第592回  誕生日の祝い

 平成16年 5月27日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

親鸞聖人のご誕生日をお祝いする降誕会と、門信徒総会には
例年以上のご参加いただき、まことに有り難うございました。


ところで、その時に皆さんにお尋ねしたのですが、ご自分の誕生日に
毎年毎年お祝いをしてもらった方に、挙手をお願いしましたら、
意外と少ないことに気づきました。


また子供の誕生日祝いを続けておられる方も案外少ないようです。
遠慮して手を挙げなかった方もあったとしても、生活に追われた時代
そのような余裕がなかったのかもしれません。  


また有る方は、自分の誕生日は、母親が一番苦労して私を生んで
くださった日である。


だから誕生日には、母親に感謝しましょうと、おっしゃる方もあるようです。

もし、お母さんが亡くなっておられたら、お仏壇でお礼をいたしましょうと。

またこんなことをおっしゃる方もあります。
誕生日祝いに、母親が買ってくれたセーター。もう古くなってしまって、
捨てようと思うもののなかなか捨てることが出来ない。
母親がこの私のことを思って、無理をして買ってくれたもの。


そして、繕ってくれたもの、古くなってしまっても捨て切らないと。
古い一枚のセーターでも、その歴史、その意味が味わえる人と、
それを感じることの出来ない人とでは、人生の豊かさは大きく
違うのだと思います。


この私は一人ぽっちではなく、自分のことをいつも思っていて
くれる人がいることを感じる力がある人とない人、喜びは大きく
違うのだと思います。


それは、親だけではなく、兄弟や祖父母や親戚。もっと広げると
学校の先生や学校へ運んでくれたバスや電車の関係者。


人間だけではなく、この私を成長させ、生かすために自分の命を
投げ出して、決して恩にきせない多くの生き物。
動物も植物もみんなこの私ひとりを、育てるために命を捨てて、
頑張ってくださったと味わえると、この私ほど幸せものはないと思えます


 いま子供たちは、自分を認めてくれる人、自分を分かってくれる人、
自分をちゃんと知ってくれる人がいないことで、悩み苦しんでいるようです。


昔、大人たちが口にした、私達からは見えないものの、仏さまは
いつも私のことを見守っていてくださると、感じられる人生こそ。

最上の人生だと思います。

南无阿弥陀仏は、自分で口にしながら自分で聞き、この私のことを
いつも支え励ましてくださることを、感じさせていただく言葉です。
この私のことを一番心配してくださる仏様の呼び声です。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は6月3日に新しい内容にかわります。