第347回  浄土へは往き易くして


         平成11年9月16日〜22日まで

 妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
この電話サービスに、こんなことが
吹きこんでありました。

お念仏で救われるというが、お念仏をしているのは、
お坊さんぐらいのものではないのか。
一般の人は、お念仏をしていない、それなら、
一人残らず救うといいながら、救われるのは
ほんのわずかではないのですかという内容です。

お電話いただいた方は、ご自分がお念仏を称えて
いないので、自分と同じく誰も称える人はいないと、
お感じのようです。

この方は残念ながら、お念仏をなさっている方々に
まだ出会っておいででないようです。

特別の人だけがお念仏をしているのではなく、
ごく自然にお念仏なさる方の姿は、とても素晴らしく
あり難いものです。

お寺のお説教に一度参加されると、そうした方が
沢山いらっしゃることを身をもって体験なさる
ことでしょう。

とはいえ、蓮如上人の御文章の「易往無人章」には、
実は、このように書いていただいております。

人間に生まれることは、まことにまれなことです。
しかし、人生は短くはかないもので、たとえ栄華を
ほこっても、盛者必衰会者定離のならいで、久しく
続くものではなく、しかも老少不定なのですから、
人の世はあてになりません。

ですから私たちは他力の信心を得て、浄土往生を
願うべきなのです。

その信心を得るには、智慧も学識も必要ではなく、
貧富や善悪や男女といった違いも一切関係なく、
ただ自力のはからいを捨て、二心なく阿弥陀如来を
たのむばかりです。

み仏はこのように信じるものを光明の中におさめとって、
命が終われば必ず浄土に生まれさせてくださるのです。

この信心一つで浄土に往生することのたやすさから、
「安心」というのです。

大経には、信心を得れば浄土に往生するのは易しいが、
信心を得る人がまれであるから、浄土には往きやすいが
人がいないということです。・・・とも書かれています。

お念仏を、口にただ称えれば救われるというのではなく、
信心のいわれを心得た後に、本願のはたらきによって
お救いくださるご恩を報じるのが、お念仏であると、
お書きいただいています。

なぜ救われるのか、それは人間の常識で量ることの
出来るようなものではありません。
自分でお念仏して初めて味わえるものです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、9月23日に新しい内容に変わります。