、

不可思議とお経の中には数多く使われています。


正信偈の最初の帰命無量寿如来の次に、

南無不可思議光と続きます。


親鸞聖人は、念仏の真実であることは、

不可称、不可説、不可思議であると説かれ、

念仏は人間のはからいを越え、

人間に 「 はからわれえない 」 ものである。


それは何故かというと、「 仏の真実によって

あたえられたものであるからである 」 ということを、

不可思議とおっしゃっています。


大無量寿経でお釈迦様は、阿弥陀如来の働きのことを、

次のようにおっしゃっています。

「 無量寿仏の光明の気高く尊いことは、

私が一劫の間、昼となく夜となく説き続けても、

なお説き尽くすことができない 」 とおっしゃっています。

阿弥陀如来の働き、お念仏の働き、お浄土のすばらしさを、

お釈迦様がお説きになったとしても、

一劫という天文学的な長い長い時間かかっても、

とても説き尽くすことが出来ないと、

お釈迦様はおっしゃっています。


わずか、50年100年の短い人間の一生では、

どんな言葉として聞いても、文字として読んでも、

そのほんの一部しか理解出来ないということです。

それほどに、阿弥陀如来の願い、お念仏の働きは、

人間の知識でははかり知れない不可思議なもの

であるということなのです。


不可思議な阿弥陀如来の世界を求めるということは、

真実の世界をもとめること、それは、単なる理屈や

学問の世界ではありません。


この私が実践をし、体験して、はじめて味わえる世界です。

仏の世界を、仏に成ることを人間生活の理想として、

実践の目標として、お念仏を味わえたとき、

はじめて、出会えるものだと思います。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

次回は、8月27日に新しい内容に変わります。

               ( 平成10年 8月20日〜 第291回 )