第404回 いただきもののいのち

   平成12年 10月19日〜

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よく「私は無宗教です」と公言してはばからない方が
ありますが、その人の心を支配している価値の中心は、
お金中心の「拝金宗」の信者だったり、なによりも
健康第一という「おたっしゃ宗」だったり、私の人生は
私の思う通りに生きればよいという「自分勝手宗」
だったりするようです。


 それでは、宗教を持つこと、仏教徒になるということは
どういうことなのでしょうか。


智慧第一と讃えられた舎利弗は、もともとは仏教徒では
ありませんでした。
あらゆる教えを学ぶものの、どうしても納得いかずにいました。
そんなとき仏弟子の一人アッサジに出会いました。



アッサジの気高い姿に感銘を受けた舎利弗は、
「この世のすべては、因縁によって生じるものであると、
釈尊はお説きになっています」と聞き、
「これこそ私の求めていた真実の教えである」と
ただちに仏弟子となったといいます。


「あらゆるものは因縁によって生じる」という教えは、
私たちの常識を根底から覆すものです。


私たちは無意識のうちに自分のいのちを自分で造った
ものであるかのように思い込み、自分の思いを満たそうと
して生きています。


そして、思いどおりになれば驕慢となり、うまくいかなくなると
イライラし、何かに祈って思いをかなえようとしがちです。


釈尊は、そうした生き方の根底にある「自分」というもの
それ自体が、無量の因縁によって生じた「いただきもの」であり、
「我がもの」と言えるものは、ひとかけらもないと説かれたのです。


私たちが仏教徒になるといことは、この「因縁生なるが故に
無我である」という「いのちの真実」に、深くうなずいていくことに
ほかなりません。


 よくよく考えてみれば、さほど無理な話ではないはずです。

生まれようと決心して生まれた人は一人もいません。
私たちは「縁あって」生まれさせていただいたいのちですから、
縁が尽きれば去っていかねばならないのがこの娑婆なのでしょう。
生も死も私の思いの外にあるのです。


しかしながら、自分のいのちを自分の所有物であるかのように
感じ、無病・息災・延命を祈ろうとする私の思いには、まことに
しぶといものがあります。


阿弥陀如来の本願は、そうした私たちに向かって
「いのちの真実」に目覚めよという喚び覚ましの声を
「南无阿弥陀仏」の名号として届けて下さったのです。


「自分で造ったいのちと思うなよ。そこには安らぎはないぞ。
縁あっていただいたいのちであることに目覚めてくれよ」


如来の喚び覚ましに揺り動かされて、南无阿弥陀仏を
申す身とならせていただいたのです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

次回は、10月26日に新しい内容に変わります。

 大乗 10月号 「祈りのない宗教」
   小山 一行師の文章を編集