第602回 信心まことに得る人は

 平成16年 8月 5日〜

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ご文章を拝読しながら思いました。
月末の31日に拝読する大聖世尊の章の中に


「ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなうれば、極楽に往生すべきように
おもいはんべり・それはおおきにおぼつかなきことなり。」とあります。


『世間の人は、信心がなくても、南無阿弥陀仏と念仏しさえすれば
浄土往生ができるように思っていますが、それは大きな心得違いです。』と
現代語では解説してあります。


口先だけで南無阿弥陀仏と云えばいいというのではありません。
このことは、親鸞聖人がお書き頂いたご和讚の最初にある
二つの和讚で明らかです。


全ての和讚の最初にくるもので冠頭讃といわれるもので、

弥陀の名号となへつつ 
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり

誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞ ときたまふ 

 
 二つの和讚です。

最初の弥陀の名号となへつつの方を

次のように現代語訳はしていただいています。(白川晴顕先生訳)

衆生を信じさせずにはおられないという阿弥陀仏の名号を称えながら、
称える心が名号のいわれをそのまま信ずる身になった人は、
如来のはたらきをいつも憶えて忘れない心が具わるとともに、
仏恩報謝の念が自然にほとばしり出てきます。


と、もう一つの誓願不思議をうたがひての方は

本来、成仏できるような要素をまったくもち合わせていない凡夫を
信心一つで浄土往生させると誓われた勝れたはたらきを疑って、
自分が称えた念仏に功績(てがら)を期待して往生しようとすれば、
方便化土と呼ばれる世界に五百年のあいだ止まって、いたずらに
虚しい時を過ごさなければならないと「大経」の胎化得失の文には
説かれています。


とあります。

阿弥陀仏の名号を称えながら、称える心が名号のいわれを
そのまま信ずる身になった人は、如来のはたらきをいつも憶えて
忘れない心が具わるとともに、仏恩報謝の念が自然にほとばしり出てきます。 

とあります。


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次回は、8月12日に新しい内容に変わります。