第589回 内か外か

平成16年 5月 6日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

いろいろの方が インターネットのホームページをお持ちですが、
今会社の中心になって働いておられる方が 
「仏さまは わたしをどのように見ておられるのだろうか 」
人生講座 若きサラリーマンのための考えるヒント」
 「入門仏教講座  『歎異抄の勝手な読み方』」 などという項目があり


立派なページを ご紹介いただきました。

その中に、こんなところがありました。

信仰をする人としない人の、一番大きな違いは、人生の問題の解決を
「内」に求めるか、「外」に求めるかの考え方の違いではないかと
思うようになりました。(略)


 例えば、こうです。どうしても赦せない憎い人がいるとします。
ある人は、憎む対象となっている存在、すなわち「外」なるものを
亡き者にして、自分の憎しみという「内」なる問題を解決するかも
しれません。

しかし、別の人は、憎しみという心、すなわち「内」なる心を
問題として、なぜ憎いという感情が起きるのかを内省するのです。


そして、憎しみの心をもつ自分を深く恥じるのです。
憎い人、すなわち、「外」なるものは、内なる問題に比べて大きな
問題にはなりません。

外に問題の解決があると考えたがる人は、外に希望を感ずる人です。
外、すなわち憎む人間がいなくなれば、憎しみはなくなると考える、
世間の圧倒的多数の人です。

 これは人生に対する、人のとる姿勢の大きく分かれるところだと
思います。(略)


「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が
 ためなりけり」と言い切った親鸞聖人は、まさに内、仏との
 対面だけを内省して生きていた人でしょう。(略)

 つまり、外なるものに価値を与えているのは、内の執着です。
空腹時の握り飯と、満腹時のビフテキ、どちらが魅力的か、
価値があるのか、内なる食欲が決めているのです。

にもかかわらず、ほとんどの人は、物自体に価値があると
誤解しています。

 人生は楽しいことがいっぱいあるのに、なにも深刻な顔をして、
問題を難しくする必要などないじゃないか、死ぬときはみな
死ぬんだから。・・・「外」を大切にする人は、そう言います。

それでも「内」に眼を向ける人は、ものごとを正しく見る眼を
もっている人だと思います。(略)

 桜井鎔俊師いわく、「悪人とは如来に対面して自己を根元から
 否定した者を意味するのである」と。
社会生活がいろいろの意味で豊かになっていくことに生き甲斐を
じている人は、(本人は自覚していないと思いますが)決して、
信仰を求めていませんので、如来と対面する喜びを体験することは
できないと思います。

「他力をたのむこころかけたる」善人は、仏ではなく、自分の心を
命綱として人生という崖登りをしていますので、もし、その命綱から
手など離してしまったら、自分が長い人生で築いてきた「生きる意味」
を失い、奈落の底に転落してしまいます。

《手を離せ、我が、底で受けとめるぞ》と、耳の底で仏が語りかけても、
善人は人生を捨て、生き甲斐を失う恐怖には勝てないのです。
仏ではなく、どこまでも自分を頼りにする習慣から脱することが
できないのです。悲しきかな。

 (略)とあります。


仰せの通り 外の解決にばかり心を配っていることに気づかされます。
お念仏は 南無阿弥陀仏は 如来と対面させる働きがあるのです。
南無阿弥陀仏は 生きる意味を 示してくれる働きがあるのです。
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。


次回は 5月13日に新しい内容に変わります。