第453回 朝夕お礼を

  
平成13年 9月27日 〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
ところでこんな文章に出会いました。


浄土真宗では寺院・僧侶は勿論、一般の門信徒も等しく
朝夕「正信偈」を日課の勤行とする。


これを怠ると浄土真宗は滅亡し、ただ「その名ばかりの門徒」
となる。


特に浄土真宗ではこの私の上ではすべて仏恩報謝の
意において勤行するのである。


現在でも他宗の勤行は、多く仏に回向する、この私から
仏へと向かうのであるが、浄土真宗では回向の解釈が
仏から私へという逆の立場にたつ。


宗祖の回向の解釈は従来の仏教一般でいう釈と異なり、
仏からこの私へと、あげるのではなく、くださるという釈を
されているのである。


それ故、一般の仏教の上でも祈るー祈祷−という言葉を
用いられるが、浄土真宗だけは祈るという言葉は用いない。


仏壇に向かう場合は祈るとかおがむ等用いるものもあるが、
浄土真宗の上では「御礼をする」という言葉が正しい。

回向の宗教でなく、不回向の宗教であるからである。
不回向は無回向とはその意を異にする。


成仏の因も果もすべて仏からこの私に与えられていることを
第一前提としているからである。


この与えられているものがらこそ南无阿弥陀仏の六字の
名号である。


これをとかれているのが『浄土三部経』は勿論、七高僧の釈、
宗祖の『正信偈和讚』の内容といわれる。

蓮如上人の『ご文章』はこの内容を在家無智のだれにでも
通ずるように消化し、あたかも牛が草を食べて乳となる
牛乳の如く、誰でものめるように消化されたものである。

この『御文章』は大谷派のいう如く『御文』であり、この私に
いただいた蓮如上人からの御手紙である。


しかるに蓮如上人は代筆といわれるもので、発信者は
阿弥陀如来からこの私にいただいた御手紙である。

その内容は、一言にしてつくすと、南無阿弥陀仏の六字の
内容を述べられたものである。


この南無阿弥陀仏の六字は宗祖は帰命尽十方無碍光如来と
いわれ、いつでも、どこでも、だれにでも既に自らが手を
出すに先行して与えられているのである。

この意味を文章で述べられたのが『浄土三部経』であり、
日夜仏前で勤行する正信偈和讚である。

更に『御文章』もこの意を述べられたものであるから「宝章」と
いわれるのである。

宝とは蓮如上人自らも南無阿弥陀仏のことをいう。

更にこの宝は曇鸞大師や親鸞聖人は無上宝珠といわれている。

地球上のいかなる宝よりもより高価な至宝がこの私に
与えられていることを述べられているのが経典であり、
『正信偈和讚』もこの意を明らかにしたものである。

というのは私にとってこれ以上の問題はないという問題の
解決の答えが与えられているからである。


蓮如上人は「仏法には明日と申すことはあるまじく候」とある。

仏法の問題は今ここの問題である。というのは私にとって
これ以上の問題はないということの解決の答えが与えられて
いるからである。


本願寺派の勧学稲城選恵先生の言葉の一部でした。
次回は、この続きをご紹介します。

妙念寺電話サービス次回は、10月4日に新しい内容に
変わります。



浄土真宗本願寺派「伝道」55号
           編集:浄土真宗本願寺派研修部
           発行:本願寺出版社