第390回 比べてみると

       平成12年 7月13日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
ところで、よく聞く言葉に 「 どうもまだ修行が足りないもので 」 
と言われます。


日常生活では努力が必要ですが、それと同じように、仏になる
ためにも一生懸命努力しないといけないように考えられています。



親鸞聖人のお書きいただいた 「 教行信証 」 の中には、
一般にいう仏道修行や、さとりを開くための様々な修行と、
他力のお念仏の働きとを比較していただいたところがあります。



正信偈が書かれているすぐ前のところです。
そこを見ますと、諸善、もろもろの善、自力の計らいと、
他力のお念仏の働きを次のように比較していただいています。



 念仏は行じやすく、諸善は行じがたい。(難易対)。
念仏は速やかにさとりを開き、諸善は長い時を費やして
さとりを開く(頓漸対)。

念仏はただちに迷いを離れ、諸善は次第に迷いを出る(横竪対)。
念仏は迷いを飛び超え、諸善は歩いて渡るかのようである(超渉対)。

念仏は本願に順じ、諸善はこれに背く(順逆対)。
念仏は功徳が大きく、諸善は小さい(大小対)。

念仏は功徳が多く、諸善は少ない(多少対)。
念仏はすぐれた法であり、諸善は劣った法である(勝劣対)。


念仏は阿弥陀仏に親しく、諸善は阿弥陀仏に遠い(近遠対)。
念仏は深い法であり、諸善は浅い法である(深浅対)。

念仏は強い法であり、諸善は弱い法である(強弱対)。

念仏は重い法であり、諸善は軽い法である(重軽対)。

念仏は利益するところが広く、諸善は狭い(広狭対)。
念仏は純一な往生の行であり、諸善は他にも通じる行である
 (純雑対)。

念仏はさとりを得る近道であり、諸善はまわり道である(径迂対)。

念仏ははやくさとりに至る法であり、諸善はおそい法である(捷遅対)。

念仏は特別の法であり、諸善は普通の法である(通別対)。
念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である(不退退対)。

念仏はまさしく往生の行として説かれ、諸善はこれに添えて
明かされた法である(直弁因明対)。
念仏は他力回向の名号に即した行であり、諸善は自力の定善・
散善の行である(名号定散対)。


名号は道理を尽くしており、諸善はそうではない(理尽非理尽対)。
念仏は仏がたが勧めておられ、諸善は勧めておられない(勧無勧対)。

などとあり、まだまだこの対比は続きます。



親鸞聖人はご自分の体験を通して、このようにおっしゃって
いただいています。


皆様は、どのようにお感じになりますか。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、7月20日に新しい内容に変わります。



教行信証現代語版 131頁より
平成12年3月発刊 
浄土真宗教学研究所編纂