第349回 かわいそうに
平成11年9月30日〜10月6日まで
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今年は、境内の甘柿の実が沢山なっています。
ところが、余り実をつけ過ぎて、次々と落ちて
しまっています。
その中でも熟した柿を求めて、大きな蜂が沢山
群がって少々困っています。
落ちた柿を拾って片付けようとすると、餌を奪われた
蜂たちは、威嚇してきますので、困っています。
殺虫剤を撒いて殺すのもかわいそうですし、
どうしようと思っている時、つい蓮如上人の
お言葉を思い出しました。
「蓮如上人がご存命のころ、山科本願寺の南殿で
あったでしょうか、ある人が蜂を殺してしまって、
思わず念仏を称えました。
そのとき、上人が 『あなたは今どんな思いで
念仏を称えたのか』 とお尋ねになったところ、
その人は、『 かわいそうなことだと、ただ
それだけを思って称えました 』 と答えました。
すると上人は、『 信心をいただいた上は、どのようで
あっても、念仏を称えるのは仏恩報謝の意味で
あると思いなさい。
信心をいただいた上での念仏は、すべて仏恩報謝に
なるのである 』 と仰せになりました。
ーーー このように,蓮如上人御一代記聞書の
180番目にあります。
自分が怖いために、つい蜂を殺しておきながら、一方
ではかわいそうにと思うのが私たちです。
しかし、お念仏はかわいそうだから称えるのではないと、
おっしゃいます。
このことを、親鸞聖人は、このようにおっしゃって
いたようです。歎異抄には次のように書かれています。
「 親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、
かつて一度もありません。
というのは、命あるものはすべてみな、これまで何度と
なく生れ変り死に変りしてきた中で、父母であり,兄弟・
姉妹であったのです。
この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、
どの人もみな救わなければならないのです。
念仏が自分の力で努める善でありますなら、その功徳
によって亡き父母を救いもしましょうが、念仏はそのような
ものではありません。
自力にとらわれた心を捨て、速やかに浄土に往生して、
さとりを開いたなら、迷いの世界にさまざまな生を受け、
どのような苦しみの中にあろうとも、自由自在で不可思議な
はたらきにより、何よりもまず縁のある人々を救うことが
できるのです。
このように聖人は仰せになりました。
ーーー歎異抄 第五帖には書かれています。
お念仏は、同情のためのものや、追善供養のものではなく、
報恩感謝のお念仏ですと、親鸞聖人は教えていただいて
います。
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次回は、10月7日に新しい内容に変わります。