第587回 平等 西洋と東洋

  
平成16年 4月 22日〜

 
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
 金子大栄という先生のこんな文章にであいました。  

平等思想の西洋的と東洋的の違い

 宗教的な平等というものと 今日の人びとの考えておる
 平等思想というものとは違うのです。

 今日において説かれている平等は 「地ならしの平等」 
 というもので、地ならしの平等 というのは、山をこわして
 谷を埋め、高低がないようにして 平らにしていくことです

 だから、年寄りも生存の権利がある。
 子供も大人と おなじように人権をもっておる。
 
 そういう形で 平等というものを考えようとしておるのは、

 無限大悲の仏の心において 平等であるということとは、
 ぜんぜん意義を異にする。

 ここらあたりに東洋人の考えた平等というものと 西洋人の
 考えた平等というものとの違いがあるかもしれない。


  仏教は人間の状態を救うのではない。老は老であり、少は少であり、
 善は善であり、男は男であり、女は女であるという差別をそのまま
 存しておいて、そして その背後に平等がある。

 あるいは 高次元において 平等がある。
 こういうことであって、平等というものを 表へ出して平らに
 しようというのではない。


 これが 仏教の思想と 現代の思想とが、なにかしら似ていながら
 ぜんぜん異なるゆえんなのです。

 今日の考え方では 個人個人が みな平等であり、教育であろうが、
 生活であろうが、人間の規格判を 作ろうというような形において
  平等だとする。

 それは 煉瓦のようなもので、煉瓦は規格があって、それを組み合わせて
 いくと、煉瓦作りのビルヂングができるとおなじように、規格判的人間が
 寄って、大きな組織体をつくる。

 こういうところに 近代文化の危機があり、 一歩すすむと、人間無用論 
 
がでてくる。
 なぜ「弥陀の本願」は 
老少・善悪を選ばないかというと、そのわけは、
 人間の状態を救おうというのではなくして、人間 それ自体を救おうと
 いうところに、仏教というものがある。

 世の中の宗教には、「人間の状態を救おう」という教えが多い。
 病むのは困ることであるから病のないように、貧しいのは 困ること
 であるから 貧しくないようにする。

 そこで救われたということになる。

 わたくしは それを一括して「神の名における宗教」 という。

 クリスト教といえども けっきょくは 人間のある状態を救おうという・・・。
 
 ところが 「仏の名における宗教」は そうではなくて、人間そのものの
 存在を いつくしむ。

 人びとはみな、老人にせよ、少年にせよ、善人にせよ、悪人にせよ、
 人である限り、人であることの悩み、人であることの 頼りなさ人で
 あることの 愚かさ、


 そして 人であることの罪の深さがある。
 そこで 「罪悪深重」 と いうてあります。

 世間の常識からすると、知って犯す罪は 重く 知らずして犯す罪は
 軽いといえる。

 ところが もう一つの考え方がある。それは 深いか浅いかという
 ことがいえる。
 「知らなかったから 堪忍してください」 ということは、世間の常識
 からは いえるが 仏教的な 深い自覚からすると、知らなかった 
 ということほど 罪の深いものはない。

 こういうところに、仏教の罪悪感というものがあるのです。

 常識的に考えれば、仏教の罪悪感というものは 特別に 罪悪ということを
 思わなくても いいのであります。

 そこで、つぎに 「煩悩熾盛」 という言葉がある。
 罪悪深重の現れが煩悩熾盛です。その煩悩はだいたい 愛 と 憎しみ 
 であります

 その愛しい とか憎いとか いう現象がでてくる根底が罪悪であるという
 ことはあたりまえと おもえばあたりまえのことです。


 仏教の罪悪観というのは、そのあたりまえのことをいうておるのであると
 考えて間違いない。
 妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
 次回は 4月29日に新しい内容にかわります。



     金子大栄 凡夫のさとり 96頁 より