第489回 お念仏に相談

 
平成14年 6月 6日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
毎月喜びの言葉をインターネットに掲載しておいでの方の
こんな言葉を聞きました。

「『お念仏に相談しなされや』の源左さんの言葉の暖簾が
いつも呼びかけて下さる・・」
暖簾をくぐる度に、お念仏を味合わっておられる方の言葉です。

また「お念仏とともに生きれば私に余生などは無い。
生きていくその時その事がみんな初体験であるから、
先が明るくなる。なもあみだぶつ」 いつも新鮮に前向きに
生きておられる方のすばらしい言葉です。


また、こんな文章を送って下さった方もあります。
「迷いを拝む私の迷い」という武蔵野女子大学の
本多静芳先生の文章です。

「私は無宗教だ・・・」と言う人でも、お守りを粗末に扱ったり、
お経本を足蹴にはしずらいようです。目に見えるものだけ、
役に立つものだけ、科学的で経済的なものだけに価値をみる
現代人も、自分の気づかないところで深い尊い世界を受け継いで
いるのかも知れません。

しかし仏教を聞かないと、自分の都合だけでものを見るという
危うさが常に付きまといます。

 例えば、拝めばいい目にあえる、拝まなかったり踏んづけたら
悪い目にあう、という思い込みにふり回されたり、たぶらかされたり
します。
「お守りを持っているだけで心理的に安らぐ」という人がいますが、
それは常に持っていないと不安になることの裏返しです。

 こういう不安を作るものを「迷い」といいます。
迷いとは、「ま」と「酔い」から出来たと聞いたことがあります。
「ま」は物事を強める言葉で、真正面、まっすぐとか、真西と使われます。
まよいとは、酔いの状態が強いことです。

お酒を少し飲んだ人に「酔いましたね」と聞くと、「はい、少し」と
返事があります。しかし、相当きこし召した人に聞くと「おれあ、
酔ってなんかいねえぞ。もう一本だあ」なんて言います。

酔いが強いと、自分で酔っていることがわかりません。
迷いも同じで、自分で自分の迷いがわからないのです。

 「迷い」が作り上げた偽の宗教はたくさんあります。
日本にはこうした宗教にからむ社会事件が多く、霊感商法は
その代表です。大理石の壷や朝鮮人参、開運印、背後霊、
先祖霊、墓相、方角、字画などで人をだまします。 

しかし、これも仏教という鏡に自分の姿が映し出されると、
迷っているのはお金を巻き上げる偽の宗教団体だけでなく、
「自分に都合の悪い罪は自分の蒔いた種でも逃れたい。

都合の善い福は何が何でも欲しい」という心だけを宗教と
間違えているこの私の方であったと気づかされます。
 霊感商法とは、だまされる側にこうした「罪福」信仰が
あるから成立するのです。
無宗教という宗教に無自覚な日本人の生き方が根底にあります。

こういう文章で、惑わされずにお念仏に相談しながらの
毎日を送りたいものです。
妙念寺電話サービスお電話有り難うございました。
次回は、6月13日に新しい内容に変わります。