第573回 阿弥陀如来は とにもかくにも

 
平成16年 1月 15日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

ご正忌報恩講で御伝鈔を拝読し、お念仏の教えに生きる、
平太郎さんが仕事で神社に行かなければならなくなって、
困った末、親鸞聖人の所に相談にきたところが、大変有り難く
感じられました。


熊野霊告の段 下巻−第5段の親鸞聖人が答えられる部分を
現代語訳で、見ますと。


「仏陀の教えは種々様々です。どれでもその人にふさわしい
ものであれば、たいへん有益です。


ただし、末法の現在では、自力の聖道門の修行で、成仏する
ことができません。


つまり『安楽集』にも、『私どもが生きている末法の時代には、
数えきれない多くの人々が自力の修行をしたが、一人も悟りを
得た人がない』『だから浄土の宗門のみが往生出来る道』と
あります。


 これらのことを経や釈にはっきりと書かれているもので、
阿弥陀如来の不滅の教えです。それで、ただ浄土がある
のみというその真実の教えについて、ありがたくも印度・中国・
日本の祖師方が、それぞれこの宗門を興隆してくださいました。



 ですから私が勧める教えは、まったく私自身の考えではありません。
ところで、一心に阿弥陀如来を念じ称名することは、極楽往生の
肝要であり、わが宗門の最も大切なところです。


 そのことは『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経」の三経には、
内に包み隠されたり、外に現れたりしていますが、文章に書き
表されたり、その意味するところにおいて明白です。(中略)


『阿弥陀経』では釈迦がひたすら南無阿弥陀仏の名号を
受持するように説いたとき、諸仏がこぞってその教えの
真実であることを証したとあります。


 これらによって天親は ”一心”に阿弥陀如来に帰依すると解し、
善導は ”一向”にと釈したのです。


ですから阿弥陀如来にのみ帰依する専修念仏の教義は、
どんな教えや釈によっても否定することのできない真実の
教えです。


 しかし今、あなたが阿弥陀如来ではなく、日本の神である
熊野権現を参拝するにあたり考えるべきことは、熊野本宮
証誠殿の本地は、他でもない今述べた阿弥陀如来そのもの
だということです。


  阿弥陀如来は、とにもかくにも日本の人々と縁を結ぼうと
する気持ちが強く、本来の知徳の光を和らげて、仮に神の姿で
日本に身を現されたのです。


その本意は、ただひたすら成仏の因縁を結ぼうとする人々を、
極楽浄土へ導こうとするものです。


 ですから、本地の阿弥陀如来の誓いを信じてひたすら念仏を
行う人は、公の任務にも従い、領主にも仕えて、神の霊現の
土地へ行き、その神社に参詣することは、まったく自己の心から
思い立つところではありません。


・・・と続いていきます。

一部だけを抜き出しましたが、お念仏の人はすべて阿弥陀如来が
本地と思うというところが、大変に有り難いものだと味わいました。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、1月22日に新しい内容に変わります。