第470回 思いのままに

 平成14年 1月24日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

アルタというお寺発行の新聞を送っていただきました。
「アルタ」とは、インドの古い言葉、サンスクリット語で、
真実の利益、目的などを意味する言葉だそうです。


所沢市にある万行寺さんの新聞で、ご住職は、
武蔵野女子大学の先生をしておいでの本多静芳先生です。


お送り頂いた中に、産経新聞にお書きになったコラムの
コピーもありました。


「仏教学者の見た現代日本」という記事です。
そこに、こんなところがありました。


「 現代は自分の『意図したこと』が無駄なく正しく、
  つまり経済的・合理的に遂げられていくことを善し
  として求め、反対に『意図しないこと』を悪しとし排除
  しているように見えます。


  どうも『意図したこと』のみが幸せや豊かさであり、
  価値があるとする安直な見方が案外簡単に
  受け入れられているのではないか。


  そして、その『思いこみ』にどっぷり浸かると、
  思い通りに実を結ばなければ、不幸で価値の
  低いこととされやすい。


  また、そのために努力したプロセス自体が無駄なもの
  として評価されにくくなってしまいます。


  つまり、自分にとって都合のよい偏差値、学校、
  会社、給料、ポスト、結婚などなどが結果として
  多く満たされれば幸福であるという狭い殻に
  閉ざされた思いが生まれやすい。


  すると半面、皆と同じような『意図したこと』が
  満たされなければ不幸であると苦しむ人が増えて
  いくことになる。


  だが、試験の失敗、身体や健康の障害、社会的
  地位の不足などは、それだけで必ず不幸や無価値な
  ことになるだろうか?。


  同じ価値を押しつけられ、同じでなければ幸せや
  価値が感じられない社会ならば本当は住みにくい
  のではないか?


  このような『意図したこと』だけに偏った見方は、
  充足感の低いもののようだ。今、戦後半世紀を過ぎ、
  多くのことが満たされながらも、幸福や豊かさ、さらに
  生きる喜びを実感できず、逆にほんの些細なことが
  きっかけで、不平・不満を抱えきれず爆発させる
  生き方が多いことを毎日様々な事件から知らされる。


  しかし人ごとではなく、自覚や気づきがない限り私も
  同じ可能性を抱えている。


  私のママにしたい『思い』は身勝手であり、ままならぬ
  『事実』は厳しい。
  だからできる限り、自分にとって都合の悪い事実に
  目を向けず、都合の良いことのみを追いかけるのが、
  悲しいかな我ら凡夫である。・・・・」


まだ続きますが、このように書いていただいています。

お念仏の生活を始めると、こうした身勝手な自分であると
少しは見えてくるものです。

南无阿弥陀仏は、この私に自覚や気づきを、与えてくださる
ものではないでしょうか。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、1月31日に新しい内容に変わります。