第574回 如来と等しい

 
平成16年 1月22日〜

 妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
 インターネットのホームページに 浄土真宗の教えについての
質問がありました。 そこで、こんな文章がありますと
ご返事いたしました。

 浄土真宗の教えを『歎異抄』には「本願を信じて 念仏を申さば
 仏に成る」と 端的に表現してあります。

 仏教の究極の目標が、仏になること 涅槃のさとりを得ることは、
 宗派の違いを越えて仏教共通のものです。
 ただ 仏になる「手段」にさまざまな道があって そこが、宗派の違い
 となっているのです。

 浄土真宗では「本願を信じ 念仏を申して」浄土に往生する と同時に
 涅槃のさとりを得るのです。

 この『歎異抄』の語では 本願を信じることによって得る結果を、
 究極的利益である 仏になるという一事として述べていますが
 これをもう少し
 
詳しくいいますと、本願を信じる即時に この身は
 正定聚という 地位に
つき、この世の生の つきる臨終に、浄土へ
 往生する と同時に 仏のさとりを いただくのです。


 死後において  浄土で 仏になるという未来の利益だけでなく
 獲信と同時に いまこの世で 正定聚の位につくという 利益を
 得るのです。


 正定聚とは「仏のさとりを得ることが正しく決定した なかま」の意です。
 仏になることが 決定しているのですから 絶対に退転することは
 ありません。
 ですから 不退転とも いうのです。

 浄土往生の要因は 他力の信心を 領受した時点で完了する
 のですから、こと 往生浄土に関しては 一点の不安もない身と
 なるのです。

 必ず仏になることが保証された地位ですから、安らぎに満ちた
 日々が 展開するのです。


 親鸞聖人は 他力の信を得た 正定聚のひとを 如来と等しい身で
 あると絶賛されています。

 ここで 如来とは 弥勒菩薩のこと。
 弥勒菩薩は 仏道を行じて 仏のさとりまで あと一段階の51段目で
 ある等覚という位にあり、かならず成仏することが 確約されていますが
 まだ仏のさとりを 得たわけではありません。

 仏の地位が 確約されているので、菩薩でありながらひとよんで
 弥勒仏 あるいは 弥勒如来と 讃えるのです。
 仏となることが確約されたという点で、弥勒と正定聚の地位は
 同一であるところから、正定聚のひとは 弥勒如来と 等しいと
 最高の 讃辞で讃えられているのです。

 ところが弥勒菩薩が仏のさとりを得るのは、今からなんと
 567千万年という 気の遠くなるような未来のことです。
 それに比べて 正定聚のひとは この世のいのちを終える臨終の
 一念に 浄土に往生して 仏のさとりをいただくのです。


 獲信の即時に いただく正定聚という利益は、親鸞聖人によって
 明らかにせられた本願の法でありますが、往生という死後の利益
 だけではなく、 現世において正定聚の地位につく ということが
 もたらした 宗教史上の意義は まことに大きなものがあります。


 従来、浄土教は 厭離穢土・欣求浄土といわれるように煩悩に
 渦巻く この世をいとい、さとりの浄土をねがう教えであると 
 考えられていました。

 ですから、信心を得たひとの 現世での営みは 正定聚である
 という親鸞聖人の着眼は、人生に意味を与え、生きる喜びを 
 もたらした ひとつの偉大な 宗教改革的な意味を もつもので
 あったのです。


 その信心から必然的に出てくる念仏が 如来の手助けの、
 意味をもつのです。

 私が信を得、念仏を申すということは、如来が私の上に 
 働いてくださる 具体的な相ですから、それが周辺の人への
 感化力と なるのでしょう。


 妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
 次回は 1月29日に新しい内容に変わります。

   本願寺出版 正信偈を読む 霊山 勝海師著 より 抜粋