第337回 何のためにこの世に

     (平成11年7月8日〜14日)

妙念寺電話サービスお電話ありがとう
ございます。こんな、詩をみました。

ものを取りに部屋に入って
何を取りに来たのか忘れて
戻ることがある
戻る途中で
ハタと思い出すことがあるが
その時はすばらしい


身体が先に
この世に出てしまったのである
その用事が何であったか
いつの日か
思い当たる時のある人は幸福である
思い出せぬまま
僕はすごすごあの世へ戻る

杉山平一という方の詩です。
人間誰もが、意識してこの世に生まれてきた
人はありません。気づいた時には、この世に
人間として、生まれていました。
何の予備知識もないままに、生まれてきて,
何がその用事であるのか、何のために
人間に生まれてきたのか,それが分からない
ままに、一生を終えてしまうのが
わたくしたちではないでしょうか。


忘れたことを思い出すように、気づいた人は、
すばらしいことです。

しかし、それに気づかず、何かもやもやとした
人生をおくっている人が多いようです。
 蓮如上人は、ご文章でこのように
仰せになっています。

南無阿弥陀仏の真実信心を頂けないならば、
せっかく人間に生まれてきても、宝の山に入りながら、
手に何も持たずに帰るようなものであると、
おっしゃっています。


生まれることの難しい人間にうまれておきながら、
何のために生まれたかが分からず一生を
終えては、何とももったいないことだろうと
言う意味でしょうか。


阿弥陀如来の願いは、煩悩一杯のこの私を
必ず救いたい。お浄土へ往生させたい。
お念仏を称えさせて、救い取りたいとの願いです。
仏になる仲間にしようとの願いです。


この世に私が生まれてきたのは、仏にしていただく
ためであった。
それも自分自身の幸せだけを考えるのではなく、
阿弥陀様の仲間として、すべての人を救うことの
出来る仲間にしようとのはからいです。


人間に生まれてきたのは、 何のためかに
気づけば、私の生活も大きく変化することでしょう。
何のためにこの世に生まれてきたのか、それは、
お念仏にであうためであったと、気づかせていただく
ことだと思います。
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、七月十五日に新しい内容に変わります。

                 (宗報 六月号を参照)