第393回 花瓶と華瓶

      平成12年 8月 3日〜

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ところで、みなさんはお花を生ける花瓶というものを
ご存じと思いますが、その花瓶も、草冠に、化けると
書いた花瓶と、もう一つの貴族とか華族などという華を
書いた、華瓶とがあります。

同じハナの字を書きますので、同じもののように思いますが、
花瓶(かびん)と華瓶(けびょう)と、呼び方を替えてあります。


ご本尊の近くにあるのが華瓶で、我々の近くにあるのが
花瓶です。


昔から、浄土真宗では、お仏飯をあげ、お花をさした
花瓶の水を替えると同時に、ご本尊前の小さな華瓶の
水も毎朝替える習わしです。 

浄土真宗以外の宗派では、大きな茶碗に水や、お茶を
上げる風習等がありますが、浄土真宗では、華瓶の水を
大切にしてきました。

 インドでは、水は貴重品です。口の小さな瓶に水をいれ、
樒(しきみ)をさして、香水として供えました。


そこで華瓶には、色花や造花は決してさしませんし、
お仏壇にはお茶や、お水をあげることはしないのが
真宗の伝統でした。


 ところで、お仏壇は、本尊・阿弥陀仏が中心で、
主人公です。


我々はこの如来さまに救われるべき、
救済の対象です。


ところが、何事も自己中心で、自分の欲望を満たす
ことだけが喜びであると毎日を送っているのが、
私たちの日常です。


この自己中心の価値観から、ご本尊・如来を中心
とした全く新しい世界観に逆転されていく場所が
お仏壇なのです。


 私の前に本尊があるのではなくて、本尊の御前に
私が座っているとの、意識の転換が促される場所です。


それは、私が仏さまを供養するのではなく、私の方が
仏さまから供養されているとの味わいです。


その報恩の思いから、お仏飯とお香とお灯明、
お花などをお供えしていたのです。


ところが、どうも亡くなった人が苦しんでおられる
だろうと、水を差し上げるという思い上がった心や、
お供えの見返りに自分の我がままを期待するような
思いがあるのでは、仏教が説く本当の喜びには
近付けないのではないかと思います。



下心のある貢ぎものではなく、人間らしく生きる力を
与えられた報恩の思いからの御荘厳でありたいものです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、8月10日に新しい内容に変わります。