第595回 如来の本願に遇う

 平成16年 6月17日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

みなさんは「西本願寺の時間」というラジオ放送をご存じでしょうか。
全国の24の民間放送局から毎週一回放送されています。
この佐賀地方では、日曜日の朝、6時40分からRKB毎日放送で放送されています。

その放送原稿が一冊の本にまとめて出版されました。「みほとけとともに」という本です。
今日はその中から、「如来の本願に遇う」という三浦性暁さんが放送された、一部分を
ご紹介します。                


私たちは、阿弥陀如来を直接この眼で見ることも、直接この手で触れることもできません。
「如来は、ほんとうにいるのでしょうか」という問いに、いつもうろたえ、そのこたえに窮して
しまうのが、私たちの偽らざる姿ではないでしょうか。


たしかに、直接、如来をわがものにすることはできません。どんなにこころを凝らして
みつめても、私たちの眼には如来は見えません。
なぜなら、まことを見据える眼を持っていないからです。また、この手で触れても、
それがまことなのかどうなのか、わかるすべを私たちは持ち合わせていません。


 それでは、私たちは、如来に遇うことはできないのでしょうか。
いえ、そうではありません。
見ることも触ることもあてにはならないけれど、聞くことはできるのです。
ほんとうの願い「ご本願」を聞くことによって、私たちは、如来に遇うことができるのです。
いや、阿弥陀さまが私に遇いに来てくださるのです。
ほんとうの願いを届けるためにほんとうの願いに生きることを勧めるために、
阿弥陀さまは、今、来てくださっているのです。

だから「如来」というのです。


 さて、私たちは、真偽も邪正もわからないにもかかわらず、自己中心的に、ものごとを
単純に二つに分け、それらに優劣をつけ、一方には価値があり、一方には価値がない
というような対立的な偏った見方を身につけてしまっているのではないでしょうか。(略)


「老い」には価値が無く、「若さ」にだけ価値があるかのようなものの見方は、いつまでも
若さだけを追い求め、老いることの大きな意味さえも考えさせない現実を作り上げて
しまいました。

このままではもうすでにはじまっている高齢社会を乗り越えていくことは、到底望め
そうもありません。


 また「病」にしても、「健康」だけが価値があるような見方で、私たちはほんとうに
安心して生きていけるのでしょうか。


 生きることも、老いることも、病めることも、死ぬことも、私たちの人生そのものです。
阿弥陀さまのほんとうの願いを聞き、苦しみを苦しみとして切り捨てるのではなく、
あらゆるものを「優劣」や「対立」の視点から見るのではなしに、それら全てに、
ほんとうの価値を見出し、生きる人も、死にゆく人も、老いる人も、若い人も、
病にふす人も、健康な人も、共に手を携えて、ほんとうの願いに生きることこそ、
如来に遇いえた私たちの往生浄土へのたしかな歩みなのです。


 私が、阿弥陀如来のほんとうの願いを聞き、ほんとうの願いに生きることこそ、
「如来は、ほんとうにいるのでしょうか」という問いに「如来、現にまします」と
こたえていけることになるのです。


ラジオ放送の西本願寺の時間から、その一部分をご紹介しました。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
次回は、6月24日新しい内容に変わります。


本願寺出版社 みほとけとともに  第一巻  平成14年2月5日放送
      中央基幹運動推進相談員 三浦性暁師