第485回 手を取り合って

  平成14年 5月 9日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

こんな文章に出会いました。「ないおん」という保育の新聞に、
長崎県の元社会教育委員長の竹下哲さんの文章が掲載されていました。
『手を取り合って』という文章です。


「もう二〇年も前のことです。所用のため、壱岐の島に出かけました。
仕事が済んで、さて魚釣りでもやろうか、ということになりました。


 さっそく玄界灘に船を漕ぎ出しました。船べりから、長い長い
釣り糸をたれました。しばらくすると、ググッと強い手ごたえがあります。
夢中で引き上げると、大きな鯛がかかっているのです。
胸がわくわくしました。喜びでいっぱいになりました。


 ところがです。その大きな鯛が、船底で勢いよくピンピン跳ねるのです。
跳ねながら、そのうるんだ黒い目で私を見つめているのです。
この瞬間、私の全身に強い電流のようなものが走り抜けました。
それ以来、私はプッツリと魚釣りをしないようになりました。


魚がかわいそうでならなくなったのです。

 以来20年間、魚釣りなどの殺生なことは絶対にしないのだ、
とみずからも誓い、他人にも広言してきました。私は半ば得意に
なっていました。殊勝な善人のつもりでした。


 では、魚は食べなくなったのか、というと、そうではないのです。
相変わらず、おいしそうに魚を食べています。刺身にしたり、
焼き魚にしたり、煮付けにしたりしてーーー。


 ある日、いつものように夕食のテーブルについて、鯛の煮付けの
目玉をほじくっていたとき、ハッと胸にささやくものがありました。

ーーーーお前は、魚釣りなどの殺生なことはしないのだと、
得意になって善人ヅラをしているが、やはり魚は食べているではないか。
しかも、自分の手は汚さずに、人に殺させて・・・。

自分で殺生するよりも、もっとタチがわるいのではないか、と。


 そうです。私はみずからの手は汚さないで涼しい顔をしておられる、
という業縁の下に生きているに過ぎないのです。文字どおり、
「わが心のよくて、殺さぬにはあらず」です。

そして、それこそ「何食わぬ顔」をして魚を食べているのです。
反対に「うみかわに、あみをひき、釣りをして、世をわたるもの」は、
好むと好まざるとにかかわりなく、殺生をせざるを得ないのです。
そうしなければ生きていけないのです。妻子を養えないのです。
そういう業縁の悲しみに生きているのです。

もし前者を「善人」とし、後者を「悪人」とするならば、悪人こそ、
生きていく上でのやるせなさと、人知れぬ涙があるのだと思います。

 善人は、たまたまそういうふうに生まれついただけのことであって、
格別いばったり、鼻を高くすることはないのです。
それなのに、それをあたかも自分の偉さのように思い上がって、
他人を見下し、軽蔑します。「わがさまざまの善根をたのむ」のです。
しかし、そういう善人の姿もまた、人間の悲しさというものでしょうか。


 善人・悪人ともに人間の業縁を見つめ、手を取り合って生きて
いくとき、必ずや広やかな世界が開けていくことでしょう。」


『手を取り合って』という竹下哲さんの文章でした。

たまたま私はこうした生活をさせて頂いているとの思いこそが、
人生をより豊かなものにさせてもらえるもののようです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、5月16日に新しい内容に変わります。