第586回 目覚めの宗教

 平成16年 4月15日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

中央仏教学院で教えを受けた白川晴顕(はるあき)先生が、
「浄土真宗は目覚めの宗教」と書かれているものを拝見しました。


その文章の途中からですが、

仏教は釈尊によって開かれた教えです。
そして、釈尊のことを「覚者」と呼ぶように、仏教は「目覚め」の宗教で
あるというところに大きな特色があります。


浄土真宗の教えも、親鸞聖人が『正像末和讚』に

      智慧の念仏うることは    法蔵願力のなせるなり
       信心の智慧なかりせば   いかでか涅槃をさとらまし

と詠われるように「信心の智慧」、すなわち信心によって如来の智慧が
与えられる「目覚め」の宗教です。


「目覚め」とは、今まで当たり前、正しいと思っていたことが 「当たり前
ではなかった、間違いであった」と、自分の非に気づかされることです。


当たり前、正しいと思っていたことというのは、煩悩を通した見方でもあります。

これに対して「目覚め」というのは、煩悩を通さない見方に照らされて、
何が真実かということに気づかされていくということです。


わかり易くいいますと、仏さまのものの見方が知らされていくなかに、
それまで正しいとおもっていたことの間違いに気づかされていく、
これが「目覚め」ということではないかと思います。


 人一倍仕事ができ、頭脳が明晰で、社会的に立派な地位にいることを
誇りにしている人ほど、頭脳や判断力が衰えていくことや、地位がなく
なっていくことがつらいといえるでしょう。

財産を殖やすことを最優先に考えている人ほど、財産が目減りして
いくことに耐えられないでしょう。


生きているときだけがすべてであって、死ぬことは惨めであり
ダメになることであると思っている人ほど、迎える死は最も
恐いものになるでしょう。


 このように優劣・善悪を考えた価値観やものの見方には、
そこに価値を認める度合いが強ければ強いほど、逆にその反動も
大きくなっていきます。


自分が重い病気になれば、それを劣ったものとして斥け、
優れた価値のある健康を取り戻したいという願いを強く持つのが
平素の心です。


しかし、いくら願っても思い通りに取り戻せないことも現実が
教えてくれます。


したがって、物事に対して優劣・善悪の価値や、自分にとっての
都合しか考えない損得勘定を最優先するものの見方は、思い通りに
ならなければ、必ずその結果として苦痛だけが残ります。


目覚めは、煩悩を通さない仏さまのものの見方によって、優劣・善悪・
損得勘定の見方がいかに虚しいものであったかと知らされることです。


お念仏は、目覚めて行くことを忘れない人生を歩ませてくれる働きが
あるのです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、4月22日に新しい内容に変わります。

       大乗 平成16年4月号
  くらしの中の法話 みほとけとともに 
 「浄土真宗は目覚めの宗教」


  白川晴顕師著より、一部借用