第492回 遊びのように


平成14年 6月27日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

朝のお勤めの前に、お灯明を上げながらふと思いました。
浄土真宗の心は、遊びの精神とおっしゃった先生のことです。

遊びというのは、損得を考えず、どんな無駄なことでも、
つまらないことでも夢中になって頑張れるものです。


人生も、この遊びのように、どんなことが起ころうと、
出会おうと夢中になれたとしたなら、きっと楽しいことでしょう。


 お経には、遊ぶ、[遊]という字は、実に多く、浄土三部経
だけで十四回、親鸞聖人の教行信証では、十九回、
註釈版のお聖教で数えると、実に122回も出て来ます。


遊びと言えば、スポーツもその一つでしょう。サッカーやテニス、
ゴルフなどのスポーツも大変盛んですが、よく考えてみると、
ただボールを足やラケット、クラブなどを使って、ゴールに
入れるか、相手が取れなくするのか、単純な競技のように思います。


よく考えると、玉がゴールに入っても入らなくても、足を
使わなくても、別に深い意味はありません。
自分たちでルールをつくって競っているだけで、別に日常の
生活とは全く関係ないことです。


しかし、夢中になると、食事も忘れ、仕事も忘すれるほど
楽しいもののようです。


人間は、どんな意味のないことでも、夢中になって没頭すれば、
それが楽しくなって行くように出来ているようです。


 朝のお仏壇前でのお勤めも、義務感ではなく、いやいや
ではなく、楽しみながら続けさせていただくこと。


毎日のつらい仕事も、いやな事でも、嫌々ではなく、
夢中になって取り組めば、その時には喜びが沸き出て
くるもののようです。


毎日の生活も、人生もつまらない、こんなことは無駄だと
思って、いやいや生活すると、とてもつらい人生でしょうが、
夢中になって事にあたれば、それはお浄土へ生まれた人が
感じるような喜びに近いのではないかと思います。


どんな小さなつまらないことでも、無心に取り組んでいければ、
きっと喜びが沸いてくるものだと思います。


日常の生活も、朝のお勤めも、楽しんでやればそれで、
充実した人生へなっていくことだろうと、思います。


まるで遊びのように、夢中になって行動し、結果を恐れず
励むこと、それが念仏者の喜び多い生き方ではないでしょうか。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は七月四日に新しい内容に変わります。