第412回 疑い

   
平成12年 12月 14日〜

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ところで、宗教というものが成り立つ条件の一つに、
礼拝ということがあります。


礼拝(ライハイ)、レイハイという宗教もありますが、
礼拝がない宗教はまずありません。 この礼拝に
近い言葉が、帰命です。


正信偈の最初にある、帰命無量寿如来の「帰命」と、
「礼拝」は非常に似ています。


しかし、礼拝には、実は二つあるようです。
一つは、外側の条件から礼拝するものと、内側からの
条件で礼拝する「帰命」との違いがあるようです。


仏教が伝えて来たのは、同じ礼拝でもこの帰命ということ、
自分の心の中から頭を下げるという帰命ということでした。


日頃ちゃんとお仏壇にもお参りし、法事なども決して怠らない、
昔からそうだったのでというのでは、外の理由によるもので、
ただの礼拝でしかありません。


これに対して、帰命というのは、どうしてもこれでなければ
ならないという理由が自分自身にある場合、帰命と
言うわけです。



 「何で、他の宗教ではなく、浄土真宗、お念仏の教え
  でなければならないのですか」と問われて、
その理由がはっきり分かったということを、別の言葉では、
仏様を信ずるとか、如来を信ずるといい、伝統的な
言葉では、信心といいます。


 宗教の問題で、大事なことは疑いということです。
信ずるということが大事で、疑うということはいけないこと、
疑いは駄目だ、その疑いを取り払って信ずることが
大事だと普通考えます。


しかし、親鸞聖人だけは、疑うということがどれほど大事な
値打ちがあるかということを教えてくださった方です。


信ずることが素晴らしいということを教えたのではなく、
疑うということの持つ意味がどれほど大きいかを教えて
下さったのです。



 ですから、念仏して何になるんですか。
念仏しても少しも分かったような気持ちになりません。
と、疑いをたくさん出されればいいわけです。


疑いがあると、それだけ自分を問うことも進みますし、
学ぶということが進んでいく、疑いが無くなったら、
もうそれでおしまいです。
人間には、最後まで疑いというものが残っていて、
その疑いが我々を歩ませます。


そして、その疑いの根っこがどこにあるかまで、疑いが
なぜ起こってくるのか、その根っこまで我々を連れて行って、
そして、「ああ疑いはここから生じていたのか」という
ことが分かってくる。


そうなると疑わないのではなく、もはや疑う心が
晴れましたということになります。
中途半端に終わってはいけないのです。


宗教は、疑わないとういうことではなく、もう疑いが
晴れましたということです。


最終的には、自分自身への疑いが晴れたということです。
このことを教えていただいたのが親鸞聖人なのです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、12月21日に新しい内容に変わります。

     平野修師 教行信証の世界
       親鸞からのメッセージ2
           「自分の真実の姿を見る」を参照