第591回 いのちは誰のものか

  平成16年 5月20日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

こんな文章を頂戴しました。

「いのちは誰のものか」という、武雄の谷川理宣先生のお書きになったものです。

私たちは自分の「いのち」は自分の所有物であり、従って自分の自由に
できると思っています。
しかし、よく考えてみると、「いのち」は私の自由ではありませんでした。


また自由にはできておりません。
私が生まれ出る時も自由では有りませんでした。
また恐らく死ぬ時も自由ではないはずです。
私の「いのち」は私が気が付いた時には、すでに「与えられていた」のです。

誰もが自分の力で「いのち」を生み出だして生まれてきたのではなかった
はずです。

父と母とを直接の縁としていただいたものです。
しかし、私達はいつの間にか、知識が増すと共に、「与えられたいのち」を
「私のいのち」であると、「いのち」までも自分の所有物にしてしまいます。


その時から、私達は顛倒(さかさま)のいのちを生きることになるのです。
真実の眼を失ってしまいます。何のために生まれてきたのか忘れてしまいます。

 今生きている私の「いのち」は無数のはたらきに支えられています。
太陽の光と熱、水の恵み、空気の恩、大地の支え、などなどです。

しかし、自己中心の考えに立つ限り、それを当たり前にしてしまいます。

また、毎日の食事の時にも、無数の生物の生命を頂戴しております。

しかし、私達はそれらの生物の生命を奪って良いという許しを誰からも
いただいておりません。


それでもそうしなければ私達は自分の「いのち」を支えることはできません。
ここに、人間であることの「罪業性」と「悲しさ」があります。


このように、私の「いのち」は無限の大きなはたらきと無数の生命の犠牲に
おいてはじめて存在し得るのです。
従ってそれは自分の思いだけでは生きることを許されない「公のいのち」で
あり、広く深い「いのち」であったのです。


私のいのちは「願われているいのち]です。「いのちそのもの」が私となって
「真実に生きよ」「いのちの願いに生きよ」と私に呼び掛けているのです。


 無数のはたらきが、無数の生命が、私一人を生かすためにはたらき
続けているのです。
そのはたらき、願いに気づかされることを親鸞聖人は「真実の信心」と
いわれました。


そういういのちの事実に目覚めたとき、私の「いのち」が大きなはたらきの
中に生かされて生きる、そういう世界が私の前に開かれてきます。


私達は「真実のいのちの自己」に出遇うために、生まれてきたのです。

 そのいのちの根源の願い、彼岸からの呼び掛け(イクオール本願)に
気づき、そのいのちの願いを生きることこそ、今最も大切なことでは
ないでしょうか。


と書かれています。

妙念寺電話サービスお電話有り難うございました。
次回は、5月27日に新しい内容に変わります。